紅花怨 16

 雪が降っている。明りはぽつぽつ灯っている。誰も表に出てくる様子はない。ひたすら歩き続ける女の背は尖っている。後を追う自分の足は感覚を無くしかけていて、歩く度にぴりぴりする。大きめの靴の隙間から、雪が入り込んできては助長する。
 ──寒いよう。
 雪は降っている。ずっと降り続けている。女は何かを呟いている。それはこの国の言葉ではなく、理解できない、遠い、──遠い、響き。
 子供は女の手を引く。
 ──寒いよう、お母さん。
 ──うるさい。
 ──戻れないの、お母さん。
 ──うるさい、出来ることない、そんなの。
 ──もう歩けない。
 ──そうだね。
 ──疲れた。
 ──そうだね。そうだね、疲れた……
 ──お母さん?
 ──疲れた?
 ──うん。
 ──お腹空いた?
 ──ちょっとだけ。でも、我慢する。
 ──そう。少し、休んでいこう。
 そうして座り込んだまま、動けなくなった二人の周りを、雪が埋めていく。罵られ、罵り、叫んで上げた声はしんとした路地にかき消される。
 ──誰もいない。
 何かを女は叫び続ける。その声が耳奥に遠くこだまする。
 ──誰もいない。
 路地を越えても闇が消えても遠く長く、現実に聞こえない確かな声が叫んでいる。声高に呼んでいる。吠えるように、悲鳴のように、声を上げている。
 ──げ。
 なに? 聞こえない、お母さん? 聞こえない……
 ──蝶がいる。
 ──神様の宝石で出来た、幸せの場所へ連れていってくれるお使いなのよ。もう寒いこともないし、お腹も空かなくなるからね。
 ──ほんとう?
 ──かみさまの、ほうせき。
 ──きれいなまぼろし。
 ──きれいなの、だいすき。おかあさん。
「お、か、あ、さ、ん……」
 呟くと喉が痛かった。酩酊は体に沈み、時間とともに這い上がってくる。体を起こすと億劫な怠慢が溜息になって漏れた。
 ゆっくり手を伸ばす。それは手の届く場所にいつも置かれていた。手が震えている。うまく視線が定まらない。喉が乾いた。でも、すぐに楽になるから。
 自分を宥め透かして煙管に火を入れ、深く煙を吸い込む。二度それを繰り返すと効果はすぐに現れた。眠っていたような神経が起き出して、呼吸が楽になる。喉は相変わらず痛かったから、のたのた歩いて隣の部屋の扉をあけた。
 男はそこで変わらず煙管を使っていた。起きたか、と言われてうなずく。それからここへ来いと手招きする。側に座ると、猫のような撫でられ方をした。喉を鳴らして甘えると、くつくつ、男が上機嫌で笑った。
「後で俺の友達が来るから、もてなしておあげ」
「ともだち……うん……」
 頭の中にもやがかかったように、何か考えることが面倒でならない。この男の言うことを聞いていれば優しくしてもらえたし、食べるものも貰えるし、それに……
「あまり吸うなよ。だんだん言葉も出なくなる」
「う……ん、でも、ぉ……」
「最初が強すぎたかな、本当に加減が難しい……シャラ、俺の言うことが分かるか?」
 よくわからないから首を振る。そうかと男は笑った。彼は何につけても機嫌が良かった。時折酷く自分を苛めるときも、その内に体の中から別のものが出てきて消えてしまう。
 男の顔立ちは誰かを彷彿とさせたが、それが具体的な焦点を結ぶ前に思考は飛び散り、きらきらした雲の向こうに行ってしまう。
「友達がくる時間だから、俺は少し出かけてくる」
 シャラは微かに怯えて男の靴に口付けた。彼が帰ってこないということは、自分を苦しみから救ってくれるあの煙草が手に入らないということと同じ意味であった。
 男はシャラの仕種にまた声を上げて笑った。
「いい子だ。……ああ、今、出るよ」
 入ってきた男に声をかけて立ち上がる男の背をシャラはぼんやり見送る。それから入れ替わりに入ってきた男を見上げた。男のともだちは今日のように一人のときもあったし、沢山のときもあった。どちらでも同じことだ。何もかもどうでもいい。
 ──おい、大丈夫なのか、本当に。
 ──ま、少なくともこっちの言うことは分かる。
