紅花怨 10

 イチイは言った通りに時折姿を見せた。彼には若さを失いつつある男の変なしつこさや閉塞感がなく、本人の朗らかな気質と合わさって、気が楽な相手でもあった──何より、ライアンに少し似た細面の整った容貌の男だ。
 彼の面影の向こうにライアンの顔を見ている。それは自分でも分かっていて、シャラは自分の強情さに呆れ加減だ。
 イチイは好い男だ。年長ぶってシャラを子供扱いすることがあるが、優しくて明るい。シャラに気を使ってくれるということが、どれだけ貴重な客だろうか。
 ……何故か、シャラには虐癖を多少持っている男が寄ってくる傾向にある。その話をライアンに愚痴ると、この顔の系統は皆そうだろうと言ったから、自分だけが特別なのではなさそうだったが、それにしても納得が行かない。
 イチイは安堵して相手を務められる客の一人だった。シャラがイチイの面影を透過して他の男を見ているのを薄く知りつつ、構わないのだと言ってくれる。
 彼が来るとほっとしたし、シャラの話を聞いてくれるという意味においてライアン以上であるかもしれなかった。ライアンは自分の興味のない話は聞き流しているし、チアロに至っては過ごす時間の殆どを自分で喋っている。
 イチイの肌からは甘い匂いがした。煙草の匂いであるのは確かだった。彼は時折それを吸っていたが、ライアンの煙草とは少し品種が違うようで、煙の色まで違うとシャラは笑ったものだ。
 彼の肌にゆるく寄り添っていると、深い安堵を覚えた。臭いという動物的なものが一番根本に根ざしていて、ただ落ち着く。あるいは、ライアンと同じような臭いのする、ライアンのように冷たくない男だからよいのかもしれなかった。
 シャラは彼が灰を切るのを小皿を取ってやりながら、煙管から立ちのぼる煙をふうっと吐いた。イチイは目を細くして笑った。彼の笑顔は端正で、ライアンが年齢を重ねた姿を一瞬、幻のように見る気もした。
「どうした、旦那のことでも考えてるな?」
 額をこつんと叩かれ、シャラは首をすくめて毛布にもぐり込んだ。煙管を置いてイチイはシャラの正絹のドレスを肩からするりと抜いていく。彼の扱いは何に限らず丁寧で、シャラはそれに安心して身を任せるのが常であった。
 その指先が次第にシャラを知っていくにつれ、彼の望むような反応が身体に立ち表れてくる。そうと知るとイチイは喜んで、シャラにどんな奉仕でもしてくれた。快楽の深い極みをシャラは彼から教えられつつある。待っている客はまずライアンであったが、それ以外であるならこの男であった。
 微かな声を上げてしがみつくと、優しい声が耳元で何かを言う。頷いたり首を振ったりしながらゆるやかに追い詰められていく。
 イチイの指は長くて細く、それがライアンの指に似ていて目を閉じれば想像を掻き立てた。ライアンの名を呼びそうになってぎりぎりで飲み込み、シャラは吐息をつく。
 ライアン。
 シャラはこんなときでも彼のことを考えている。今自分を抱いている男が彼だったらどれだけ幸福だろう。イチイの導く快楽は身体を深く満足させるが、ライアンのそれはきっと心を一杯に満たしてくれる。両方欲しくて手に入らなければ、お互いの足りないところを継ぎ合わせて目を閉じてしまうのが一番よかった。
 ライアン。
 シャラは彼のことばかり考えている。端麗な目で自分を見て、形のよい唇で名を呼んで、低い声で責め苛んでくれたら。
「ライアン……」
 シャラは彼のことばかりを思っている。他に何も考えられないくらいに彼のことを思っている。いつも、いつもいつも、彼のことを、彼のことばかりを、ずっとずっと考えている……
 微かにイチイが呻いた。それを抱きとめてやりながら。シャラはその息遣いを目を閉じて受け入れている。骨格が似ているからか、イチイの声までライアンに似ているような錯覚を覚えるのだった、いつも。それが何だか悪いことのような気もするし、仕方のないことであるような気もした。
 つながった部分が離れても、暫くは身体を放さないのがイチイという男だった。彼は僅かに汗をかくばかりでうっとうしくなく、シャラはずっと彼の胸に頬を押し当て、目を閉じて鼓動を聞き、そして自分で悲しくなるほど別のことを考えているのだった。
 シアナ、と呼ばれてシャラは顔を上げて微笑んで見せる。心底から安堵しきって彼に預けている体と楽な心は、シャラをこの男の前で素直にしていた。
「その……シアナは、旦那と約束があるのか」
 イチイが聞いた意味がよく分からず、シャラは首をかしげて見せる。約束、と聞き返すとイチイは頷いて照れたように笑った。
