紅花怨 9

 身体中が重い。月が満ちて血に汚される期間は熱っぽく、下腹部は重く、吐き気と眩暈で起きているのも苦痛だった。が、客の指名を差し置く時期にしか出来ない繕い物やら部屋の整理やらの仕事は溜まっている。
 シャラは溜息をついてのろのろと身を起こし、月の汚れのためのくすんだ赤い色の服を着た。用事があって階下に降りなくてはならない時も、この色の服の女はそこにはいない女として扱われた。そんなことは滅多になかったが。
 客が酔って破いたシーツ、すり切れた服、焦げになって焼き抜けの出来た枕。繕い物の籠を抱えてシャラは裏廊下へ出る。鋏や針は部屋に置かない。お針をするときは階下の裁縫部屋を使うのが普通で、刃物を使いたいときは女将に借りに行くのが普通だ。
 月経の時期は身体の感覚が全て曖昧に包まれてしまったように起きながら半分眠っているようだ。小まめに裁縫部屋へ行けばいいのだが、シャラを含めて遊女たちは少しでも多く稼ぎたくて月の忌みのときにまとめてするのが大半だった。
 裁縫部屋には数人の女達がいた。客引きをしない間はこの辺りで雑談をするのも少なくなかった。シャラは適当に椅子を見つけてランプを手元に寄せる。お針仕事はシャラは苦手で、更に言うなら苦痛でもあった。のたのたと針を動かしていると、先に繕いを終えた女が姉さん、とシャラに仄かな声を出した。
 隣部屋の女だった。源氏名をリーナという。一年ほど前に入ってきた女で、黒髪に大きな黒い目がぱっと見の印象に強いが、それ程の美女ではない。ただ彼女の場合はシャラと反対で飛び入りの客は少ないが、常連が多いようだった。
「あの、よければ私、やりますけど……」
 語尾を濁すはっきりしない物言いが元からシャラは好きではなかったが、針仕事を替わってくれるという申し出はすぐに断れないほどシャラには福音であった。迷っていると、他の姉妹たちがおよしよ、とさざめく笑い声を立てた。
「シアナはもっとお針をしないとだめよ。下手くそなんだから」
「外に出てもそんなことじゃ二度の勤めになっちゃうんだから」
「家のことをしっかり出来るようにしとかないとね」
「ライアンはタリア王になったら迎えに来るんだわ」
「色んなことがあるから安全なところにねえさんを入れてるのよ、いいわ、予定が立つのって」
 そうねと一斉に女達が笑った。シャラもあわせて照れ臭いような顔で笑い、笑いながら布を握る指先が痙攣しているのを感じる。
 ライアンが五年という長い期間シャラを指名しながら一向に身請けしようとしない理由を、女達はそう理解しているのだった。
 そんなことはないのだとシャラは知っているが、自分の元にライアンが通ってくる事実を自ら高慢に見せつけている手前、もうどうしようもなかった。あまり愉快な話題ではないのだが、女達は内実など知らないからシャラをいつもこうしてからかう。からかわれる度に、シャラは自分を宥めるので必死だ。
 ねえさんお針、と言われてシャラは首を振った。今は出来上がった話を自分で演じていくしかなかった。
「やっぱりいいわ、ライアンのところに行くならちょっとくらいは出来ないとみっともないものね」
 ひやかす歓声があがる。シャラは仄かに笑いながら真剣に針に取り組むふりで下を向く。ランプの影が色濃く顔に映るから、きっと自分の表情に気付く女はいないはずだった。
 ……もう少ししたら、目が疲れたふりで目をこすろう。そうでないと、涙ぐんでいることが分かってしまうから。
 微かに溜息になったとき、裁縫部屋の扉が開いて女将が姿を見せた。リーナ、と呼ぶ。
 シャラは顔を上げた。娘を呼ぶのに女将が自分で来るのは非常に珍しいことと言えた。この娼家には昔のシャラのように見習いの少女もいるし、売春をしない、ただの小間使いもいるのだ。
 黒髪の女がはい、と細い返事をして立ち上がった。女将はお客だよ、とその肩を叩いて着替えておいでと言った。どうやらリーナは月忌みではなかったようだった。彼女は元が没落貴族の荘園で働いていた小間使いで、こうした家事一般が好きなのだ。シャラには理解できないことであったが。
 着替えということは外待ちだった。こうした娼家へ来ることができなかったり、出入りしていることを他人に知られたくない客のために外待ちという制度がある。あくまでもタリアの中ではあるが、連れ出しと呼ばれる高級な貸し部屋があり、客はそこから遊女を呼ぶ仕組みだ。勿論逃げないように外待ち用の衣装というのが特別にあるし、用心棒を兼ねて一人護衛がつくことになっている。着替えておいでとはそういう意味であった。
 あれ、とシャラは首をかしげた。通常、外待ちの遊女は指名を取らない。順に回ってくる当番制が普通だ。それはリーナも同じであったのか、私は順番では、といつもの消え入りそうな細い声で受け答えしている。
