紅花怨 15

 本当にいいのかと聞き返されたときに、イチイの声に滲んでいた歓喜を大切にしようとシャラは思い、女将に深く頭を下げた。沢山のことを教えられ、情を掛けてもらったことは確かであった。
「かあさん、本当に今までありがとう。本当にありがとう。あたし、かあさんのこと、お母さんみたいに……」
 言いかけてシャラは言葉を飲み込んだ。涙が浮かんできたのだ。こんなのはあたしらしくないとシャラは涙をどうにか飲み込む。
 母親がいなくなった頃のシャラにとって、涙は悲しみの証明であった。涙が出ることが悲しみで、そうでなければ悲しくないのだという考えが正しくないことを、既に知る年になった。この中年の女がそれを考える時間と場所をくれたのは確かなことであった。馬鹿だねえと女将は呆れながらも笑った。
「幸福になれるといいね、シャラ。お前はとても美人になると思っていたが、美人だから幸福になれるとは限らない。世の中は色々だからね。だからしっかり幸福におなり」
「はい」
 女将は素直なシャラの返事に相好を崩して頷き、これをあげようといってシャラの手に何かを握らせた。手を開くと、銅貨であった。この国の金ではなさそうだった。
 いつかこれを見たことがあるとシャラは思い、母が後生大事に持っていた小銭と同じであることに気付いた。銅貨に浮き出しになった蝶の紋様が目についた。
 シャラ。母の声が耳元に蘇る。
「シルナの形見だよ。あの子が昔、あたしにくれた。外国から売られてきた末に、あの子が唯一持っていた故郷なんだと思うよ。帰りたかったろうにね」
「蝶……お母さん、死ぬ前に蝶がいるって言ってました」
 女将は頷いた。シャラはその時の母の呟きを覚えている。異国語であったが、その単語が蝶を指していることは知っていた。
「蝶か。あの子の生まれたのは南の国でね、綺麗な蝶が沢山いると言っていたよ。蝶は沢山の幸福をくれる場所へ連れていってくれる、神様の宝石で出来た御使(みつか)いなんだそうだ」
「幸福の、御使い……」
 自分の名前の意味をシャラは微かに呟いた。シャラの幻想と希望がライアンという男であったのと同じように、母のそれは故郷への道行きを導く幸福の使者だったのだろうか。聞きたいことがたくさんある。もう取り戻せないけど。
 シャラは深く頷き、振り返った。イチイは格子の向こう、雑踏の奥でシャラと女将の会話が終わるのを待っている。
 あの男が自分の蝶だろうか。神様の宝石で出来ていて、幸福をくれる場所へ導いてくれる? ……よく分からない。その実感は薄かったが、もう……あの人のことは考えないようにしようとシャラは微かに笑った。
 燃えつきてしまったというなら既に恋心は灰になって空気に還元されるべき時間であった。
 チアロは散々拗ねて文句を言ったが、シャラはそれには構わなかった。チアロの側にいれば彼の口からあの人の行方を聞く。聞きたくなかった。もう、何も、聞きたくない。
「もうお行き。あまり旦那様をお待たせするんじゃない」
 名残惜しく袖を掴んでいたシャラの手を外して女将は言った。シャラは苦笑して頷き、もう一度深く一礼して軽い荷物を取った。
 遊女の衣装は妹たちに下げ渡し、貢がれた宝石や集めたリボンだけを持って出ていく。この日の服はイチイが買ってきてくれた黒いワンピースだった。赤以外の服を着るのは五年ぶりだ。
 表へ出て、店棚の中を通ると仲の良かった女達が目配せや軽い挙手でシャラを送った。祝福されて出て行けることが幸福、という言葉をシャラはどこか冷ややかに眺めやっている自分に気付いて僅かに視線を下にやった。心の中にある幸福は、きっともっと沢山の色を綺麗にしてくれるはずだった。
 でも、もう、どうでもいい。あの人のことを考えてはいけない。
 イチイのことだけを考えなくてはとシャラは思う。彼は悪い男ではなかったし、肌を寄せると微かに香る甘い匂いが懐かしい追憶を呼ぶような気がして幸福に似た安らぎを感じる。
 それに彼はあの人に似ていて、煙草を吸う男だった。一度だけあの人の吸っているものがどんななのかを確かめたくてシャラは手を出してみたが、途端に倒れてしまい、朝まで眠りこけてしまった……そんなことを思い返しても仕方がなかったけれど。
 表に出ると、イチイはその煙草を煙管から叩き出しながら冷たい風にぶるっと身を震わせた。遅いと甘く叱られているのだった。
 笑顔の奥の目の形が似ている。横顔が似ている。シャラは微笑んで、ごめんなさいと言った。
「いや。挨拶はもう済んだか、シャラ」
 彼の口から自分の名が呼ばれると特別な感慨を引き起こした。何故かひどく懐かしく、そぞろな気分になる。長く誰もが自分を源氏名で呼んできたせいかとシャラは思い、微かに頷いた。
「もう行こう……ね、本当にあたしで良かったの?」
「それは俺が聞きたいことだ」
