紅花怨 8

 結局次にシャラの元をライアンが訪れたのはそれから半月もしてからだった。忙しいというのは本当なのだろう。伝言をすまなかったな、と言われてシャラは微笑んだ。引越は終わったの、と聞くとライアンは曖昧に笑い、軽くうなずいた。
 いつもの習慣でシャラはライアンに何を食べるのかを聞く。前回の通告が嘘のようにライアンも淡々と答えた。彼は大食ではなかったが食事を抜くことはなかった。
 食事は部屋までは裏廊下を使って小間使いが持ってくる。その後の給仕はシャラの仕事だ。ライアンは普段と変わりなく煙管をいじり、食事を取り、煙草を吸った。
 シャラはその整った横顔をまた眺めている。この前見た少年に比べると確かに華やかさや派手さというものに欠けてはいるが、やはりライアンはいい男だという認識がシャラの表情を自然に緩めていたようだった。
 ライアンはいつものようにシャラの視線には頓着せず、自分の煙管を小皿に叩いている。小まめに灰を切ると味が良くなるのだそうだ。こつこついう音に混じってライアンの声がした。
「俺の顔が珍しいのは五年も変わらんな」
 ライアンは苦笑しているのだった。違うのよ、とシャラは溜息をついた。シャラがじっとライアンを見ているのはいつもの通りだが、今日は見惚れているのではなくてちょっと思い出してたの、とシャラはいった。ライアンの視線がこちらへ向く。話の続きを促すときの仕種だった。
「この前ね、すごく綺麗な子を見たの。本当に……綺麗でね。こんな子がいるんだなあって思ってね、ライアンも綺麗だけどその子は一度見たら忘れないくらい」
 ライアンは新入りか、と呟いて灰切に戻っていった。その声には既に興味の香りが失せており、シャラはライアンに重要で決定的なことを伝えるのを忘れていたのに気付いた。
「違うの。男の子。黒髪に青い目をした、すごく綺麗な男の子よ。チアロよりもちょっと年上、かな……」
「黒髪の、綺麗な顔の、男……」
 僅かにライアンの声が低く湿った。ライアンの興味を取り戻したのをシャラは気付き、そうなの、と身を乗り出してライアンの手から煙管を取り上げた。
「隣の子、分かる? ほら、ちょっとぼーっとした感じの黒髪の、いるじゃない。あの子が連れてたからあの子の客だけど、あんなに綺麗だと女のほうも大変よね。自分の化粧の出来具合まで気になるもの。あたしあの子に同情するわ。気が休まらないでしょうにね──って、ねえ、聞いてる?」
 ライアンはうなずき、黒髪の男、ともう一度呟いた。
「どんな顔だったか言えるか、シャラ」
 ライアンの言葉の強さにシャラは群易する。ライアンが興味を示すのは珍しいが、雑談につき合うつもりではなさそうだった。
「知り合いなの?」
「多分な。奴が一人のときに何をしようが奴の勝手だが……奴に女という取り合わせが珍しいだけだ」
 ふうん、とシャラのほうも適当に流してうなずいた。関係ないというならシャラこそこの話の部外者であると思ったのだった。面白くない話になりそうだとシャラはライアンの煙管に残る灰を掃除することに集中し始める。灰に火が残っていることがあるから気をつけろ、と言われシャラはうなずく。
 ライアンは先日の選択を切り出さす気配がなかった。忘れているということはないだろう。シャラが忘れたように振るまっているのなら、その答えは今までどおりライアンの訪問を待ちたいというものであるのを理解されているのだった。
 その見透かされ方は悔しいが仕方がない。シャラの思いは直線的で、まっすぐにライアンへ向かうものであったから。
 掃除を終えてシャラはライアンに煙管を返す。ライアンは微かに笑ってそれを卓に置いた。使わないのかと聞くと、掃除が終わったばかりだからと言う答えが返ってきて、シャラは笑った。
 こんな他愛のないことばかり重ねていても仕方がないが、空気が重くなればあの選択を切り出されるかもしれないという恐れがシャラを朗らかにしている。
 遊女の部屋だから寝台は大きめのものが一つきり、ライアンはいつものように上着と靴だけを脱いでその中へ入った。シャラは彼の上着が皺にならないように椅子の背に掛け、薄い正絹の夜着をかぶって横へもぐり込む。
 ライアンの眠りは早く、深い。そしてシャラはいつもその寝顔を見ながら見惚れたり、進展しないことに焦れたり、愛しくて泣きたくなったりと忙しかった。
 彼の目を閉じた顔には確かに母の面差しが漂っているような気もした。だが、それが何だというのだろう。ライアンもシャラも、いわゆる典型的な彫りの深い美形型で、誰かに似ていると言われることが多々ある。ライアンにとってはそれがほぼ間違いなく女であることは癩のようだが、珍しい顔立ちであるとか、印象に残る面影ではないのだ。
 シャラには兄がいたという言葉だけの記憶があるが、ライアンには母親が妊娠していたという覚えがない。子供の頃のことだから見落としていたりすることもあるだろう。だがシャラに兄がいたのは事実としてもライアンに下の弟妹がいたことを証明できる手立てはもうないのだ。
 だからシャラはチアロにそれを頼んだ。名前と大まかな年齢と、母親の名前があれば調べが付くこともあるはずだった。それにチアロには配下の手足がある。チアロはシャラに頼み事をされたのが嬉しかったのかすぐ引き受けてくれたが、それ以後の報告は芳しくない。あまり進んでいないようだった。
 ライアンに会った翌朝の躁鬱の軽い虚脱や、時間をおいてじんわり滲んでくる怒りを自分の持ち物にあたるようにチアロにあたるのは間違っているのは分かっていたが、どうしようもない鬱屈をぶつけることの出来る相手は彼くらいしかいないのだった。
 シャラは溜息をついて明かりを消す。そうすると真闇になる。表廊下と裏廊下を挟むため、そして脱走を防ぐために遊女の部屋にはめ殺しの天窓以外はないのが普通だった。
 ライアンの微かな呼吸の音をじっと聞きながら、シャラはその傍らに寄り添う猫のように丸くなる。
 猫なら抱き上げて可愛がってくれるかな? それなら自分は猫になりたい。ライアンの身辺にあるナイフになりたい。彼の美しい指が弄る煙草入れになりたい。ゆるくくわえる煙管になりたい。
 小物になりたい、猫になりたい。あなたの側で呼吸をし、あなたの側で眠り、あなたの一番近くで一番心に張り付くものになりたい。そんなものになりたい、愛されないなら。
 そんなことばかり考えながら呼吸の調子を合わせていると、自分たちの波が穏やかに合わさっていくような感覚に捕らわれた。
 ライアンの腕に捕まるようにして、シャラは目を閉じる。彼の眠りは深い。チアロのように物音に目を覚ますことはない。人の声にはすぐ反応するのは習慣だろうが、弛緩し切った油断の仕方はシャラを露ほども疑っていない証拠でもある。
 それが嬉しいことなのかどうなのか、シャラは良く分からない。あの最後通牒だって、とシャラは閉じた目の裏側にその時のライアンの表情を浮かべることに熱中している。
 それを言えばシャラがしつこくライアンに擦り寄ることがなくなるだろうという計算なのだろうか。例えば、もう来なくてもいいのよと言うと不満げながらもシャラの要求を飲み込むチアロと同じように? 胸が痛い。
 その痛みが彼に遷って死んでしまえと微かにすすり泣きながらシャラはライアンの手を握り、指をからめて眠りに落ちる。

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