紅花怨 18

 シャラが意識を取り戻したのはライアンの支配する領域の中に立つ屋敷で、通称を煉瓦屋敷と呼ばれていた。他にも幾つか拠点はあるらしいが、詳しいことは教えられない。
 ライアンはシャラに余計な事を教えないように、必要なことは全部自分から話すと言ったらしい。どの少年たちに聞いても、誰もあまり口をきいてくれなかった。
 遠巻きにされている感覚はある。うたた寝するふりで盗み聞いた会話の中身から、シャラはライアンが自分を取り戻すためにあの男たちを切り刻み、逃げた男の行方を捜しているのだということになっているのを知った。
 他人の中に囲まれて気遣われて、それでもなお孤独だと思う。ライアンはこの根城へ戻ってくるよりもタリア王屋敷へ出向いていることのほうが多く、そうでなければ何かしら仕事に手を染めていることが殆どだ。
 どんな仕事であるのかは聞かなくてもよかった。シャラは毛布にもぐり込みながら、不意に蘇ってくる記憶に身震いする。
 鮮血と悲鳴の雨をくぐるのに慣れた様子が、何もかもを雄弁に教えてくれる。その顔に浮いていたのがいつもと同じような陰僻な無表情であったことも怖い。
 ライアンが来ているときはすぐに分かった。屋敷の中に張り詰めたような緊張が漂うからだ。妓楼にいたときには分からなかった、彼がチェインの王だという事実は肌で理解できた。投げる視線や短い言葉で確実に空気が変わる。
 シャラは喘ぎ、体を丸めた。チアロの未来には死の道しかない。それを思えばシャラは深い罪悪感に貫かれて震えるしかできなくなる。だが、彼女を追いつめる彼女の神は、決してその件で彼女を裁かず、赦そうとした。
 懲罰を望んでいるのを分かっていてライアンがシャラを大切に丁寧に扱うのなら、それこそが罰なのかも知れないと、シャラはややこしいことを考えている。……これはまったく勘ぐり以外の何でもないと、分かってもいるのだけれど。
 シャラが溜息をついたとき、扉が不意に開いた。反射的にシャラは身をすくめて毛布に潜り込む。
「起きているか、シャラ」
 シャラは毛布の下でこくんと頷く。人の気配が近寄ってきて、寝台の脇に座ったのが分かった。シャラの肩のあたりが軽く叩かれる。その仕草にはいたわりがあって、シャラは喘ぎたくなる。
 優しくしないで。赦さないで。あたしが悪いのを分かってるくせに、どうしてあたしを責めないの? あなたが優しいときは、あたしに負担をかけたくないとき……
 シャラは不意に浮かんできた恐ろしい結論に身を震わせた。
 チアロ、もしかして。いやと呟いた声は既に涙が混じっている。
 再び呼ばれてシャラは更に怯えて毛布の中でうずくまる。丸く体を縮めていると、卵殻の中にいるようで、それはまるで安全で心地の良い世界にいるようだった。他のことさえ考えたくない。
「どうした、シャラ。起きているんだろう」
 ライアンの声は変哲無い。その居心地の良い世界から這い出したくなくて、シャラは更に意固地になる。
 急に体に冷気がかかった。毛布が上げられたのだ。シャラは丸くなった形のままで視線を上げる。ライアンの表情には、声と同様に何も浮いていなかった。
「起きて歩けるか」
 シャラは遅れて頷く。気怠さは未だ残っているが、日常のことは大まかすることが出来た。
「着替えを持ってこさせるから、ここを出る支度を。ここは若い奴らが多すぎる……」
 ライアンは苦笑している。意味が分からずにシャラがぽかんとしていると、ライアンはシャラの頬を軽くさすった。
「俺とお前はよく似ている。お前を見ると俺を連想するし、チアロのこともあって連中が落ち着かない。俺は四六時中こちらに関わっていられない。他にも隠し部屋を持っているから移れ」
 ごくんと喉を鳴らしてシャラは空気の固まりを飲み込んだ。それは決別の言葉に聞こえたのだ。シャラが蒼白になってしまった理由をライアンは感づいたようだった。再び緩い笑みになる。
「時折会いに行くと前にも言ったな。そういうことだ。支度を」
 それだけ言ってライアンは立ち上がり、扉へ向かった。シャラは待ってと喘いだが、彼は足を止めなかった。
 それはライアンの中では既に決定した事項なのだろう。いやよと苦しく絞った声は彼を振り向かせることもできない。こんなのは嫌いだとシャラは顔を引き歪める。
 いや。いや。こんなの、いや。ここから追い出してあたしをどこかへ囲うつもりなの? それともあたしを隔離して外で好きなことをするつもり? 責任をとったつもりなの?
 そのどれでもシャラを十分に傷つける。けれど、一番シャラが打ちのめされるのは、ライアンのふとした笑みや自分を呼ぶ声で、それが全て別の物に書き換えられてしまうことだ。
 ライアン、とシャラが声を絞り出すと、彼女の支配者は視線だけで振り返った。
「ライアンの、側に置いて……」
 媚びた声だとシャラは泣き出しそうになる。彼の同情や甘さにつけ込もうとしている自分が大嫌い。
 ライアンは軽く頷いた。いや、とシャラは呟いた。即答に近い早さが教えてくれたのだ。ライアンは確かにシャラを手放す気はない。守り、庇うつもりはある──妹だから。
 そんなの欲しくないと言えない。あたしを女として見てくれないならもう二度と会わないとは言えない。好きだとか、愛だとか、そんな理屈よりも何よりも、ライアンが全てだった。
 彼のこと以外考えたくない。他に何も出来なくたって、構うもんか。誰を犠牲にしても結局心がそこへ戻ってしまうなら、チアロを思って痛む胸でさえ、偽善だ。
「ライアン」
 扉を閉めかけた男に、シャラは呟いた。
「あたし、あなたの妹じゃない」
 彼の返答はなかった。

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