 シャラは肩をすくめる。イチイはその仕種にまた笑って、歩き始めた。シャラは妓楼を振り返った。五年近い月日を過ごして、そこは確かに故郷と呼べるものであった。
 格子の向こうの女達の中に、あの妹の顔もあった。目が合うと辛そうに視線を伏せた。シャラはそれを睨み、目線を外した。あの人はあの女を指名するだろう。でも、もう、どうでも、いい。
 もう、いいんだ……ぐっと唇を噛むと血の匂いがした。
 イチイがシャラの手を掴んだ。気遣われているのだとシャラは思い、手を繋ぎ直した。多少の年齢差はあるが、この男が自分を愛してくれると言うならついていってもいい。
 イチイはいい男だ。若かった頃は端麗だったろう顔貌も声の深みも、きっと好きになる。きっときっと、好きになる。
「ね、聞いたことなかったけどイチイはなんであたしが気に入ったの? 好きだった人にあたしが似ているから?」
 見上げると、男は苦笑した。
「あんまりそんな理由を直接聞くもんじゃないな、シャラ。そうだな、それもあるし肌も合う……ということかな」
 シャラは朗らかな声を上げて笑った。相性がいいというなら確かだった。性格に相性があるように、肌にもそれがある。合うか合わないかは寝てみないと分からない。
 あの人も寝てみないと分からないと言った。こんな時にもあの人のことを思い返している自分が哀れで可笑しい。馬鹿みたい。
 イチイの声が可笑しいかと苦笑いしている。微笑み返しながらシャラはふと視界の端に見知った少年を見つけた。振り返ると彼は不機嫌そうな顔でじっとこちらを見ていた。
 知り合いか、と聞かれてシャラは肩をすくめる。
「時々来てくれてたのよ。それ以外に何もないわ。友達」
「チェインの子供だな」
 僅かにイチイの声が低くなる。チェインというのはタリアの奥に位置する一層の暗い路地……らしい。そこに住み着いている親のない少年達が徒党を組んでは犯罪を培養していると、怖くて近寄れないと。そんなことを客の語りに何度か聞いたことがあった。
 その頂点に君臨している男がシャラを女としてではなく愛していた事実がそれほどの恐怖を覚えさせなかったし、チアロもそうだ。彼がその少年達をある程度束ねていることは知っているが、実感ではなかった。
 だがイチイには違うのだろう。シャラは大丈夫、と言った。
「あの子はあたしが好きなの。拗ねてるのよ。放っておけばそのうち忘れるわ」
「薄情だな、シャラ?」
「仕方ないわ。それとも、イチイはあたしが他の男の子と気持ちが通じているほうがいいの?」
 なるほど、とイチイは更に笑った。シャラはそうでしょと笑い返して、チアロから視線を完全に外した。
 しばらく歩いてシャラは首をかしげ、町の様子を見回しながら振り返った。昼間の雑踏はタリアには白けた空気しか呼ばないが、それにしても境界門はこんなに遠い場所だったろうか。もう遥かな記憶ではあったが、それほど歩いた気はしないような……覚えがある。相変わらず昼の太陽の下では薄汚い町並みだが、境界門の影さえ見えない。シャラは手を掴んだまま行く男を呼んだ。
「道を間違えていない? 境界門はあっちだと思うんだけど」
 自分たちが来た方向を指で示すとイチイはああ、と軽く答えた。
「少し用事がある。先に済ませておこうと思ってな」
 そう、とシャラは頷く。イチイの握る手が痛い。軋むような感覚に手を抜こうとすると、更に力が入ってシャラは呻く。
 微かな恐怖を覚えて男を見上げ、痛いわ、と言うと一瞬離れた手をそれほど間を置かずにイチイは握り直した。
「ねえ、どこへ行くの……?」
 不安が次第に大きく込み上がってきて、シャラは細い声を出した。境界門を過ぎれば通常の色彩と石畳の続く通常の町へ行けるのに、シャラは未だに煤けた赤い町並みの中にいる。ぐるぐる歩き回されて方向感覚さえ狂いそうだ。
「待って、ねえ、どこに行くの? 境界門はそっちじゃないわ。戻ろう、イチイ、あたし、迷子になりそう」
 気持ち悪い、とシャラは訴えた。実際イチイの足取りは早く、連れ回されて酷く疲れていた。
 彼の返答がないことが気掛かりで、シャラは自分が彼の機嫌を損ねたのかどうかを必死で検証するが、良く分からなかった。
 イチイは口をきかなかった。彼の様子から次第にあの甘い笑みが抜け落ちていくのを目にしてシャラは怯えて足を止めようとし、引きずられた。待ってと言っても男は答えようとしない。
 何が起こっているのかシャラには明確には分からないが、良いことではないのだというのは直感できた。
「待って、ねえ、どこへ行くの? イチイ? 自分の国に帰るって、帝都に泊まってるって、ねえ、こっちはタリアの奥に行く道だと思うし、ねえ、こっちは絶対に道が違……」
 言いかけてシャラは言葉を紡ぐのをやめた。振り返った彼の顔からすっかり笑みが消えていたからだ。