 ──あんまり下手をすると引き渡した後が怖いぞ。
 ──では何故本人が来ない。代理ばかりだ。
 ──見捨てられたのじゃないのか。
 ──ふん、そうしたら巣へ移すだけだろう。
 ──それも、そうか。
 ──俺が最初の客になってやろうかな。
 ──おいおい、殺す気かよ。投資は回収しなけりゃ。
 笑い声が交錯する。何を話しているのか分からなかったがそれが自分の話だというのは伝わってきた。
 シャラは微笑んで見せた。男が去り、ともだちが残ると、シャラはいつものように目を閉じて床に横たわる。……後はこの男が自分を好きなようにするだけだった。
 自分の唇は言われたことに答えるためと、獣のように唸るためにある。それ以外のことは良く分からない。外に出ると死んでしまうと言われれば正しい気がした。
 男は特別の煙草を専門に扱っているようだった。時折、この部屋で仲間たちとそれを数えていることがある。
 雑談などの中に交じる名前で、たった一つ、シャラの気を微かにかぎさく物もあるが、誰であったのか思い出せない。その名前も聞けばそうだこの名前だと思うものの、一人で追憶しようとしてもやはり霧散してしまうのだった。
 シャラの日常は、流れていく。時折蝶が窓の外に止まって羽ばたくのを眺めるのとともだちをもてなすこと以外、他にすることもなかった。男はシャラを苛めたが、それはともだちのときよりは遥かにシャラを真っ白な場所へ連れていってくれた。
 蝶。かみさまの、ほうせきで、できている。
 そんな言葉だけがどこからか囁いてくる。それを聞いていると無性に泣きたい気持ちになるが、それが自分のどの部分から湧いてくるのかは判然としなかった。
 男は時折出かけた。帰ってきたときに不機嫌なときは、シャラを酷く苛めた。その時大抵口から漏れてくるその言葉、誰かの名前が誰なのか、最近シャラはぼんやりそんなことを考えているが、あまり効果的ではなかった。
 あの特別な煙草、あれがないと苦しくて仕方がない。吸ってからしばらく経つと覚醒していた神経が死んできて、吐き気や眩暈が酷くて立ってもいられない。切れる、と男は呼んでいたが、その状態になってきたとき僅かに逃げなくては駄目だ、こんなの間違ってるというのが聞こえるのも鬱陶しかった。
 出かけるとき、男は自分が帰る時間までの煙草しか置いていかなかった。だからシャラはこの部屋に見張りもいなくて鍵も掛かっていないのを知っていても、外へ出られない。
 外は怖いのだと男は繰り返したし、彼の言うことを聞いていればいいのだとも言った。それに特別の葉が切れてしまったら。そんなことを思うだけで気が萎える。
 シャラは溜息をついて、ぼんやりと天井の染みの数を数えている。暇な時はそうしていろと男が言ったから何となく従っているのだが、あまり面白くはなかった。一人の午後は時間が長い。喉が乾いてくる。切れかかっているのだ。
 シャラは窓辺に寄った。いつものように特別の煙草を取り、火を入れる。微かに震えた手から漢氏竜の煙管がするりと抜け、換気のために細く開けられていた窓から外へ転がり落ちた。シャラは溜息をついて僅かな苦痛を吟味するように目を閉じた。
 自分を飼う男の顔がちらつく──いいえ。これは多分違う男。誰だろう。少し面差しが似ているど、大分、若い……
 唇が動く。何と言ったのか良く分からない。でも大切な……大切なことだったような、ああ、でも考えると頭、痛い……
 微睡みのような曖昧な時間は、いつもの夢を見る。
 かみさまのほうせき。しあわせのみつかい。
 閉じた目裏に男たちとは別の、似た女の面影がよぎった。
 シャラは何かを呼ばわりながら必死で手を伸ばした。
 行かないで。
 雪のまたたきの中に消える背中を走って追いかける。行かないで、待って、と叫んでも呼んでも、もうそこから去ったものが戻っては来ないだろうと薄く分かっていながら。
 引き止めたい衝動と投げやりな倦怠が両方あって、転んだ瞬間に両方砕けてしまった。
 靴を探さなくちゃ、大きすぎるから。ねえ、行かないで。あたしのこと、嫌いなの?
