紅花怨 12

 思った通りにリーナは裁縫部屋にいた。月忌みでもないのにシャラが裁縫部屋に顔を出すのが珍しくて、他の姉妹たちは一斉に笑ったが、シャラはそれに片頬で答えるのが精一杯だった。
 リーナはシャラが隣に座るのを見て、目を伏せた。それを見た瞬間に、シャラは身体中の血が沸騰しそうな衝動にかられる。それを押し殺して裁縫を進めるふりをしながらも止まっているリーナの右手を掴んだ。
「ねぇ、聞きたいことがあるんだけど」
 リーナははっとしたように顔を上げた。黒い大きな瞳によぎった不安と脅えが徐々に確信を固めていくのを知りながらシャラは殊更優しい声を出した。
「──最近あんたをよく指名する、外待ちの男ってどんな奴?」
 ねえさんとリーナが呻いた。止まったままの針がかたかた震えている。シャラの言う意味が伝わっていないまでも異様な雰囲気が伝播したのか、裁縫部屋の女達は静まり返り、物音一つしない。
「教えてよ。ちょっとくらいならいいじゃない。それともあたしには言えない理由でもあるの?」
 掴んだ手に力を込める。リーナは俯いていた。
 その沈む思考の長さが永遠だったらいいのにとシャラは思った。聞きたい。聞きたくない。自分の今考えていることがまるきり勘違いで見当違いだと、信じている。信じているから、怖くないから、でも、どうしてこんなに震えているの……
 シャラが自分を落ち着かせるために深く呼吸したとき、リーナの声が細く震えながら落ちた。
「──ごめんなさい……」
 それが耳に到達した瞬間、全身の毛が逆立つのを感じてシャラは身震いした。瞼がぴくぴくと痙攣する。
 何かを考えるよりも手のほうが早かった。リーナの手首を掴んでいた手を思い切り振り上げ、打ち下ろす。派手な音がして、叩いた手がじんと痺れた。
 その音で裁縫部屋の女達は我に返ったようだった。小さな悲鳴が上がる。リーナは打たれた箇所に手をやって、それからシャラを見上げた。懇願する視線が卑屈で、それも怒りに変わる。
 シャラはリーナの胸元を掴んで更に打ち据えた。やめなさいという声がして、引き剥がされる。それを振り切ってリーナに掴みかかる。許して、という声がシャラの心を強烈に叩きのめした。
「ゆるして、ねえさん、私、本当に何度も断ったんです、本当なんです、かあさんにもそう言ったのに、最初のときにも私、ねえさんのこと、本当に、」
「何度も断った……?」
 シャラは聞き返す自分の声が怒りのあまり笑いだしそうになっているのに気付いた。何度も断ったというのが事実なら、それをおして指名したというのが事実だったからだ。
 目の前にちらちら火花が見える。目の前が赤くなる。
「人の男盗ってといて何言ってんのよ!」
 吠えるように叫んだ途端、涙が噴き上がってきた。悔しくて歯止めがきかない。
「お前なんか……」
 死んでしまえという言葉では遥かに足りなかった。傷つけるためだけの言葉を探して一瞬沈黙したシャラは次々に上がってくる煮え湯を飲み下すように何度も溜息をついた。
「お前、ライアンと寝たの? ライアンはどんな風にお前を抱いたの、お前に何て言っ……」
 言いながら、漏れてきた言葉たちのひどい生々しさにシャラのほうこそ喘いだ。それはずっとシャラが欲しかったもので、いつかと夢見ることで辛うじて希望をつないでいたものだ。
 チアロの告げた日、リーナは外待ちの客に会うために外へ出て帰楼は朝方、彼女は相手のことを言いたがらなかったがそれでも同じ客であることは間違いないとシャラたちは感嘆の溜息をついていたのだ。ライアンの訪れと日が重ならなかったことは気にならなかった。彼は毎日来ていたわけではない。
 けれど、そんなことも最早どうでもよかった。
 重要なのはリーナがライアンと寝たという事実だけで、涙に血が混じるならとうに失血で死にそうだった。
「どうやってあたしの目を盗んで誘惑したの、どういう色目を使ったの、お前、ライアンがあたしの客だって知らなかったなんて言わせないから! 泥棒!」
 言うほどに怒りで目が霞み、思考がぼやけてくる。
「泥棒! 泥棒、泥棒、お前みたいなのがライアンに触れられただけでも幸せなんだ! ──それを思い出にして死んでいくのに不足はないでしょうね!」
「死、んで……」
 シャラの剣幕に怯えてリーナは後ずさった。シャラの様子が普通でないのに気付いたのか、女達の声が交錯している。どこか遠い音楽のようでさえあった。
 シャラは裁縫用の小さな糸切り鋏に飛びつき、リーナの顎を掴んだ。悲鳴。ごめんなさいという泣き声。
「そんな言い訳出来ないようにしてやる、二度とお前がライアンの名前も呼べないようにしてやるから!」
 思い切り作業用の机に女の側頭を打ちつけると、リーナが呻いて倒れた。シャラは鋏を握りしめて振り上げた。
 やめなさいという声がして、誰かが後ろから飛びついてくる。シャラは鋏を振り回す。刃物を恐れた腕が外れた。
 シャラは訳の分からない叫びを上げながら鋏を降り下ろした。リーナの体を誰かが咄嗟に引いたのだろう、ぐったりしたままで頭が動く。鋏がリーナの黒い髪を撫で切って、弦の弾けるような音がした。次の一撃をくれてやろうとしたとき、後ろから抱きとめられてシャラは振り切ろうと暴れる。
 鋏が叩き落とされ、床へ押さえ込まれて、シャラはもがいた。必死だった。
 あと一撃。殴打。殺してやる。殺してやる。あたしのものを取った報いを償わせてやる、ライアンは誰にも渡さない。絶対に、いや。いや、いや、──溢れてくる涙で前が霞む。
 獣のように呻いていると頭上から女の声がした。
「リーナはどう? ……そう、手当をしておやり。これじゃあしばらく表には出られないね……いいよ、お前のせいじゃない、ゆっくり休んだらいいから、部屋へお戻り。お前たちも見世物じゃないんだ、部屋に帰って仕事をおし。ほら、立って立って」
 衣ずれの音がしばらく続き、そして床に押さえ込まれたままのシャラの目の前に人が座った。視線だけで見やると女将であった。女将が目で合図をすると、シャラの上から体重が消えた。押さえ込んでいた衛士がどいたのだ。
 シャラはゆっくり身を起こした。過ぎ去っていった興奮が熱を持って身体中が重く、ぼんやりした。
 半ば放心しながら女将を見ると、軽く頬が打たれた。それは明らかに軽く、痛みは殆どなかった。
 シャラは打たれた場所に反射的に手をやり、女将を見た。女将は溜息をついた。
 シャラは微かに口唇が震え出したのを自覚した。もう一度女将が溜息をついた。それが終わるのを待つように。喉の奥から絞り出されてきた喘ぎが鳴咽に変わった。


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