 整った顔から表情が消えると酷い恐怖を引き起こした。シャラは微かに震え出す。得体の知れないものに掴まっている。唇が動かない。イチイはシャラの様子に微かに笑った。それは今までシャラに降りそそいだようなものではなかった。
 この笑みを知っているとシャラは息を呑む。シャラには元から虐癖のある男が寄ってくる傾向がある。若く美しい女の顔が歪むだけで喜ぶ男たち──イチイからはそんな連中と共通の影が感じ取れた。
 いいえ。どこか、それも違う。
 知っている気がするのだ。似ている、のでなく、知っている。
 シャラはイチイの手を振り切ろうとした。怖い。
 今までのことはシャラを安心させるための芝居だったのかという回答が閃いて、震えは一気に来た。
(どんなに下らない、下心だけの親切でもね)
 でもこんなの、本当に見破れるの、かあさん?
 震え出したシャラの様子で、イチイは唇を歪めて笑った。まっすぐに歩け、と言われてシャラは首を振る。
 もう一度同じことを命じられ、歩き始める。逆らうと何をされるか分からないという恐怖はシャラの意思とは関連なく男に従うのだ。シャラは振り返る。チアロはもう見当たらなかった。
「あの子供を探しているな、シャラ」
 はっと見上げると、イチイはうっすらと微笑んでいた。
「チアロ・ハクセンか。ライアンの子飼いだな」
 呟きがシャラの耳を通過したとき、電撃のような悟りが背を貫いた。イチイはこの町の男だ。チアロの本名と、ライアンの配下だということを知っている……!
「イチイ、あなた……」
「俺をそう呼んでくれるのはありがたいな、シャラ」
 可笑しそうに笑う声音には、既に温度がなかった。掴まれた手が熱い。熱をもってシャラを追い立てる。
 そのまま裏通りの小さなアパートに連れ込まれ、シャラは更に奥の部屋につき飛ばされた。シャラの荷物をイチイは部屋の扉にもたれ、鞄ごと逆さにしてばらまく。
 簡単な化粧道具、持ってきた宝石、集めていたリボン、それから、──捨て切れずに持ってきた、漢氏竜の煙管。
 イチイの手がそれを拾う。僅かに残っていた煙草の葉の銘柄を嗅いで、ライアン・ロゥか、と呟いた。
「もらったのか? それとも別れの記念か? 別れ際に物をやるとは、奴もお前に随分ご執着だ」
 だが、とイチイが次に呟いたのはシャラにとっては意味が通らない言葉であった。
「俺には敵うまい。俺のほうがずっと執着している……」
 シャラは怯えて壁際まで下がりながら首を振った。イチイは笑っていた。本当に、目の底が楽しげな色味に彩られている。これが彼の真実の笑みだとしたら、シャラに見せていた優しげな顔は、虚ろなものでしかないのだと理解できた。
「なんで、あたし、……」
 シャラは呻いた。身請け代は安くはない。酔狂や気紛れでそんなことをするとは思えなかった。イチイはまた笑った。彼の笑い声が再び耳の奥から記憶を打ち据える。
「何故か。執着しているのだと言ったばかりだな、シャラ。探したぞ、あの女が死んでから」
「なに……を、言ってるの……」
 くつくつと喉を鳴らし、目をゆるめながらイチイは自分の煙草を漢氏竜の煙管に詰めた。
 彼の唇がそれをくわえ、火をつける。微かに上った煙の色と甘い匂いが立ちこめ、シャラは顔をしかめた。
 ゆっくり近付いてくる男から逃げようとシャラはじりじりと下がった。イチイは再びライアンの煙管を深く吸った。彼の口から吐き出されてくる煙にやられたのか、目が痛い。
 逃げながら部屋を半周し、シャラは扉へたどり着いた。イチイは薄笑いを浮かべ手を伸べてくる。それを叩き返してシャラは部屋を飛び出し、アパートの扉に飛びついた。
 がたんと大きな音を立てて扉が開き、すぐに止まった。外から大きな錠が鎖で止められているのが見える。どういうことなのか理解ができない。シャラが茫然としていると、後ろから髪が掴まれて引き倒された。
「ちゃあんとこういうことには仲間がいるんだよ、シャラ。俺一人じゃどうにもならんことの方が多いからな、そうだろぉぅ……」
 彼の呂律が怪しくなってきているのにシャラは気付いた。イチイ、と呟くと、男はけたたましく笑い出した。
「いい加減に俺のことを思い出せよ、薄情な娘だな、お前は。あれからもっと沢山のことを教えてやろうと思ってたのによう、お前が余計なことをいうから、あの女が、殺してやろうかと思ったけど、お前が、可愛かったからなあ、そうだろう、シャラ、」
 イチイは不自然な区切りで言葉をのみ、煙草を吸った。甘い匂いが至近でした。
 シャラは遠いものを見る目付きになった。
 この匂い。甘たるい匂いと煙草。
 ……何かが急激に弾け、目の前ではぜた。シャラは目を瞠(みひら)く。
「──お、とうさ、ん……?」
 呟いた声が凍え、そして震え出した。
 あの男だ。間違いない。シャラの意識に最初に男を刻み、母を殴り、二人を殺そうとした、あの夜にナイフを振り回しながら笑っていた、あの男だ!
