紅花怨 4

 下働きをしながらシャラは女達の生活に馴染んでいった。女将の言う通り、酷い失敗をしない限りは誰もシャラのことを殴ったり馬鹿にしたりはしなかった。
 同性の心地好さをシャラはようやく信じられるようになり、同時に他愛のない雑談を楽しめるようになり、言葉は次第に直っていった。女将はそれも狙って女達の雑用をする小間使いにシャラを混ぜたようだった。
 やがて簡単な読み書きができるようになった頃、白い衣装をもらって店棚の給仕に出るようになった。遊女の衣装は赤と金に色が決まっている。白い衣はいずれ遊女になる証し、客の前にその色の衣装を身に付けて出ることで、正式に水揚げの披露目をする前の品定めをさせるのだ。
 娼家では一階で酒や食い物を出す。客のついていない遊女たちはここへ大概降りて雑談の相手を務めているし、話が合えばそのまま客の相手をすることもあった。外通りを歩く男にも女達が見えるように一階は全て格子張りになっており、食堂へ出ない女達はやはり格子越しになった居間で思い思いに時間を潰したり、外の男に声を掛けたりしている。
 いずれその列に混じることをシャラは悲観しなかった。外の世界は生易しくない。シャラにとって、既に妓楼を出た場所は「外の世界」であった。
 男たちの目に触れるようになってシャラは自分が美しいと言われていたことをやっと思い出した。格子の外を通る少年たち、シャラに年齢が近い連中は良く声をかけてきたし、それは上がり込んで来る客も変わらなかった。
 ──その男に出会ったのは、そんな日々の中であった。視線を感じてシャラは顔を上げた。
 多分、男だ。格子の向こうから自分を見る目付きには慣れていたし、こうしたときにすぐに振り返っては格が落ちるということも遊女たちから聞いて学んでいた。シャラは店の中の壁に貼られた鏡へ視線をやった。
 鏡に映る真逆の世界に相手を探し、シャラは思わず振り返った。
「かあ、さん……?」
 呟いた自分の声に、シャラはぞっとした。季節は移り、母が世を去って既に半年以上が経過している。むしろをめくって出てきたときの、あの固そうな肌の具合が自分の首裏を撫でたような気がして身が震えた。
 だがそれも一瞬だった。
 背が高いし、第一身体付きは最初に感じた通りに紛れもなく男だ。母に似ているという一点が憎く、シャラはそれを睨み据えた。母の仕打ちを憎むことができるほど、シャラは境遇を比較する事と検討することを終えていた。
 男はシャラの視線に怯んだ。それで十分だった。シャラは目線を外した。興味がないということを相手に示すことは、シャラにとっては相手に対する懲罰でもあった。男はすぐにその場を立ち去った。店棚に来る様子はなかった。何故か激しい落胆と反動の怒りを覚えてシャラは鼻を鳴らした。
 次に彼に遭ったのは、遊女たちの使いを頼まれて外に出た時のことだった。頼まれた小物を持って帰る途中、タリアに巣食っている少年たちにからかわれてシャラは立ち往生していた。彼らは自分たちに年齢が近く、顔立ちの整ったシャラを格子の外からでも構いたがったが、外に出ればそれは尚更だった。
 彼らはタリアの更に奥に徒党を組んでいて、若くて歯止めのきかないだけに物騒な連中でもあった。
 最近大規模な抗争があるようだから彼らに関わるんじゃないと女将も溜息をついている。だが金さえ払えば彼らとて客であり、シャラの将来の客の候補でもあった。
 うまくあしらいかねて困惑していると、男はふらりと現れた。彼は少年たちの上に君臨する立場であるようだった。シャラを構っていた彼らが一斉に怯み、視線を下へやったからだ。
 少年たちを追い払ったのを待って、シャラは彼の面差しをじっくり眺めた。母に似ていると思えたのも無理のない、線のきつい美形ではあったが、派手さや華やかさの抜けた素っ気ない表情のほうが印象に残った。
 この前の奴ね、と言うと男は微かに眉を動かした。内心の動きが殆ど表情に出ない相手はひどく気をそぞろにさせた。
 他愛ない話を仕掛けると子供扱いにされてシャラは多少気分を損ねる。だが、むくれた表情になったときに彼の視線が再び自分の顔の上をかすめ動いて確信を持った。
 ──この男は、あたしに興味がある。
 新顔かと聞かれてシャラは頷いた。こちらに関心を持っていることが分かれば十分であった。雑談を切り上げ加減にシャラは名乗った。相手の名が聞いておきたかったからだ。少年たちにからかわれたときに彼の名を出せば、先ほどと同じことが期待できると言えた。
 男の声は淡々としていた。
「ライアン」
 耳鳴りを聞いたような気がした。その名がぴしゃんという音を立てて胸に落ちたとき。微かな叫びを聞いた。
 あたしのこと見つけてくれたの? 助けてくれたの?
