紅花怨 17

 歌が聞こえる。
 微かに遠く、ゆるく、かすれたような優しい歌が。泣きたくなるほど嬉しくて、冷えた体がじんわりとほぐれていく、そんな歌。
 温かいと呟くとその声を嘲笑うように仄かな明るさを増した世界が暗闇へ戻った。ちらりと白いものが眼前を舞う。
 雪が降っている。明かりはぽつぽつ灯っている。路地の両側に並ぶアパートの窓から暖かな夕日色の光が漏れているが、誰も表に出てくる様子がない。それを先ほどから罵りながら歩き続ける女の背は尖っている。
 足は既に感覚を無くしかけている。慌てて足を突っ込んだ自分には大きめの靴の隙間から、雪が入り込んできては助長する。
 寒い。寒いよ。お腹が空いた。戻れないの? そう聞いては罵られ、けれどすぐに同じ事を聞いてしまう。
 この人はあたしを好きじゃない。あたしより、お兄ちゃんのほうがずっとずっと可愛いんだから。
 蝶がいる。
 ──かみさまのほうせき。ねえ、あたしをしあわせなところへつれていってくれる?
 蝶がいる。
 ──待って、あたしも、連れていって。
 走り出す背中が雪の煙幕に消えていく。待ってと呼びながらそれを追う。足から大きめの靴が飛ぶ。怒られると咄嗟に思う。捜さなくちゃと必死になる。待ってと叫んでも、二度と振り返らないと、戻って来ないと、もう会えないのだと、分かっている。
 ──あたしも連れていって、どうして。
 泣き叫びながら足跡を追って行っても、その背中は見つけられない。見つけられないと、分かっている、けれど。
 ──あたしも、つれて、いって。連れていきたくないほど、あたしのこと、嫌いなの?
 手を伸ばす。伸ばした先には、何も掴めない。それが悔しくて焦れったくて、苛立ちながら指先までを限界に引き釣らせる、その筋の痛みで目が醒めた。視界はぼやけた霧の中のようであった。
 何度かゆるく目をしばたくと、空気に触れた反射なのか涙がぼろぼろと落ちる。生温い水滴が頬を滑っていくのを知覚した途端、強烈な不快感が胃を刺した。
 シャラは呻いた。気分が悪かった。悪酔いしたときよりもひどい眩暈と吐き気がする。枕に顔を押し当ててどうにかこらえていると、扉の向こうから微かな声がした。
 ──楽にしてやりましよう。
 一瞬、シャラは身を疎ませる。その声音は音階ぎりぎりに低く、沈痛な暗さを伴っていて、同時に喘ぐほどに重たかったからだ。
 ──医者だって、無理だと言っている。
 ──魔導ならあるいはともな。
 溜息のように答える声は、こちらも暗い。だが、この声を聞いたときにシャラは話題にされているのが自分でないことは理解した。ライアンはあたしを殺しはしない。あたしがライアンにとって特別な女であることは、彼の口から聞いている……少しも欲しくない、ただの同情や見捨て切れない憐憫だとしても。
 ──しかし、……
 三人目の声もひどく倦み疲れていた。
 ──十万です。破産するつもりですか。
 溜息が一斉に漏れた。生命の代金だとしても、法外というより他にない金額であった。
 シャラは体を起こそうとした。眩暈は僅かに収まっていたが、吐き気はまだ内臓を苦しめる。自分の中身がすべてこね回されているようだ。それを諦めてゆっくり寝台に収まり周囲に水を視線で探しても見当たらない。
 目を閉じて誰かを呼ぼうか体を無理にでも叱るべきかを悩んでいると、扉が開く音がした。微かな薬の臭いがした。
 扉の向こう側の男たちの声は一瞬沈静したが、やがてまた囁き交わす声音へ戻っていく。
 ──やつらはどうします。
 ──運河に吊して皮をはいでやれ。クァンは。
 ──探していますが、まだ。ただ、南方系の取引がまだ残っているはずです、あの部屋にあった残りの量からして。いずれタリアに現れるのは明らかだと。
 ──生かしたまま俺の前に連れてこい。
 ──分かっています、が……
 急速に会話が遠くなる。人が自分の前へ立ったのが分かった。ひんやりした手がシャラの額を触り、後れ毛をかき分けている。指の細くて冷たい。僅かに気分がましになる。
 シャラはようやく薄目を開けた。濁った視界が透き通っていく。
 ゆっくり現れてくる相手の面影は知らなかった。女だ。簡素な黒のワンピースに白いカーディガンを羽織り、スカーフを巻いてゆったり微笑んでいる。髪の色は黒、長い髪を複雑な形に編み上げ、所々に挿した白い花が清楚であった。