「シアナ」
 行かないで、置いて行かないで、一人にしないで、お願いだから、あたしのこと嫌いなの?
「おい、シアナって!」
 がくがく揺すられてシャラは目をあけた。誰、と呟いた声は喉がかすれていて、殆ど声にならない。だが何と言ったのかは相手には伝わったようだった。舌打ちがする。気を損ねたのが分かってシャラはごめんなさい、と言った。
 ゆっくり身を起こして相手を見ると、それは男が今まで連れてきたともだちではなかった。怒ったような表情なのに怖くはない。それが不思議な感触でシャラは相手の顔を見つめ返した。
 まだ若い少年と呼んでもいいような年齢の男だ。すんなり伸びた細い腕の長さと背の高さが変に印象に残る。
「分からないんだな、シアナ、俺が」
 言われてシャラは首をかしげる。誰、ともう一度聞くと少年は顔を歪めた。チアロ、と名乗られても記憶の沼の表面は静かで、どこにも何もなかった。
「あのひとの、ともだち……なの」
 シャラの世界には、男と、彼の連れてくる男たちしかいない。時折呼ばれる追憶には名前がなく、幻のような気もした。
 違うと少年は首を振った。頷いてシャラは立ち上がり、煙草を探す。苦しい。
 落とした煙管を諦めて、新しい煙管と煙草を取ってくると、少年は更に恐い顔になった。先ほどのようなゆるやかさなどなくシャラに詰め寄り、煙草を取り上げる。ぼんやりした声を上げてからシャラは返して、と言った。
 少年はそれには従わなかった。煙草入れを開けて中身の匂いを嗅いだ後、いきなりそれをランプの中へぶちまけて火を入れた。シャラは悲鳴を上げた。
「何すんのよ!」
 怒鳴ってランプに飛びつこうとするが、少年のほうが遥かに上背がある。彼の周囲を罵りながらぐるぐる回っていると、次第に息苦しくなってきてシャラは座り込んだ。
「こんなの、吸ったら駄目だ。シアナ、これはいけないことだ、分かるか?」
「いや、返して!」
 苦しい。目が回る。気持ち悪い。吐きそう。
「返してよぅ……」
 胸を掴んでシャラはうずくまった。気分が悪くて体を起こしているとどうにもならない。肩で呼吸をしながら、予備の煙草を探して男たちが時々それをしまっている引き出しまで這う。
 少年が素早く棚の中を捜し当てて、シャラの目の前で包みを窓から投げ捨てた。
「行くぞ、シアナ。ぼうっとするなよ、立てよ、早く」
 腕を掴まれてもシャラは息苦しいばかりで目の前がすうっと暗く青くぼやけるばかりだ。シアナと繰り返され、シャラは首を振って目を閉じて床へ這いつくばった。
「苦しい、ねぇ、煙草、取って、気持ち悪いよう、ねぇ、お願いだから、煙草、ちょうだい、ねえ、取って、取ってよぅ……」
 少年の足を掴んでシャラは懇願する。男にするように靴に唇を押しつけると、よせよ、と呻くような声が言った。意識が遠く霞んで息苦しさだけが上がってくる。
 降りしきる雪の幻と、その中を飛ぶ蝶の輪郭、羽ばたきの軌跡が見える、ううんこれは違う、きっとあの日の蝶、あたしがずっと見送っていた、あれを追ったら駄目だと思った、
    遠い、
        日の、
              ──赤い格子。
 故郷の名前。帰りつく場所。
 待ってる。ずっと待ってる。あなたのことを、あなたのことだけを、ずっと待ってるから──
 端麗な横顔が目の裏をよぎった。冷たく整った容貌の美しい男だ。きつめの線で構成された顔立ちには、何度眺め回しても瑕疵というものが見つけられない。
