紅花怨 5

起きなさいよ、とシャラは隣の男を揺すり起こす。シャラとそう年の変わらない少年──それは確かに男と呼ぶよりはそう呼ぶほうが似つかわしかった──は眠たく重い瞼をこすり、手を伸ばして寝台の脇に置いた彼の時計を掴み取る。
「なんだよ、まだ夜明け前じゃん……早いって……」
「駄目。今日はねえさんを送る日だから、絶対に早起きするって決めたの。ほら、さっさと帰ってよ」
もう、とシャラは少年の肩を揺すり続けた。ちぇ、と軽い舌打ちをする彼は確かに不機嫌だが、それにはシャラは頓着しない。
男女の力関係は最初から決まっている。逆転することは滅多にない。彼はシャラの崇拝者でシャラは彼を憎くは思っていないが特別視もしておらず、少年もそれを分かっているから大抵折れる。
のそりと起き上がった少年の服を、裸のままでシャラは拾い投げてやる。昨晩陽気に騒いだ名残りで二人とも服は脱ぎ散らかしたままだったが、夏のことで肌寒くはなかった。
「お前さぁ、俺、客なんだけど……」
「あら、そうだった? あたしが嫌ならもう買ってくれなくたって結構ですよぉーだ」
チアロなんか来なくたってお客はいるもんね、とシャラはつんと顎をそらし、そっぽを向いた。チアロはやや不満な顔をしたが、やがて長い溜息をついた。彼の負けだった。
「そんな言い方することないじゃないか。お前さ、絶対絶対俺がお前を嫌いにならないって思ってるだろ」
「違うの?」
「うーん、違う……と、思う……」
シャラは吹き出す。チアロのこうした馬鹿のつくほど正直で、底の抜けた嫌味のない明るさは嫌いではなかった。ころころ声を立てて笑っていると、チアロもまた同じように笑った。シャラは笑いながら自分の脱ぎ捨てた服を拾う。
水揚げから既に五年が経過しており、シャラも既に新米と呼ばれる列にはいない。新米というのは例えば階下の部屋にこの前入った金髪の女のことだ。新しい女は新しい敵でもあり、新しい『いもうと』でもあった。妓楼は女将をかあさん、先輩の遊女をねえさんと呼んで疑似家族を構成する。
それを思い出しながらシャラは肩をすくめ、とりあえず薄い人工絹のスリップドレスをかぶった。正絹は重い上に高価で、シャラでもまだ三枚しか持っていない。
チアロは適当な事をのべつまくなし喋り散らしている賑やかなたちだが、若い性急さのままに、シャラの着ているものにはそれほど興味を示さなかった。破れてしまったらと思うと、彼に限らず相手が少年のときにはシャラは装わないことに決めている。そんなことをしたところで、喜ぶ連中ではないのだ。
チアロの服を全てかき集めて寝台に戻ると、仕方なさそうに彼は伸びをした。しなやかな身体と肌は彼の年齢の若さを思わせた。そんなことをシャラがぼんやり思っているのは最近、中年の客が込んでいるせいでもあるのだが。
「また来てもいいだろ?」
着替えながら聞くチアロににっこり笑ってうなずきながら、シャラはその頬に軽く唇で触れてやる。こんな簡単なことで眠りを妨げられた不機嫌を直してしまうのだから可愛い。
「いいけど、ライアンの来る日はやめてよね。あんたったら、この前、わざとぶつけたでしょう? あたしがライアンが特別なの知ってて意地悪なんだ」
ライアンはシャラの常連客の一人であった。チアロほどまめに訪ねてくるわけではないが、この五年変わらずに彼女を指名する男はライアン一人だ。
わざとじゃないよ、というチアロの返答に、シャラはその腕をつねる。本来遊女は客を傷つけてはいけないのだが、チアロの性質はこんな些細なことを流すほどに軽く、また二人が馴染み出してからもう三年になるという事実が馴れ合わせていた。
「今度やったら本当に二度と口、きいてやらないから」
チアロは首肯しながらわざとじゃないんだよ、ともう一度言った。シャラは意地悪くうなずき返し、同じ言葉を繰り返して彼の耳を引っ張りながら、分かった?と聞いた。
ライアンが来るのは半月に一度程、厳格に曜日や日付が定まっているわけではないが、月に二度はその端正な顔を見ることができた。この前ライアンが来たのは七日前の事だが、部屋に早速案内しようとしたところへ折り悪くチアロが顔を出し、チアロを弟のように扱っているライアンは奢りだとチアロの肩を叩いて帰ってしまった、というわけであった。
「本当にあの日ライアンが空いてたの、俺も知らなかったんだって。本当だよ、ライアン最近タリア王屋敷の方に居続けで俺も全然会わないもん」
シャラはむくれて唇をとがらせた。
ライアンはタリアの裏に住み着く少年たちを束ねていたのを足掛かりに、タリアという特殊な社会をまとめている機構の中に入っていこうとしていた。いずれ彼はこのタリアを治める王になるだろう。タリアという街は特殊だ。一ヵ所の境界門からしか出入り出来ない、巨大な袋小路。
境界門から続く大通りには妓楼が立ち並び、賭博場が続いて連れ出し用の旅館の華やかな色合いが被る場所には街娼が立つ。路地から奥へ入れば延々と続く暗い闇で、その先は貧民窟と呼ばれる場所へ続いている。