 男はまた大声で笑い出した。
「そう呼ばれるのは久しぶりだなあ、シャラ。呼びたくて仕方がなかったぞ、なあ。可愛い肌だ、もっと、沢山、教えてやりたかったのになあ、あの女が邪魔しやがってなァ」
 あの女というのが母に違いなかった。シャラは組み伏せられたまま男の肩をつき飛ばそうとし、動かないと知って頬を打った。
「母さんを裏切ったくせに、そんな、」
「裏切っただって? 馬鹿なこと、言うな、シャラ、お前がいたから、あの女と一緒になったんだぞ? あんな女、最初からお前の付録だ、俺は騙してなんかないなァ」
 声を上げて笑う男の下から這い出そうとシャラはうつぶせる。男は笑いながらシャラの髪を掴み、引き回した。
 痛いと声を上げると男はまた笑った。彼は酷く上機嫌で、浮かれたような喋りかたをした。
「痛いか、そうか、痛いか、俺がお前に教えてやりたかったのになあ、色々忙しくて迎えに来るのが遅れてすまんな、シャラ」
 しかも、と低く笑う彼の声から次第に正気が飛んでいるのにシャラは気付いた。やめてという言葉は飲み込んだ。それを言うと相手を喜ばせるのだろうと思ったのだった。
「ライアン・ロゥの女、だってな? お前、みたいな見てくれだけの馬鹿女が、捕まえたにしては、上出来だった、褒めてやるよ、ご褒美、やろうな、シャラ、いい子に、してたな」
 いうなり男はシャラの髪を掴んで身を起こさせ、自分の口にくわえていた煙管を口唇に押し当ててきた。
 シャラはいやと絞り出して首を振った。男の唾液が鼈甲の吸い口に光っているのも怖かった。
 いきなり痛みが膝にしてシャラは悲鳴になった。一瞬をおいてそれが熱さに変わる。男が煙管の葉口のほうをワンピースの布越しに押しつけたのだった。
 今度は差し出された吸い口を、シャラは唇を開いて受け入れる。この男は何をするか分からない。母を殴り、殺そうとしたときだって、笑っていたのだ……!
 吸えと促されて、シャラはきつく目を閉じ、吸い込む。
 いつかライアンの煙草を吸ったときのような眩暈は起こらなかった。その代わりに酩酊に似た美しいものがぐるりと目の前を回ったような感覚を覚えて喘ぐ。
 もう一度、と言われて再び同じことをすると、今度は飛ぶような浮遊感を連れてきた。
 煙草じゃないのかもしれないと思ったとき、男が煙管を放り投げてシャラの着ていた服を乱暴に剥ぎ取った。
 絹の裂ける音に興奮したのか男がけたたましく笑っている。外から誰かの声が壊すなよ、とからかったのが聞こえた気がするが、定かでなかった。
 男の手がシャラの体を知った確かさで扱い始めると、違和感はすぐに飛んだ。シャラは声を上げて男にしがみついた。
 いいぞ、と男が笑う声が聞こえる。何が起こっているのか分からない。だが、今この体を支配しているのが気の遠くなりそうな快楽であるのは確かだった。
 いや。シャラの内側が泣くのが聞こえる。こんなの、嫌だ。
 だが思考はすぐに白くなる。まとまって何か考えることも思うこともできない。遠く近く聞こえる快楽を訴えせがむ声は、自分の声に似ていた。


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