紅花怨 6

 ライアンの訪れはいつも突然であった。月に何度かは顔を合わせているが、ライアンのほうから次は何時という話は聞かないし、シャラもその約束はねだらない。
ただ、来るなら来るでほんの僅かでいいから猶予をくれたらもう少し、綺麗にしていられるのにと思うばかりである。
 ライアンはいつも寡黙であったが、この日も同じであった。出会った頃はまるで表情が変わらないとシャラは多少脅えていたのだが、そうでもないのは慣れれば分かる。感情の起伏はあるし、機嫌の善し悪しもあるのだが、それをチアロのようにはっきりとは出さないだけなのだった。
 最初に思った通り母に良く似た顔が黙々と食事をとっている。その横のグラスの水が少なくなってきたのを見てシャラはそれを注ぎ足した。彼は酒を殆ど飲まない。
 ライアンが視線を上げ、微かに頬をゆるめた。礼を言われているのだ。シャラは肩をすくめて注文の酒を自分の盃にそそぎ、ちろりと紙めた。客の飲み食いする代金の一部はシャラにも返る。ライアンが自身は殆ど飲まないにもかかわらずそれを取ってくれるのはシャラの小遣いと体面のため、そして酒に必ずついてくるあて水のためだった。
「チアロと最近会っていないんだってね」
 シャラは卓に頬杖をつきながら、自分のところに五年間通っている男を見つめた。そうだなというライアンの返答はやはり飾り気がないが、目許が和んだ感触はあった。共通の知人の話は気が楽だったし、ライアンはチアロを本当に可愛がっている。
「王屋敷に居続けでつまんないって言ってたわよ」
 ライアンは苦笑のように頬を歪めた。仕方のない奴だと思っているのだろう。タリア地区総安治官という職をそのまま呼ぶ者はなく、それはほぼタリア王という名称で通じたし、その屋敷は王屋敷と呼ばれていた。
「アルードのほうが少し立て込んでいるからな」
 呟くライアンの顔には既に表情がない。これ以上は聞くなという態度であった。だからシャラはそこから先のことは諦める。内容を聞いたところで理解は出来ないだろうという推測もあるいは正しいはずだった。
 それに、本当にタリア王が変わるときはシャラたちにはすぐ分かる。遊女たちは通りの人の流れを見、外の様子を窺う。異変があればすぐに知れた。店棚に上がり込む男たちの気が荒く立っていれば何かあったなというのは容易かった上、その割合が高くなってくればタリアで大きな抗争があるようだというのは自然に肌で感じることができる。
 だからそれが大したことではないだろうとシャラは見切りをつける。実際、現タリア王のアルードが前の王を暗殺して新しく「王位」についたとき、外はかなりの嵐だったはずだ。
 娼家は特定の者に加担せず、独自の組合を作っているからその争いには関知しない。だが肌を合わせる相手のあることだからこそ、荒んでいる空気は男たちの向こう側から吹いてくるのだった。
 そして、外が嵐のときはライアンの姿はそれがおさまるまでは見えなかった。「立て込んでいる」ならライアンが来なくなることはないだろう。結局、シャラにはそれが全てなのだ。
 食事を終えるとライアンは煙管を取り出す。酒もやらないし他に特定の女がいる様子もない彼の、道楽と言ったらこれくらいだった。灰切りの小皿を彼に勧めながらシャラはライアンの手付きや伏せた目の美しい形にぼうっとする。