この街では法律など意味がなかった。犯罪も珍しくはなかった。国はこの街の治安を法治に組み込むことを放棄し、タリアを特別地区と呼んで区別した。タリアの絶対権力者はタリア王と呼ばれ、代々の屋敷が境界門からまっすぐに歩いたつき当たりにある。
タリア王は血統ではなく、まして役人でもない。王が新しくなるときは抗争の末の代謝であり、結果であった。
それを勝ち抜いた者が屋敷を手に入れ、そこに付随する特別地区総安治官という名称を許される。現実の結果を国は追認するだけ、毒を以て毒を制する思想が蔑まれている事実を教えてくれた。
現在のタリア王はアルードと呼ばれている男で、三年前に前王を謀殺してその椅子に座った。ライアンはその暗殺にも深く関わったようだ、というのはチアロの言うことで本当かは分からない。
チアロはシャラの崇拝者であると同時に熱心なライアンの信者であったから、その彼の賛辞は本当かどうか、悪意のない誇張が含まれていることもあるだろう。が、ライアンがアルードの片腕であるのは確かだった。
そんな事情は分かっているが、シャラは諦め切れない。
「だからってね、遠慮して帰るくらいのことしなさいよね。ライアンは一度帰るとまた来るのに時間があくんだもの。あんたみたいに暇じゃないんだから」
チアロは面白くなさそうに俺だって暇じゃないよ、と呟いている。それが嘘ではないこともシャラは知っている。チアロは昔からのライアンの子飼いで、彼はライアンが面倒を見なくなりつつある少年たちの組織をまとめる幹部の一人だ。
あくびを吐きながらチアロはシャラの額に軽く唇を落とした。 チアロは背が高い。彼をシャラが初めて見たのは五年前だがその頃の様子からは信じられないほど身長が伸び、手足もすくすく育った。既にライアンの背丈も頭一つ追い越している。
明るく楽天的な性質はその頃から知っていたが、ライアンの寡黙で多くを表さない性質にどうしてあれが合うのが不思議ではあった。幾度かライアンがこの娼家を借り切って少年たちの捌け口に供するのにはべった事があるが、チアロはシャラにするのと同じようにライアンの側で勝手なことを喋っているだけだった。
だが、チアロの喋りにも口調にも、裏がない。その気楽さと軽みが確かに側に置くのに愛される気質なのだと最近。やっと自分に照らしてシャラは分かるようになってきた。
苛めたり拗ねたりするのは、決して彼を嫌っているからでもない。軽口を言い合う友人のような感覚が気に入っていたし、時折覗く彼の真剣な恋心を確認すればそれは自分の気分を慰めるのだった。……それがどんなに下らないことかも、承知しつつ。
チアロを帰してシャラは部屋の簡単な掃除をし、化粧箱の奥から貯め込んできた小遣い銭を寝台の上にあけた。
金額を数えてシャラは溜息をつく。例えば衣装や化粧品、装身具の類いは全て自腹だった。客の中にはシャラを気に入って小遣いをくれる者もいるが、大概はしわい。
シャラは稼ぎは悪くないほうだったからそれなりに金を持っているが、自分の身柄を買い受けるには多少足りない。第一、それで金を使い果たせば外へ出ても同じことだ。母と同じように疲れた顔付きで始終何かを罵りながら街角に立つしかない。
やっぱりとシャラは現金を化粧箱にしまって別の小箱を取り出した。この黒壇に金泥の絵のついた箱はつい先日のシャラの十六の誕生日にライアンがくれたものだ。中はこの五年で客から貰った宝飾品で、考えながらもシャラは珊瑚の腕輪をつまみ出した。
遊女の衣装は赤と金に定められていて、他の色の服は持てない。だからシャラは髪を飾るリボンは沢山の種類を集めていたし、それには目がなかった。客もそれを知っているから、シャラに土産としてリボンを持参してくれる男も一人ではない。
未使用のリボンの中からシャラは腕輪にあう色のものを選び出し、丁寧にに結んだ。
この日はシャラが世話になってきた遊女が身請けされて出ていくことになっていた。迎えは昼前ということで、朝からシャラはそちらを手伝うつもりだったし、女将も許してくれた。その遊女がシャラを可愛がっていたのに配慮してくれたのだ。
シャラが部屋へ入っていくと、遊女はシャラに笑いかけた。この女は飛び抜けて美女ではないが、馴染む気性がよく、指名が長続きする。その一人が彼女の身柄を引き受けて連れていくのだ。
「ねえさん、これ、……」
何を言って渡せばいいのかをシャラは分からなかったから、そんな言葉を口の中で呟いて珊瑚の腕輪を渡した。妓楼の女達は女将をかあさんと呼び、自分たちを姉妹になぞらえる。疑似家族のような空気をシャラは嫌いでなかった。
女は少し笑った。ここに来る以前誰からも感じることができなかった慈愛の空気を、シャラはこの女から一番ふんだんに貰っていた。彼女が出ていくのはひどく寂しかったが、それがこの女の幸福に繋がるなら止めることではない。それに、自分のこの物寂しさが子供のような甘えであることくらいは分かっていた。