 最初、面影程度であった容貌が明らかになっていくにつれて、シャラは上がってくる驚愕をゆるやかに確認する。それは、信じられないほど美しい女であったのだ。
 きめの細やかな肌はしっとりしている。至高の宝玉のような瞳は深く冷たい青の色、瑠璃という貴石を思い出させる。仄かに色のついた唇、長い睫。ほっそりした頬の線と同じく体つきも華奢で、手足が伸びた様は美しい獣のしなやかさと同じ魅力がある。
 シャラは随分長い間、ぽかんとしていたようだった。
 女はシャラの意識が完全に戻ったのを理解したのだろう。シャラの寝台の脇の水差しを取った。手振りで飲むように指示されて、素直に従う。シャラは水を飲みながら、この女をちらちらと視界に入れて観察した。どこかで会ったような記憶はなかった。
 だが、この強烈な面差しを知っているような気がする。指にはまった簡素な指輪が一層、指の細さを引き立て儚い。
 女は微かに笑った。
「あなた、だれ……」
 シャラは吐息のように密やかに聞いた。女は僅かに首をかしげて曖昧に頷き、シャラの問いには答えないで隣室との扉を開いた。声たちが再び沈黙する。女は優雅な仕種で手招きをした。応えるように扉から覗いた顔に、シャラは安堵の溜息を漏らした。
 ライアン、と呟くと殆ど動かない表情がややぬるんだ。彼もまた微かにではあるが笑っているのだった。シャラは僅かに声を張り上げてライアン、と呼んだ。
 隣に腰を下ろしたライアンは、だがそれほど明るい表情ではなかった。その後ろ、扉のところからこちらを覗いている表情には幾つか見覚えがあった。以前からライアンが配下の少年たちの享楽にとシャラのいた妓楼を借り切っていたことがある。その時に見知ったのだろう。
「気分はどうだ」
 ライアンの声は、いつもと変わりなく淡々としている。シャラは頷き、自分の記憶のどこからが夢で現実なのかを探そうとしたが、夢幻のような霧の中に混じりあっている映像の群れはどれが事実であるのかをはっきりとは教えてくれなかった。
 だが一つだけ、鮮明に焼きついている光景がある。
 空中を乱舞した鋼糸の輝き、美しい曲線を描いたきらめき、赤い霧、血の降る音、生臭い。
 あの時の押し潰されるような恐怖が微かに呼び戻ってきて、シャラはきつく目を閉じる。自分がひどく箱入りに、おくるみに妓楼で育てられたのは分かっている。もっと大きな店棚の、最高級の遊女などは金の数え方も知らない。遊女たちは大切な商売道具であり、また娘であった。
「少し気持ち悪い……」
 多少の間をおいてそれを無理やりねじ伏せたシャラの口から滑り落ちたのは、自分でも嫌悪するような媚びた声音だった。少しでも彼の気を引きたいと散々妓楼で試して失敗しているくせに、体の良くないときの同情にすがる自分が嫌い。
 ライアンはそれにも頷いた。シャラの額を僅かに撫で、大丈夫か、と呟く。それはシャラにではなく、横に佇む女へ向けた言葉だった。女は頷いた。置いてあった鞄からノートとペンを出してシャラの前に広げて字を書きつける。
『成分は抜いてある。軽い中毒症状は我慢できる範囲のはず』
 シャラが女を見上げると、それを口にして読むように彼女は身振りをした。どうやら口がきけないらしかった。
 シャラは文言を棒読みにした。ライアンは軽く頷いた。それが自分の体調に関する報告であることを悟ってシャラは女を見る。医者にしては若い気がするが、医療関係であることは確かに思われた。多少薬品の臭いがしたからだ。
「チアロの方は?」
『時間が必要。まだ喉を痛めたままで、体調も良くない。何故彼女を? いやだと言ったのに』
 意味が良く分からない。女を見ると、首を振って強く促してきたから字面のまま口にしたが、置いていかれたような不快感はあった。だがそれもライアンと先に話があったことかもしれない。
 そう思ってシャラはふと、首をかしげた。ライアンは字を読めない。教えてもいいとシャラは言ったことがあるが、興味はなさそうだった。では口のきけない女とどんな話があったのだろう。