 女のようだと以前ライアンは顔をしかめていたから彼がそれを良くは思っていないのをシャラは知っているが、こんなに美しい男はそうはいない。出会った頃から変わらぬ、くっきりした顔立ちに相変わらず明るい華やぎはなかったが、それもまた彼を包む被膜となって彼の放つ世界を完全なものにしている。
 自分の顔に当たるシャラの視線に気付いたのか、ライアンが目をシャラに寄せた。思わず溜息が漏れた。ライアンはゆるく息を吐いて椅子に座り直した。
「俺の顔が見たければ鏡を見ていろ。同じ顔じゃないか」
 ライアンとシャラの顔立ちは確かに似ていた。先日に別れた遊女もそんなことを言ったことがあった。二人とも線のきつい整った美形であったし、それの醸す空気が特に似ている。
 これがなにゆえなのかシャラは知っている。自分は母に似ていて、ライアンも同じなのだ。母を中核に男と女に分かれたようだ。そして、これがライアンとシャラの間に横たわる大河でもあった。
「そうかもしれないけど、ライアンのほうがずっと素敵」
 シャラはそんなことを口にして、ライアンの顔を覗き込んだ。シャラの顔はライアンよりもさらに母に生き写しになりつつあった。女将も目を細めては回想を語る。
 だからシャラは自分の顔が嫌いだ。この顔が唇を歪めたとき、不機嫌に引き釣ったとき、怒りに震えたとき、どんなに醜く歪むか知っている。体に流れる血の仕組みがいつしか母親に全てを似せていくのに連れて、自分がその人生の轍に乗せられていくような恐れが這い上がってくる。
 ライアンの顔立ちは母の美貌の幻を漂わせてはいるが男、奇妙に色香だけが抜け落ちて冴えざえとした印象に片寄っていた。
 触っていい、とシャラは聞いた。ライアンがうなずくのに任せて彼の首に触れ、それから顔に指を這わせる。
 肌は女に比べれば格段に堅い。ライアンは視線を伏せて煙管に残った吸殻の葉をたたき出しては新しい葉を詰めており、シャラには一瞥もくれなかった。
 不意にシャラはその頬に思い切り爪を立ててやりたくなる。心に興る衝動は憎しみに酷似しており、その激しさへの恐れでシャラは触れていた手を引いた。
 ライアンが素早くシャラを見た。爪が頬をかすってしまったようだった。途端、シャラは我に返ったように狼狽えて後ずさった。彼の機嫌を損ねるのが何よりも怖かった。ごめんなさいと言った声がもう震え始めている。
 いや、とライアンは低く呟き、何事もなかったように作業を再開した。シャラは凍えてしまったように定まらない指の痙攣を手を握りしめて押さえながらうつむいた。シャラの様子に気付いたのだろう、ライアンは再び手を止めた。
「俺は、俺を狙う奴らに慣れすぎている。反射だ。……怖がらせたなら済まない」
 それは恐らく事実なのだろう。彼は人の視線に敏感だったし気配にも神経を払っていた。ライアンの地位は安定しているようにも見えるが安定などはこの町では見せかけのものであって、確約されたものではない。
 シャラのところにくる男たちの中でタリアの者は程度の差はあれ、似たような反応をすることがある。チアロでさえ、眠っているときに物音を立てると飛び起きるのだから。
シャラはライアンの言葉に顔を無理に動かして笑顔らしきものを作って見せた。ライアンは苦笑し、ようやく詰め終わった葉に火をつけて煙管をくわえた。
「……怒らないんだ」
 シャラは眩いた。ライアンはちらりとシャラを見たが黙ったままでうなずいた。
「別に、何を怒らなくてはいけない」