 伏せた目の形や煙管を弄る指にシャラは嘆息する。こんなに美しい男はそうはいない。妙に冴えて淡々とした風情には明るさや華やかさが抜け落ちていたが、それは欠損というよりは印象を深める作用でしかない。
 喉元へ出かかった名前をシャラは呻く。誰かが自分を抱きよせてしっかり、と囁くのに頷き、首を振りながらシャラは目をあける。少年の顔が真近くにあって、微かに驚きながら溜息になるが気分の悪さは変わらなかった。
 先ほど名乗られたくせに、彼の名は闇に沈んで見つけられない。
「ごめんね、えと、誰、だっけ……」
「チアロ。俺のことは後でゆっくり話そう。だから、ここからもう逃げなくちゃ駄目だ、シアナ」
「うん……でも、煙草……」
「……後で買ってあげるから。もっといいのがあるから、ね?」
「ほんと? かってくれる?」
 微かに笑うと少年は──もう名前が思い出せない──苦しげに笑い返し、シャラの体を抱き上げた。ふわっと宙に上がった体重が、僅かに心地好かった。
 少年が自分を抱えたまま小走りに移動を始める。振動が伝わると気分が悪い。シャラは彼にしがみついて吐き気をこらえた。
 路地は白銀に染まっていた。寒い、と呟くと少年はごめんと囁いたがシャラを下ろして上着をかけてくれる素振りはなかった。
 不意に少年が振り返る気配がした。来た、と呟く。シャラの体が急に下ろされる。熱っぽくだるい体を雪に押し当てて深呼吸すると、ようやく気分がやや落ち着いてきた。
 金属のこすれる音が続いている。それを見る気にもならない。雪だまりに頬を押し当てて喘いでいると、甘い匂いがふとした。
 薄く目を開けると飼い主の男が煙管を差し出してきた。微かに上る蒸気で中身が既に入っているのを理解し、ほとんど奪うようにしてのんだ。最初の一口が入ると今までのことが嘘のようにすうっと視界が晴れて、神経が上がってきた。
 ああ、とシャラは深く喘いだ。
「あれが迎えにきたのか」
 男は微笑みながら後ろを振り返った。シャラは煙管を手にしたまま男の視線の行く先を振り返った。少年の手に握られている刃物がぎらぎらと視線を焼く。その惨む光を見ると、どこかで、何かが、動きだす。
 名前、なんだっけ……あの子の名前。
「迎えにきたのか、シャラ?」
「え? うん、そお……」
 曖昧に頷き、シャラは立てと言われて従う。男が自分の外套を脱いでシャラにかけ、ゆっくり抱き寄せた。
 自分の目の前に細い銀の光が抜かれてシャラは首をかしげる。動くなと念を押されてはい、と返事をした。
「チアロ・ハクセン」
 男が言って、そうだ、チアロだっけとシャラはぼんやりそんなことを考え、溜息になった。違う。この名前じゃない。もっと違う、心が飛ぶ、好きで絶対で、一番大切な名前がある。
 少年が振り返り、瞬間、動きを止めた。一瞬の出来事は、決着をつけるには十分だった。男の一党に飛びかかられて後ろから組み伏されて少年は声を上げる。男はシャラの首筋からナイフを引き上げ、まっすぐに少年に向かって歩いていった。
「俺は奴に来いといったはずだが?」
「お前たちに関わりあっている暇はない。金の無心ならさっさと額を言え。ディーもそう言ったはずだ」
「直接交渉したいと伝えたのも知っているだろう、それではな。お前を寄越したというのがでは奴の意思か」
 違う、と少年が呻く。彼の瞳がシャラを見る。シャラは居心地悪くそれをはずした。
 男が高く笑いながら少年の後ろの男たちに目配せをした。後ろで手首を結わえられて少年の襟首が掴まれ、もと来た所へ戻される。男はシャラの肩を叩いて寒くないか、と優しい声を出した。