 ──お兄ちゃん?
 馬鹿馬鹿しいとシャラは思う。決して珍しい名前ではないし、年齢が合わないわけではなさそうだという推測だけでこんな風に思うのは間違っている。けれど、素通りすることは出来なかった。何かを考える前に唇が動いた。
「あたしの兄さんと同じ名前ね」
 言ってしまってから、自分が切り札を先に捨ててしまったような気がしてシャラは内心でひどく焦る。
 だが、同名の男にはそれほど感銘を与えなかったようで、兄がいるのかと抑揚なく聞き返されただけであった。
 そうね、とシャラは曖昧に笑った。この話を切り出すのは得策ではなかった。居心地の悪くなってきた沈黙を切り上げてシャラは店に戻ったが、面差しは目に名残り、忘れられそうになかった。
 母に似ている。ぞっとするほどよく似ている。母にあった爛熟した空気、華やかで匂い立つような女の濃厚な気配を取り去って無表情に俯かせたらあんな感じだろうと思われた。
 整っているが、彼の顔立ちは決定的にその色相に欠けていた。その違いだけを何度も眺め回してシャラは安堵の溜息ばかりをつく。淡い感謝は淡い恋心へすり替わっていたが、さほど深刻なものではなかった。
 シャラの水揚げはそれから二ヵ月ほどした頃に行われた。女衒の男が月経がまだかと聞いたのは、女でなければ水揚げをしてはならないという伝統のためだ。
 水揚げの権利は競りと決まっている。シャラのそれは上々というべき値がついた。相手については気に入らないが、仕方がない。それはシャラが選ぶことができるものではなかったからだ。
 初めて入れる化粧を女将の手で施され、赤と金の衣装に袖を通すと、いつか写真で見た母の姿に似ていた。母に似ていると思うとまた、ライアンのことが思い出された。
 選ぶことができるなら、とシャラは鏡に映る自分の顔の彼方に母の顔を、その奥にライアンの面影を見ている。
 ふと漏らした溜息に先輩の遊女が優しく笑いかけてきた。
「怖い? 怖がらなくてもいいのよ?」
 シャラは迷った末に首を振る。男女のことの大まかなことは知っていたが、実際のことになるとまだあやふやな部分のほうが多く、そちらのほうが不安な気はした。大丈夫よ、という遊女の声はひたすらに穏やかであった。
「後始末はしてあげるから終わったら眠りなさい、とても疲れるから。自分で何かしようなんて考えなくてもいいわ。逃げたり旦那様を傷つけたりする以外はどうしたっていい。泣きたかったら泣いてもいいし、痛かったら痛いって言ってもいいからね」
「泣くの?」
「人によってはね」
「……痛い、の?」
「大抵の人はね。でも死ぬようなことはないから平気」
 にこりとする遊女の笑みに応えるためだけにぎこちなく唇をほころばせながら、シャラは視線を窓の外へやった。
 女衒の男が夜になれば分かると言った通り、ここは全てが夜に最高に美しくなるようにできた街であった。煤けて見えた金泥も古ぼけたように思えた塗の赤も、灯火に照らされて鮮やかな紅と金にかわる。化粧を終えた女のように。
 ──シャラはふと視界を何かが動いたのに気付いてそれを目で追った。黒々とした闇を浮遊するものが舞うようにタリアの境界門のほうへ行く。羽ばたく度に青く光る鱗粉が撒き散らされて月星を渡るようだった。
 蝶だ、とシャラはそれに視線をあてる。ふらふらと飛ぶ頼りない羽ばたきは、それでも案外しっかり宙をたゆって進んでいた。境界門を今夜中には出るだろう。
 シャラはゆるい笑みをこぼした。今夜、シャラも正式に遊女の列に入る。妓楼を出るときは身請けされるか死んだときだ。
 蝶を追って死んだ母のことが何故か思い返された。
 まっすぐに無事に出てお行き。シャラは祈るようにすがるように、その蝶の軌跡を目で追いかける。
 大振りな羽が上下する度に青く美しい炎が燐光となって黒い闇へ消えていく。それがすっかり見えなくなるまで見届けたいとシャラは願う。その道筋を脳裏に焼きつけようとするまで。道を覚えていつか、ここを出ていくのが幸福でありますように。
 誰か祈って、あたしのことを。誰か願って、あたしの幸福を。
 シャラは蝶の消えた闇へ首を向ける。母の声が何かをいうのが耳の奥でした気がしたが、無視して蝶のはばたきを焼きつける。
 シャラはそれを、じっと見送る。
 シャラはそれを、ずっと見送る。

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