 ややあってシャラが黙り込んだのを気づかったのか、ライアンが付け足した。そうね、とシャラは薄く笑った。
「猫に引っかかれたからって怒る人はいないものね」
 結局、そういうことなのだとシャラは思う。可愛がられている愛玩物に遇ぎないのだという屈折と、それでもライアンが来れば彼の側にいて少しでも同じ空気を吸いたいという願望がない混ぜになって、彼が来るといつも軽い躁鬱になる。
 下らない言葉や下らない会話をいつまで自分たちは続ければいいのだろう。先が見えないことがシャラの気分を一層凍えたものにしてしまっていた。
 ライアンは首をかしげ、お前がそう思うのならそう思えばいいさ、と呟いた。シャラは一瞬、頬の筋がぴくんと痙攣したのを感じた。血の巻く潮騒を押さえなくてはと目分に命じるときはいつもそのひきつりを感じるのだった。
 今、あたしはどんな顔をしているんだろう? 母があたしをぶちまわったときと同じように蒼白で震えているのだろうか。それとも怒りで顔を染めているだろうか。
 いずれにしろそれはライアンの気を引かない。彼はシャラのこの顔色には動じないし、構ってくれることもなかった。
「いいの、ライアンはあたしが怒ろうが泣こうが関係ないものね」
 不用意に口から漏れてくる言葉は他人を傷つけるためだけに生まれてくる。そんなことを言いたいわけでもなく、彼を責める時間を持ちたいわけでもなく、シャラの望みはいつだって一つなのにどうしてこうなるんだろう。最近はこんなことばかりだ。
「そんなことはない、関係がないなら来ない」
 そしてライアンの否定もまた、同じ言葉であった。
 ああ、まただ。
 膨らんだ不満が叩き潰されたような落胆でシャラはライアンからはなれ、椅子の上で膝を抱えた。
 ライアンが立ち上がり自分の隣に座るのもまた、同じであった。良くできた芝居を月に何度か二人でくり返している。そんなことを思えば滑稽でシャラが真剣な分だけ惨めに思えた。
「関係ないと言うな。お前はチアロの半分くらいで良く喋るが、大半が愚痴だと流石に返事をするのが億劫になる」
「じゃあ、来なければいいじゃない」
 嘘よ。シャラは泣きたくなる。嘘よ。そんなこと思ってない。あなたがいつでもこの部屋にいてあたしだけに笑ってくれたらどんなにいいだろう。
 いつもそれを考えている。いつもいつも、それだけを考えている。あなたのこと以外、他には何も要らないのに……!
 胸にわだかまるものが喉に詰まってシャラは膝に額を押し当てた。こんなとき、ライアンは絶対に自分に触れない。関係ないと言った言葉は半分当たりで半分外れだ。シャラは胸の奥から次々に沸き起こってくる震えを殺そうと溜息をつく。
 いつの間にか、溜息は鳴咽になっていた。こぼれ落ちる涙をシャラが拳でぐいぐい拭っていると、ライアンの腕はシャラの肩を抱き、落ち着かせるように何度も手のひらで柔らかに打つ。
 優しい人、とシャラはその手の温みを感じるたびに思う。優しくて、そしてとても冷たい男。
 あたしに踏み込む気のないくせに、こんなときは優しい。下手な言葉など何の慰めにもならないのを知っているから何も言ってくれないし、何もしてくれない。
 けれどあたしのことを思っている。あたしの望む愛でなくても。
 抱かないなら帰ればいい。無駄金を使ってくれる必要なんかない。同情なら欲しくないし憐憫であるなら尚更だ。
 ──馬鹿にしないでよ!