 チェインの子供でまともに読み書きができるというのは得意な才覚と言うべきだった。シャラが知る限りでは、それはチアロくらいだったのだ。彼はそう難しい構文は書けないが、簡単な字なら読めた。そしてチアロは通訳をするどころではないはずだ。
「それはその時説明したはずだ。清算も済んでいる」
 女は微かに笑い、肩をすくめた。その仕種の甘さ一つが花が零れるほどにかぐわしく、華やかであった。シャラは自分が女を食い入るように見つめていたのに気付いた。欲しいというならこんな顔立ちであったかもしれないし、望んでいたというならこんな空気であったのかもしれない。
 シャラは僅かに唇を結んだ。隣室からライアンを呼ぶ声がする。彼が席を外すと、女はノートを閉じてシャラにもう一度水を飲ませた。何の疑いもなくそれを口に含み、シャラは思わずむせ返る。カップの角度があわなかったのか水が気管に入り、咳になる。
 女の手がゆっくり自分の背をさする。ありがとうと目線を向け、シャラはそれに気付いた。
 女の唇はうっすらと開き、口端は僅かに上がっている。笑っているのだ。それはシャラの失敗を許す笑みではない。可笑しげと言うにはどこか歪んでいる。悪意の顔だ、とシャラは思った。何かを言いかけてシャラは震えが来て黙った。
 女はシャラの体を寝台に押し込めるように寝かせ、毛布を引き上げて肩の周囲を叩き始めた。隙間を潰して中を暖める行為だが、手の勢いは激しい。
 やめて、とシャラは顔を背けた。ぴたりと指先が頬に押し当てられた。整った爪の先までが、完璧な形だった。
 シャラは自分の持っている激しさで彼女を睨み返す。女は僅かに顔を歪め、更に笑った。指が窓硝子の曇にあたり、字をつづる。
『何故お前が生きている』
 シャラは目をみはる。女は口許に笑みを浮かべたままで続きを指先でなぞった。
『お前を絶対に許さない。さっさとタリアから出ていけ』
 シャラは脅えた震えがはっきりと転換したのを感じた。腹の底からたぎるものが込み上がってくる。
「何よ、あんた……」
 女は薄笑いを浮かべて首を振り、窓に残った構文を手で拭った。綴りが外の景色に変わる。会話の証拠を消滅させて女は振り返った。二人の様子に違和感を覚えたのか、隣室の少年たちがこちらを見ているのが分かった。
 何でもないというように女は頭を振る。麗しく微笑んだのだろう、少年たちが曖昧な笑みになって視線を外した。
 口惜しさに胸が煮える。屈み込んで自分の世話を装う女の手を振り払い、返礼の平手を軽く打つと、予測していたように女は最小の動作で後ろへ下がった。
「あんた、誰よ」
 吐き捨てると女は鼻を鳴らした。シャラは誰、と繰り返した。女は込み上げてくる笑いを堪えるように口元を押さえた。可笑しくてたまらない様子であった。
 シャラは無言でもう一度手を振り上げた。今度はシャラの手はすんなり形の良い頬を打ち、乾いているゆえに大きな音がした。
 だが手答えは殆どなかった。女がシャラの平手に合わせるように派手な音を立てて床に転がる。そんなに強く打ったつもりはなかった。不思議に女を見たとき、物音に気づいた隣室から少年たちが入ってくる。その瞬間にシャラは自分の失策を悟った。
 女は彼らの一人に助け起こされて、ようようといった様子で身を起こした。打たれた部分に手をやって形の良い目を見開き、微かに茫然とした表情をする。
 それはまるでシャラに不当な暴力を受けた被害者であるという仕種だった。シャラは顔を歪めた。
 大丈夫かと口々に聞く少年たちに女は弱々しく微笑み、頷いている。その頼りないしぐさがきつい苛立ちにもなった。
 向こうで休んだらいいという彼らの言葉に従う形で女は立ち上がり、シャラに向かって宥めるような微笑みを浮かべた。気にしていないから、とでも言いたげな視線がシャラを更に悪く偽装させるためのものだったとしても。
 出ていきかけた女は忘れていたというような顔で一度シャラの寝台の脇へ駆け寄ってきた。彼女の鞄はそこに置き放されていたのだった。それを掴み、女はシャラの毛布の上に指を押し当てた。素早く綴りを引く。
『死ね』
 女はそれにも微かに笑うと字面を読むように唇を動かして出ていった。シャラはその綴りを硬く握りつぶした。


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