 シャラは首を振った。何かが喉元まで出掛かっていて、そこから永久に上がってこないような座りの悪さを噛み締める。立たされて部屋へ上がる間も震えが止まらない。
 部屋に戻ると男はやれやれと肩をすくめてシャラと少年を交互に見た。元々客だと言っていたな、と呟く声が微かに笑っている。
「なあ、こいつのこと、覚えてるか」
「あの……うん、一応……」
 シャラは口の中でもごもごと言った。知らないと言えば何が起こるか分からないという脅えがシャラの中にも宿っている。少年は顔を上げ、仕方のなさそうな笑顔になった。
 男が薄く笑った。シャラは怖くなって首を振り、奥の部屋へ引きこもろうとした。逃げ出したかった。その腕が掴まれて無理矢理その場に引き留められると、男は甘たるい声で言った。
「こいつの名前、覚えてるか?」
「え? え、えと、あの……」
 シャラは口ごもり、少年を見た。彼の唇が動きかけたのを、男の一人が殴って床に側頭を叩きつける。微かに呻いた彼の声を聞いた瞬間、途方もない罪悪感とそれを上回る恐怖がシャラの口から悲鳴を絞り出した。
 何かを言わなくてはとシャラはがたがた震え始めた唇を舐める。その表紙に噛んでしまった唇が切れて、微かに血の味がした。金属臭。同じ匂い、同じ味、同じ身体から、分けられた、同じ血の仕組みの、同じ……──お兄ちゃん?
 あたしを助けに来てくれたの?
 違う。この子は違う。もっと強くて、優しい名前だった。
 神様。助けて……たすけて、かみさま、かみさま、
「ライアン……」
 ぽろりと口から零れた名前にシャラは目を閉じる。陶然とした感覚が浮遊になって、気分が良かった。思い出した。ライアンと繰り返すとそれだけで幸福めいた気分になった。
「……ライアンか」
 男の声が失笑を隠し切れないまま言った。シャラははっとして、少年を見る。今自分が呟いたのが彼の名前でないことだけは分かった。違う、と遮っても男は既にシャラに頓着しなかった。
「ライアンだとさ。立派な恋人をもったな、ライアン?」
 少年は激しく男を睨んだ。男が目で指示をして、少年の体が起こされる。先ほど打ちつけられたときに口の中を切ったようで、淡く赤に染まっている唾を吐き捨てている。
 その血の色に似た気の遠くなるような歓喜にシャラは喘いだ。何かが遠くでぐるぐる回っていて、判然としない。
「ライアンはお前たちの要求を飲まない。こんなことでライアンの足元をすくおうなんて卑怯だ」
「要求? 取引だよ。この女と君と、二人合わせてだったら少しは態度も軟化するかな」
 ぴくっと少年の頬が痙攣した。男たちは一斉に笑った。奴は甘い、という言葉はこの場にいないライアンという男に向けられているのは明らかであった。
 男たちは剣を持ち出し、その刃をたてながら少年を小突き回し始めた。彼をなぶり殺すつもりなのだとシャラは悟った。恐ろしくて声が出ない。肌が切れて血が撒き散らされる。男が笑っている、笑って──……
 弾けたような記憶が一つ上がってくる。笑っている男と悲鳴。交錯する二つの声が闇に紛れてはね回る。シャラは怖くて震えている。喉から上がってきた言葉が、突然明瞭な記憶を取り戻した。
「あぁあぁぁあ──!」
 シャラは飛びすさり、扉に身を打って呻いた。
「お父さん──チアロ!」
 叫んだ自分の声が遠い。耳鳴りがする。気持ち悪い。気持ち悪い。駄目、こんなの、間違ってる……!