 そんな風に言えないときは、どうしたらいいんだろう。
 シャラは顔を上げて、自分と良く似た面差しを持つ男を見つめた。今度はその顔立ちに見惚れるためでなく、追憶のために。何度も蒸し返しすぎて本であるならもうすり切れているだろう記憶は、思い返す度に一層鮮やかだった。
 後悔というならそうだ。なぜあんなことを言ってしまったのか、悔やんでも悔やんでも時間は戻らず、その言葉はライアンの脳裏に刻み込まれたままで風化することもない。
(あたしの兄さんと同じ名前ね)
 いいえ。それよりも水揚げが済んだ後だ。そう、あの日。ライアンが少し怖い顔をしたあの幼い日……
 あれは水揚げが済んですぐの頃だった。水揚げの前にライアンに競りに参加して欲しいと頼むと子供は苦手だと断られてシャラはひどく落胆したが、シャラのことを哀れに思ったのかライアンは水揚げが済んで遊女になれば一度指名すると約束をくれた。
 彼は自分から言い出した約束には律儀なたちだった。そんな言葉を反故にしても良かっただろうに、言葉の通りにシャラのところへ来てくれたのだ。
 シャラは嬉しかった。妓楼へ流れてくるまでに母が散々ひどい目に遭ってきたのを見ているから、約束を守ってくれたことと一度外で救ってもらったことの二つはシャラにとっては宝石のような事実だったのは確かであった。
 シャラにとって幻の兄の面影が多少ライアンに重なっていたような気がするのは本当だった。その頃はまだ恋という言葉も知らない、本当に自分は子供で、仄かな憧れをすぐに好意だと置き換えてしまえるほどにいとけなかった。
 あの頃シャラにとっての理想は自分で作りあげた兄の幻想であり、それにライアンが近いということだけを話すつもりで、外で助けてもらったときに自分がどれだけ嬉しかったかということだけを口に乗せた。ライアンには興味のない話だというのは知っていたし、彼は確かにそれを聞き流していたはずだった。
 あの瞬間まで。
「多分あたしは兄を待ってたんだと思うのよ。ライアンって名前を聞いたときにとても嬉しかった。お兄ちゃん、あたしを助けに来てくれたのねって思った……」
 シャラはそんなことを言いながら自分でその馬鹿らしさを笑った。兄の顔を知らないのは事実だったし、もしかしたら兄は父親に似ていて母に似つかないのかもしれないのだ。
「馬鹿みたい、顔も知らないくせに」
 呟きにライアンが一瞬おいて反応した。確かに不思議な話に聞こえるとシャラは思い、苦笑しながらその理由を訳別した。母の話にしか登場しない兄、生活のために兄を売り飛ばした母。
 ライアンはその話に初めて興味を示した。彼の気を引き付けられたことが嬉しくもあり、また母の非道を訴えることができるとも恩い、シャラは勢い込んでその顛末を語った。
 同情でもいい、兄と同じ名前を持つ人が自分を気に入ってくれたら嬉しかったのだ。代価行為であると薄く承知していたような気もしたが、シャラは確かに真剣だった。
 ライアンはじっとそれを聞いていた。それからシャラの顔を見つめて寝転んでいた寝台から半身を起こし、言った。
「兄さんってのは年は幾つだ」
 どうしてそんなことを聞くのかシャラには分からなかった。ライアンと兄は別人で、それを重ねて見たがっているのが自分の空想なのだと先に付け加えたはずだったが、聞いていなかったのか。だが、自分に何かを尋ねてくれたのも単純に嬉しくて、年齢は生きていれば十八だろうとシャラは答えた。
 シャラは知らなかった。ライアン自身が母親の虐待の末に芸団に売られた子供であり、その時十八であったことを。
 それを後になってライアンの部下の少年から聞いたときにやっとライアンが何故その時に真剣な顔をしたのか分かった。分かったときには遅かった。知っていればそんな話はしなかったはずだ。
 彼はあたしを妹だと思っている。もしくは、思いたがっている。
 シャラはその話には戸惑いしか感じなかった。もし本当にライアンが兄だとしたら、その身に流れる血の半分はあの母のもので、それは厭わしく忌まわしいものであった。