「ん……身請け、とか。約束があるならいいんだが」
 シャラの心臓が鼓動を早く打ち始めた。イチイが何を持ち出すのかが分かった。彼はシャラが頷けば自分を買い受けてここから連れ出してくれる気があるのだ。
「あ、あたし……でも、イチイ……」
 イチイは気楽に笑った。
「なあに、俺は兄弟も親も早くに死んでうるさく言うのもいないし、何の因縁だかこの年まで一人だしな。それに、こっちでの仕事が終わったからそろそろ国へ帰らなくちゃいけないんだよ」
 シャラは何と答えていいのか分からずに何度か瞬きした。イチイの申し出はシャラには思いもかけないことであった。
 年齢からして妻子がいるだろうと思っていたのは客の身元も境遇も詮索しないというのが掟だからだが、イチイがそこまで自分を気に入っていたという事実が、不意打ちに足元をすくう。
 でも、と呟いてシャラは視線を流した。イチイの与えてくれる安らぎは確かにシャラを落ち着かせたが、ライアンのような昂りは感じなかった。ライアンさえいなければ即答できるほどのいい話であるのを判っていて、唇も首もぴくりとも動かせない。
 ライアン。シャラは考えている。
 この話を彼にしてみたらどうだろうか。けれどきっとシャラが考えている通りに祝福されて終わりだ。やめろ、行くな、とは言ってくれないだろう。
 ライアン。シャラは目を閉じる。
 思っても思っても、彼はシャラに背を向けた。待ってと叫んでも一瞥もくれず、雪の向こうに消えた母と同じように。
 シャラが黙り込んでしまったのを気遣ったのか、イチイは何でもないよと話を濁した。シャラは首を振った。これは断らなくてはならない話だった。あの、と言いかけるとイチイはライアンに似た細い指で、シャラの唇を押さえて言葉を止めた。
「今すぐに返事が欲しいというわけではないから、少し考えてみてくれないか。君が来てくれるというなら……俺は君に沢山のことを教えて上げられると思うよ」
 シャラは頷く。今すぐと迫られない、いつでもシャラに逃げ道を与えてくれる彼の懐に甘えている自覚はあった。微かに安堵の息を吐くと、イチイがシャラの顎をとらえた。上を向かされて、シャラは惑う。まっすぐに向かってくる視線が今更気恥しくて、正面から見られない。
「でも、考えてくれるなら、約束を……」
 イチイが掠れた声で囁いた。シャラは目を閉じた。上体を重ね唇を柔らかく塞がれて、シャラは身じろぎする。遊女たちは自分の愛しい相手に捧げる貞操を唇に持つ。客もそれを分かっているから口付けはしない。
 シャラは初めてだった。寝る行為よりも深く心が入ってくるようだった。水揚げのときにも出なかった涙が瞼の裏で霞んだ。
 イチイはシャラが涙ぐんでしまったことで罪悪感を覚えたようだった。すまないと呟いて、シャラの頬を丁寧に撫でた。
 シャラは首を振った。きっと彼に色々なことを謝罪しなくてはいけないのは、自分のほうなのだから。
 ごめんなさい。シャラは口の中で小さく言った。ライアンのことをこの男に投影して代価品に使っているのはシャラで、それがどうしようもないことであるのを承知はしている。でも。
 シャラはイチイの腕にしがみつき、嗚咽をこぼした。
 でも、あたしはライアンが好きだ。
 あの髪も目も、指先の強い力も爪の形も、鎖骨のなだらかな線、背中の力強い筋肉の隆起も、腕の伸び方も、身体中に残った傷も、声も視線も彼の与える眼差しで鮮やかに変わっていく空気の色までも、何もかも。
 たとえライアンがシャラを一瞥もしなくても、女にはできないのだと諭されても、夢見る力がある限り、自分は恋う。ライアンだけがシャラの全てであり、絶対支配者であり、神だった。
 彼が死ねと言ったら死んでもいい。その時は彼を傷つける言葉を嫌というほど吐いて、胸に一生残る跡を焼き付けて死にたい。忘れ捨てられない弱さにつけ込んで、ライアンの心の一番弱い部分に住み込んで、悪態を付きながら呪う亡霊になりたい。
 それを呆気なく忘却することができるほどライアンは薄情な男ではないのだ。優しくて、冷たくて、そして、泣きたくなるほどシャラに優しい……
 鳴咽は次第にはっきりした泣き声に変わっていた。イチイは黙ってシャラの肩を抱き、宥めるように背を撫でてくれる。その仕種に籠る、確かな情を感じ取りながらシャラは更に泣いた。
 どうして彼では駄目なのだろう。何故、あの人でなくては駄目なのだろう。