「いや、チアロっ、だめ、やめて!」
 それだけ叫んでシャラは再び悲鳴になった。この部屋に漂う濃い甘たるい匂い、同様に沈殿している血臭がシャラの神経を一
気に逆撫で、ばらけていた意識を引き戻す。
 シアナ、とチアロの目が微かに開いた。
 今自分を見る彼の眼差しは熱っぽく、いつかの沢山の夜達と同じように混じり気ない恋に潤んでいるようにさえ見える。
 胸が詰まった。喘ぎが微かに自分の唇から押し出されたとき、男がシャラを振り返った。微かな吐息が笑い声だと気付くのにそうかからなかった。
 シャラは上がってきた呼吸を喉で鳴らして扉のほうへ後ずさった。抵抗無く壁が──扉が開く。シャラが身を打ったときに、衝撃で簡易鍵が外れたのだ。
 男が素早く近寄ってきて、シャラの頬を打ち据えた。勢いのままシャラは床へ倒れる。逃げたら殺すぞ、と言う声に体が硬直して動かない。
 チアロが呻き声をあげた。シャラは体を跳ねさせ、反射的にそちらへ視線をやった。男たちの一人が彼の腕を取って手首の表側を切り裂き、腕側を掴んで隙間からナイフを入れた。桃の薄皮のようなものがするっとそこから立ちあがった。日に透けているのが見える。シャラは瞬きをした。
 次の瞬間に耳を打ったのは彼の絶叫だった。ぺちんという音と共にシャラの前に放り出された布に似たものは透けていて、床の木目が見える。そこにびっしりとうぶ毛があるのを見て、シャラは凍りついた悲鳴をあげた。
 皮膚だ。人の!
「あ、あ、あ、」
 シャラが口を開けて喘いでいると、再び同じような絶叫がした。押さえられているチアロの体が陸に上がった魚のように跳ね上がった。くるりとナイフを返し、男の一人が彼の左腕の皮を剥いだ。
 壮絶な悲鳴。
「や、め、て……」
 ようやく絞り出した声はかすれ、震えで言葉にするのがやっとだった。チアロの目は見開かれたまま焦点を失い、呼吸もここからでは分からない。チアロ、と声を捻り出す。死んではいないさと男たちが一斉に笑った。
「どうする、こいつ。今殺っちゃう? でも、顔を潰しちゃえば久しぶりに楽しい舞台が出来そうだよ」
「どうしようかな。体格が特長的だから、感づかれたらまずい」
「ライアンはああいうの、興味ないみたいだから分かりはしないよ。背が高くてってなら先に足を切ればいい」
「どうせ証拠もないことだしな。舞台か、いい獲物が出なかったからねー、本当に久しぶりだ」
 囁き交わす男たちの会話に、シャラは恐る恐る彼らを見上げる。シャラを騙した男がふと笑って、お前も見に来い、と言った。
「舞台の上でもうちょっと皮を剥いでなぶり殺すんだよ。金を払って見に来る客が大勢いてな、いい小遣いになる」
「う、そ……」
 氷のような恐怖がシャラの全身を包んだ。震えだした体が感覚を失うほど凍えている。嘘じゃないと男は笑い、でも、と言った。
「奴をこれ以上刺激することもないだろう。奴が表立ってアルードに訴えれば面倒だ。切り捨てられるのは今の時点で俺たちのほうだからな」
 だから殺っちゃおう。そう付け加えて剣を持ち直した。男たちはそうだねと相槌を打って同じく刃物を握る。シャラはかたかた震えながらチアロを見た。彼はまだ気を失っているようだった。
「チアロ、チアロ!」
 泣き叫ぶと男の一人が彼の頭を蹴りつけ、それでも焦点が戻らないと知って水差しの中身を傾けた。
 僅かな時間をおいて、チアロが呻いた。声は低く、地を這うようにこごめいて、痛みの余りにきつく目を閉じた。彼の顔に漂う苦悶の深さにシャラは喘いだ。
 怖い。みんな、笑ってる。楽しそう。嬉しそう。
 怖い……!