 だがその一方で妹だとしたら、自分はライアンとの間に永久に切れぬ絆を持つこともできる。だがその瞬間、二度と彼に女として愛される道は閉ざされてしまうだろう。その迷いが長く残って自分は素直に兄と慕うことも、突き放して違うのだと叫んでしまうこともできず硬直したままだ。
 ライアンはシャラに会いに来る──妹だと思っているから。
 シャラは暗く苛立っている──兄だと思っていないから。
 そのまま決定的な証拠も確定的な事実も見つからないまま半端に時間だけが過ぎた。次第に色濃くなっていくライアンヘの思慕は、彼が血縁であるということを否定する方向へ傾こうとしているが、ライアンはシャラが何を言おうと態度を変えなかった。
 状況は似ている。母の面影も確かにライアンにかぶる。写真はここに連れてこられたとき、アパートに置き捨てて持っていない。彼が母と生き別れたのは、彼が六才の頃だという。ライアン自身の記憶は既に消えかけており、母の名前にも首を振った。
 何度か兄を見ているはずの女将も首をかしげた。
(あの子はいつも下ばっかり向いててあんまり正面から見た記憶はないね……確かにお前の母さんに似ていた気はするけど、子供の頃は顔が変わるからあてにはならないよ)
 結局、誰も確かなことは知らないのだ。そして決定的なことが明かるみに出ないという事実をライアンは肯定の材料とし、シャラは否定の拠点とした。
 だからライアンは自分のところに来ても自分を抱かない。出会った頃には子供には興味がないと言われたから自分がもう少し年を重ねることで消えていくかせだという思いがあった。だが、表にしてしまった邪悪な札は何なのだろう。
 本当に兄だとするなら、自分を罵倒する引き合いであった相手であることで、多少複雑な思いはするが家族を得ることになるだろう。妹だと思うなら身請けしてここから出してくれるのが当然で、ライアンはその金は十分に持っている。
 その中途半端さに半ば憎しみに近いような苛立ちを感じながら、ライアンを突き放すことができない自分の弱さを呪いながら、それでも彼を恋している自分の愚かさを嗤いながら、シャラはライアンの来る日には沢山の地獄と徴かな天国を見ている。
 彼の肩越しに。眠る横顔に。程度を越えない甘えを許してくれる残酷さに。いつかと夢見る自分の馬鹿馬鹿しさに。
 シャラの体面を考えているのかシャラがライアンを自分の客であり特別だと広言するのを咎めない。それを違うと否定するとシャラの誇りに傷を入れるだろうと思っているのだ。
 好き放題にそれを喋り回りながら、シャラはライアンと寝たことがないのをひた隠しにしている。ライアンはシャラを尋ねた日はほぼ例外なく泊まっていくが、遊女の部屋にいて何もないなどというのはその女に対しての侮辱以外の何物でもないからだ。
 シャラは溜息になる。自分はあやしい路地に迷い込んでしまった。曖昧であやふやな、はっきりしない母の亡霊に捕まってしまった。最初に出会った頃のような単純な自負は消え去って、残されたのは自分の心と決して自分になびかない、自分を大切に愛し思っている男だけ……
 もう一度シャラは嘆息した。瑞々しい奢りを持って何の迷いもなく彼に視線を向けていられた頃は遥かに遠かった。その後の沢山の現実うつつの鎖、夢幻の戒めはシャラとライアンの身にとぐろを巻いて、シャラの心だけをこの部屋に閉じ込めてしまった。
 望んでも望んでも得られないものに恋するのは辛い。苦しくてたまらないのに抑えもきかない。最初の頃ライアンが自分のところに通って来るのは、自分がもっと大人になるのを待ってくれるつもりなのだという自惚れた間違いに酔っていたかったのに。
 唇を噛んで俯くと、ライアンが自分を気遣うように眺めているのが分かった。言葉の数は多くないが、彼が自分を大切に思っているのは分かっている。彼は欲しくないものばかりをシャラに降り注ぐのだ。
 惨めだとシャラは思った。その瞬間一度は引いた涙が上がりそうになって慌てて膝を抱え直してライアンから顔を背けた。表情を見せたくなかった。泣くと醜く歪むから。
ライアンの吐息が聞こえた。
「俺がどうしてお前に手をつけないかは分かっているはずだ」
 シャラはうなずき、でもと続けた。