 世の中に男は沢山いて、ライアンよりも優しい男もシャラを女として好きな男も、金を持っている男も、更に言うなら美しい男もいるだろうに、何故、ライアンでなくては駄目なんだろう。あたしが彼のために死んでもいいと思うように、彼にあたしのために死んでもいいと言って欲しい。けれど、ライアンは選択を迫れば自分を見捨てる……それは決まっている。
 ライアン。シャラは呟く。イチイが黙って目の端を拭ってくれる。彼を利用しているずるさにシャラは自分を責めながら、ライアンを愛していると言い訳しながら、イチイの良いところを数えながら、沢山のことを嘆きながら、泣き疲れ果てて眠りへと滑り落ちていった。
 それからも日常は何事もなくゆるやかに過ぎていった。ライアンは相変わらずシャラの心に負荷と反動の高揚を与え、イチイはシャラの身体に深い満足を与えた。身体に満ちる潮につられるように、イチイに対して心が解けていく。
 けれど、最終的にシャラの胸を占領するのはライアンの面影だった。それはもうずっと以前から変わりがなかった。もう変わらないだろうとも思われた。
 妓楼の中も、それに負けず何も変わらない。新入りが来て、身請けで出ていく女がいて、シャラの元にライアンが訪れ、リーナの指名は相変わらず外で続いていることも。
 彼女の男というのはどんなだろうとシャラは薄い興味を引かれてリーナを見るが、それほど真剣なものではなかった。結局ライアン以外のことは最終的にはどうでもいい。
 リーナの外待ちの客のことは豪気だと妓楼の娘達は皆感嘆し、ついで呆れ返った。実際、外待ちで指名を続けるくらいなら身請けした方が安くつくに違いない。
 どんな男かと聞かれる度に、リーナは曖昧に笑って誤魔化している。勿論、客の個人的なことは同輩にも教えないというのが規則だが、印象や年齢などの一端でさえリーナは口にしようとしないから興味は募った。
 針をしながら今もリーナは口をつぐんで曖昧に微笑んでいた。彼女の大人しげな空気をシャラは相容れないものだといつも思う。思ったことをほぼ直裁に口にするシャラと、じっと飲み込んでしまう彼女の間には確かに共通しないものが多すぎた。
 何を考えてるんだろう。彼女と言葉を交わしているときにふとよぎる疑問が、尚更リーナに近寄りがたくしている。苛立ちのあまりについ厳しくなる口調をシャラは何度も反省するが、その反省も長くは続かない。話してみればまた同じだ。
 客の品評会は針仕事の合間のにぎやかな話題だがいつも「太った奴は重い」という結論になる。
「あたしは脂ぎった奴も嫌いだわ。あと変にしつこい奴と、つまんないことをあたる奴ね。発散しに来てるんだから、ぱぁっと遊べばいいのに」
 シャラが言うと、朗らかに賛同の笑い声がした。体型のことはともかく、性質が合わない相手でもその時間だけは女達は努めるが、客のいない場所では伽を外れ、客の名や仕事などの具体的なことは口にしないまでもおおらかに話すことが多い。
 ライアンなどは顔が知れておりずっとシャラを指名しているから、ライアンの話だけは女達は名指しで出来た。彼と自分のことを、疑似家族の娘達は見守り、温めてくれているのだった。
「いいわよねぇ、シアナは。一番の客がライアンで。あんな客だったらあたしだってお願いしたいわ」
「やだもう、ねえさんったら」
 シャラは含み笑いになりながら、上目遣いに先輩の女を見る。女はねぇ、と華やかに笑って賛同を求めるように周囲を見渡した。娘達は、一斉に笑う。
 シャラとライアンがお互いに心を繋ぎあっているのは確かなことで、ただ、その意味が違うのだということを知らないから、皆、シャラの幸福を柔くからかっているのだ。
 嘘は自分の胸に返り刺さる。シャラは必死で笑顔を振りまき、そしてふと硬い視線を感じて目を向けた。リーナはシャラの瞳が自分を映したのが分かったのか、僅かに身じろぎする。……何か、嫌な感触がした。
「どうしたの、リーナ?」
 シャラが聞くとリーナはゆるく首を振り、呟いた。
「あの……ライアン様、ねえさんのこと、大切にしてるなぁって、そう思って……」
「そ、う……ありがと……」
 奇妙なことを面と向かっていわれてシャラはたじろぐ。誉められているのは確かなのに何故かそんな気がしない。さりとて嫌みだというような悪意は感じなかった。
 居心地悪い。シャラはロの中で呟き、あやふやに微笑んだ。リーナはシャラに合わせたような曖昧な微笑みを浮かべた。
 リーナの言葉の裏側の、彼女の恐れをシャラが知ったのは、それから僅かに二日の後であった。

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