「お前が苦しむのが見たいんだってさ、お姫様は。起こしてくれって言われたからね、残念だったな」
 チアロの目がシャラを見る。シャラは固まったまま、その視線を受ける。彼の唇が動いた。
 ──逃げろ。
 シャラは喘いだ。何かが自分の胸を深く刺し、その瞬間に呪縛が解けたように体が動いた。扉を開け放って外へまろび出ると同時にチアロの弱い声が呻いたのが聞こえる。
 シャラはそれを打ち消すように窓を開けて大声を上げた。
「助けて! 誰かお願い、殺されちゃう、お願い、助けて、ライアン、ライアン──」
 誰か、と叫ぼうとしたとき、シャラの髪が掴まれて引き倒された。シャラは悲鳴になる。この女、という罵声がして、強烈な痛みが頬でした。撲たれ、蹴り上げられてシャラは泣き叫ぶ。
 男がナイフを振り上げたのが見えた。シャラは目を見開く。呼吸が止まる……!
 一瞬が、永劫に続くようだった。
 振り上げたナイフを構えたまま、男が動きを止めた。シャラと目が合う。僅かに焦点がゆるくなった目を怪訝に思ったとき、男の体が不自然に横へ倒れた。
 シャラは咄嗟にその方向を見た。
 何かが跳躍した。視界をよぎる影。
 男が体を起こしかけたとき、首がのけ反って後ろへ倒れた。男が反射のように首へ手をやる。細い銀の糸が絡みついて、彼の喉を締め上げているのがわかった。
 シャラは視線を上げ、そして微かな驚きに震えた。
「ライアン……」
 端麗な顔立ちが、仄かに紅潮しているように見えた。
 ライアンは頷き、鋼糸を巻きつけている首を、背を支点にして呆気なく折った。
 シャラが何かをいう前に糸を手袋から抜く。彼の一番得意な武器をチアロも扱っていたから、それが何かは知っていた。
 細刃刀という菱形の両刃だ。熟練してくると尻側に糸をつけて自在に操ることが出来る。
 ライアンはすぐにシャラから視線をはずし、部屋へ無言で飛び込んでいく。相手は何人もいるのだと言いかけ、シャラは中から聞こえてきた絶叫に竦み上がってそちらを見た。見た瞬間に、一人倒れるのが見えた。血煙が視界を一旦赤い幕で染める。
 シャラはかすれた悲鳴を上げた。ライアンの体が沈み、鋼糸がきらと光って空中を乱舞する。
 えぐる肉、あがる飛沫、聞こえてくる悲鳴、喧噪。
 シャラの目の前に昔、父と呼んだ男が飛び出してきて無言で窓の枠を飛び越えた。階段を二度回ったから、ここは三階のはずだった。どさりという重たい音を聞く。最後に残った男にライアンは詰め寄り、喉に細刃刀を押しつけた。
「お前たちの雇い主は誰だ。シュクトか」
 男は答えない。その体が不意に痙攣したかと思うと、口から血を吐いて倒れた。舌を噛み切ったのだ。
 漏れてくる呻きにライアンは顔をしかめ、捨てられていた皮膚を拾い上げて男の口に突っ込んだ。その上から靴の踵で無理に押し込む。顎が砕ける音がして、ライアンは呻くように笑った。シャラは過呼吸になってきた息を肩で均しながら壁に貼り付いた。
 怖い。怖い。血の臭いも、上がる悲鳴も、全部が怖い。
 ライアンの口元の影がふと弛まった。まだ笑っているのだ。シャラは悲鳴を上げた。怖かった。
 廊下の向こうから人が来る。ライアン、と呼ぶ声がいくつか混じり、チアロという単語、医者という言葉、そんな雑多な会話は恐怖と混じって暗くなっていく。
 彼らの言葉に怯えライアンに震えながら、ゆっくりシャラは気を遠くしていった。

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