「でも、それは分かっているんじゃなくて知っているだけ。あなたはあたしの兄さんじゃない。多分……兄さんはとても小さくて痩せてたから、多分すぐに死んだろうって、かあさんも……」
「それが事実かどうかは下らんことだ。確かめる方法がない以上、どう思うかのほうが重要だろう、違うのか」
 シャラは小さく首を振った。ライアンの言っているのは理屈であって、シャラの胸には少しも聞こえてこない。
「どうしてこんなことになっちゃうの。もう戻れない? 最初に会ったときみたいに、ライアンが子供には興味がないって言ったときみたいに、それだけの場所に戻ってやり直せればあたしはもう子供じゃないし、それに……」
「シャラ」
 低い声が自分を呼んで、シャラは身をすくませた。ライアンはいつまでも自分を源氏名では呼ばなかった。
「無理だな、それは。俺はお前を初めて見たとき、お前がそう思ったように母にお前が似ていると思った。だから構ったのかもしれんし、お前を見捨て切れないのかもしれん。お前がお前である以上は俺はお前を女には出来ない。やり直したところで同じだ」
 そうかもしれないとシャラは喉を微かに震わせて笑った。この言葉はライアンのはっきりした拒絶であった。それを聞いてまで執着する自分の厭わしさがどうにもならない。
やり直しても同じだというライアンの言葉には確かに彼の真事が組っており、説得力があった。五年前に戻ったところで変わらない。自分の顔が母に似ている限り、この流れはきっと同じだ。
 不意にライアンが立ち上がった。シャラは彼を見上げる。
「シャラ、お前は俺が来ると辛いのか。同じことを俺は何度でも言う。俺はお前を抱く気がないし、お前を女として見ることは出来ない。事実がどうであれ、俺にはお前を自分の妹だと思うことが重要なことだ、が」
 ふと言葉を切った沈黙が、身を切るように痛い。待ってと遮ろうとしたより早く、その言葉が耳に届いた。
「お前が来るなというならもう来ない……どうする」
 突然選択を突きつけられ、シャラはまばたきするのさえ忘れてライアンを見つめた。彼の顔は静かだった。少なくとも冗談でもなければ罠でもないのが分かった。
「そ……んなこ、と、突然、言われても……」
 口ごもり、シャラは俯いた。否、と言うことは出来なかったがそうであれば楽なことは確かでもあった。シャラの迷いをすぐに察したのか、ライアンは煙管の灰を切って上着を着こんだ。
「今日はもう帰る。次に来るときまでに考えておけ」
「泊まっていかないの?」
 たとえ隣で眠るだけにしろ、ライアンの存在はシャラを苛立たせると同時に浮き立たせた。苛立ち、怒り、泣きたくなるほどの惨めさ。そのどれもが真実であり根底にあるのは彼への思いであった。欲しいのに手に入らないから、尚更欲しくなる。よく似通ったものを既に手に入れているから、余計に執着する。そんな出口のない環の中にシャラはいる。
「アルードの方が多少立て込んでいると言ったろう。チアロとは最近はどうなってる、良く来ているのか、奴は」
 他の男とうまくいっているのかと聞かれてシャラは思い切り渋面を作った。ライアンは苦笑し、煙管をしまいながら伝言を頼む、と呟いた。シャラはすぐうなずいた。彼の役に立つことが自分にもあるのだと思えるなら、それは多少の幸福感につながった。
「クインの住処を他所に移せ、と。言えば分かる」
「誰、それ」
 聞くな、とライアンは即答した。シャラは諦めた。こう言われたら何があってもライアンは教えてくれないし、チアロは彼に言い含められていてごめんよというだけで結果は同じだ。
 ライアンがチアロに指示したことを、誰にも知られたくないのだろう。最近二人が会ってない上で頼むのは、そうした意味だ。
 余計な詮索は相手の負担になるだけよ、という先輩たちの教えを忠実に守って、シャラは分かったわ。と言った。ライアンは微かに唇をゆるめた。笑っているのだった。
 出ていく彼の背を見送りながらシャラは深い溜息になる。次に来たときには答えを出しておかなくてはいけなかった。

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