「いい子ね、シアナ。ありがとう」
シアナというのはシャラの源氏名であった。シャラはうなずき、殆ど支度が済んでがらんとした部屋を眺めた。遊女の部屋は格の違いがすぐに出る。シャラの部屋は悪くないほどの広さを持ち、調度品も内装も美しいが、この女のような部屋はまだ遠そうだ。妓楼の顔である「大姐」にはたどり着けそうにない。
何故かシャラは指名が長続きしないのだ。何がいけないのか、何が足りなくて良くないのか、シャラにはよく分からない。シャラ自身は客の機嫌を損ねた覚えがないし、元来シャラは男の気を引く術を知っていた。最初の頃は良く指名してくれた男も次第に減っていく。一見が麗しいからシャラの稼ぎは悪いわけではなかったが、常連と呼べるほど長く馴染んでいるのはライアンを別にすれば僅かに数人だった。
……その内の一人がチアロであるのは愛敬というものだ。
「この部屋とも今日でお別れね。早くここに入るか。それともあの部屋を出るか、どっちかになるといいね、シアナ」
ゆったり言われてシャラは微笑んでうなずき、溜息になった。シャラの悩みをこの女は知っていた。気にしないのよと言われて曖昧に笑う。おいでなさいと手招きされて女の隣に腰を下ろせば、女はシャラの肩を抱いて、ふくよかな声音で囁くのだった。
「気にしないのよ。何もかも、なるようにしかならないんだからね。気の合うとか合わないと同じように体の相性もあるのだし、男の人の気性もあるんだからね……」
いつもと同じような慰めの言葉に、シャラは何度も頷く。そうやって無聊を撫で回し、シャラはどうにか事実を飲み込んでいる。十六を越してそろそろ体も大人に近くなり、花開いた美しさを備え始めて一見の客もすぐに捕まるようにはなっているのだ。
ただ、先が続かないだけ。シャラの漏らした溜息に、女は宥めるような笑みを浮かべてシャラの髪を撫でた。
「こつを教えてあげる。秘密よ、シアナ。お前の一番好きな人は誰? ライアン?」
少年たちの王から確実に階段を上りつつある彼の名を、この町の女達は皆知っていた。次期タリア王に一番近い男であるし、目に留まれば破格の未来への可能性が開ける。そしてライアンが水揚げの直後からシャラを指名しているのもこの妓楼にいるものなら知らないはずもなかった。
シャラはうなずいた。彼の線の細い、素っ気ない美貌はシャラの視線をいつでも惹きつけた。今ではチアロが追い越してしまったが背も低いほうではなく、しなやかな体に重い存在感がある。
多分、とシャラはいつもその横顔に見惚れながら思っている。ライアンがライアンである故は、その場の空気がはっきり変わるほどの印象の深さと重さなのだと。
そしてライアンとの間のやりきれない、誰にも言えない秘密がシャラの心に一番の負荷を与えた。
ライアンが自分を愛しているのは分かっている。だからどうしようもなく焦れているのだ。シャラにとってライアンはたった一人の救世主であり、シャラの神であった。その言葉を、姿を、全てを信じ愛している。
順番などというものではなかった。シャラにはライアンだけが、唯一の光なのだ。
「お客の相手をするときは、好きな人のことをずっと考えたらいいわ。どの客の相手をするんでも、その人をライアンだと思えばいいじゃない? そうすると、自然に恋するようになれるから」
シャラは渋い顔をした。客は若いものばかりではないし、似つかないものの方が多い。それにライアン以外は誰も愛していない。
「だってぇ、変なの、多いんだもん……」
言い訳になってしまった歯切れの悪さを、遊女は朗らかに笑った。シャラも自分の口調の可笑しさに同じような声を立てた。でもと不意に付け加えた女の声は真剣だった。
「ここに男の人は夢を買いに来るのよ。綺麗な部屋に着飾った女がいて、それが自分のものだっていう錯覚を、高いお金を払って買うの。そういう幻想を作って上げるのが……あなたの仕事よ」
私たちの、と言いかけてあなたのと修正し、女はシャラに微笑んだ。シャラは曖昧にうなずいた。
ライアンだけがシャラにとっては確かにたった一人の大切で特別な他人であって、他はその空いた時間を埋めるためのものでしかない。他の男の賛辞を聞いていれば気も紛れるし、チアロのような陽気な男も悪くないが、結局シャラの心を占めているのはライアン一人であった。
だが、そのことを思う度にシャラの視線は僅かに下を向く。
ライアンは確かにシャラのものだが、同時に決してシャラのものではなかった。愛されている、けれど辛い。黙ってしまったシャラを引き寄せて遊女は大丈夫よと囁き続けた。
その声の安らかなゆらぎに、シャラはこの女に同じように諭されて迎えた水揚げの日を思い出した。ねえさんと呟くと別れの寂しさに引かれるように、目の裏がぼやけ、にじんだ。

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