「指名だよ、リーナ」
 溜息のような声音で女将が答え、早くお行きと促した。すごいわ、と女達が揃って溜息をついた。シャラも同じく溜息になる。
 外待ちに指名を付けないのは、そもそもそれで女を買う客というのは妓楼に足を入れないものであるから誰がどうだかを分からないことが多いからと、直接その妓楼へ出向かないから指名した遊女が空いているのかどうか、その場では分からないからだ。下手をすると一日待たせることになる。
 逆の論理で、指名をつけるということは破格の買値を誰かが彼女に付けたということでもあるのだ。
 リーナが慌てて針を針山に戻して部屋を後にすると。再び一斉に感歎と羨望の溜息になった。指名料は勿論妓楼と連れ出し部屋の主、それに遊女に返る。一体幾らになるんだろうという下世話な噂にシャラたちが熱中し始めるのを、女将がおよし、と遮った。
「お前たち、他の娘の稼ぎなんか気にしている暇があったら身の回りをきちんとしてちゃんと気に入ってもらうんだよ」
 何故か女将はあまり機嫌が良くなかった。リーナの買値は素晴らしく高額だったはずで、そんな取引が成立すると商売人の女将はすこぶる上機嫌になるのが、あまり喜んでいないようだ。
 シャラがそれを不思議に女将を見上げると、女将はちらりとシャラを見た。……居心地の悪いものがふと背中を撫でた気がした。
 でも、と誰かが言った。
「あの子、本当にいい客がつくわ。ねえ、この前見たでしょう、あの子の客の、ほら」
 ああ、という声があがってシャラはあたしも見たわ、と加わった。遊女たちは明らかにリーナに時折通ってくるらしい絶世の美少年の話をしていた。黒い髪に青い目だというから間違いがなかった。その少年の容貌について、女達は口々に誉めそやした。
 彼の美貌は完全という言葉では足りないほどに整い、一種の凄みさえ感じた。一度見れば目に焼き付き、声を聞けば耳に残ると女たちはさざめき、微かに興奮した口調で褒め讃えた。形の良い唇が微かに笑うと世界が白くなるほど魅惑的だと誰かが言って、そうかもという声が上がる。
「指名って彼かしら」
「でもあの子、いつも来てたじゃない」
 少年は妓楼に通ってくることには頓着していない。わざわざ高価な連れ出し料と、更に高額な指名料を払う必要などないのだ。
 いいわねぇとまた感歎の声が上がる。実際、指名料が幾らであるかはともかく、そこまでする価値を認めている客が彼女にはいるということだったから、身請けも近いだろうという結論は動かなかった。遊女たちの最終的な望みは幸福に望まれて幸福にこの場所を出ていくこと、それ以外はない。
「でもあんな綺麗な子、この世の中にいるのねえ」
「本当ね。リーナも気苦労が多いわ、お肌のしみ一つまで気になるったらないと思うもの」
 それはシャラが以前に思ったことと同じ感想だったから、つい口もとを緩めて笑った。それを口にしたいもうとが、シャラを悪戯のように微笑みながら覗き込んだ。
「シアナねえさんも、気苦労?」
 シャラは目をしばたき、それがライアンのことを指すのだと気付いた。あの少年のような壮絶な美貌ではなかったが、ライアンはそれまでは間違いなく、シャラの世界では一番美しい男であった。再び嫌な話に戻ったと殊更目をゆるめてそうね、と返す。
「ライアンも綺麗な男だものね。彼、この辺に出入りし始めた頃から綺麗な顔をしてたけど、最近凄みが増してきて、もっと綺麗」
 先輩の遊女の言葉にシャラは頷いた。ライアンが美しい男であるということは事実であった。力のある男だけが持っている、空気の色が彼をますます美しく見せる。
「お前たち、他人の客の噂は行儀が悪いよ」
 それまで黙っていた女将が口を開いた。ぶつりと切れた話題に女将はゆるゆると長い溜息になってシャラの隣に座った。
「シアナは駄目な子だね、何度教えても下手くそなんだから……」
 暖かな小言にシャラは首をすくめる。ライアンの話に移行する気配はなくて、尚更ほっとした。
 外でライアンに決まった相手がいないのは知っている。チアロがそう言うなら間違いがない。彼が気に掛けている一番の女は自分なのだ、事実がどうであれ。
 不用意なことを喋らないように、シャラはライアンのことを聞かれる度に慎重になる。それを照れ臭そうな笑みで誤魔化すのまで覚えてしまうほど。
 女将はかしてごらんと言ってシャラの縫い物を取り、手本を見せ始めた。シャラはライアンのことも客のことも口にしない疑似母にふと、感謝を覚えた。


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