紅花怨 19

 連れて行かれた家は、煉瓦屋敷の隠し廊下を通じて降りた地下水路の果てにあった。どこだかはよく分からない。地上の出入り口もあるはずだが、帝都のどのあたりなのかも分からなければ、外へ行ったところで迷うだけだ。
 夕暮れ時の、窓の外の町並みは小汚い。それほど離れていない位置にぼうっと赤く光る一筋の流れがある。赤い川のようにも見え、そこがタリアの大通りであると分かった。
 部屋は入ってすぐの狭い廊下を抜けると居間があり、居間を挟んで小さな部屋が二つという平均的な作りだ。ライアンはシャラを居間の長椅子に座らせ、コートを脱ぎながら奥の部屋に消えた。
 ぼそぼそと話し声がする。誰かいるのだとシャラは悟り、そっとライアンの開けた扉を押した。
「いやだ」
 はっきりした声がした。ライアンの溜息も。
「事情は説明しただろう。十日もいないし、お前には側にいて多少の世話をする人間が必要だ」
「ライアンがしてくれなきや水だって飲まないからね。俺は、あの女の、世話なんか、絶対に、いや、だ!」
 語気荒く言い切って、咳になった。あの女というのが自分のことだと気付いてシャラは反射的な怒りをかみ殺す。呼吸の乱れを聞き取ったのか、ライアンが振り返ってこちらへと手招きした。
「いやだって!」
 激しく言葉を吐き捨てた人影にシャラは視線をくれ、そして、呼吸を止めた。
 吸われるように目線がそちらへ行き、離れない。薄暗い、部屋の中でも輝くように麗しい顔が、激しくきつくこちらを睨み据えている。苛烈さと緊張感はその顔立ちに似合っていた。憎しみさえ美しい、そんな顔。
 シャラは少しの問呆然とし、そしてその顔を見たことがあるのを思いだした。未だ妓楼にいた頃、廊下ですれ違った……いいえ。
 それははっきりとした記憶になって、急に解答の形を取った。あの時のあの女だ……! いや、声が女にしてはおかしい。ではやはり、最初の印象の通りに男か。
 シャラが言葉を失っていると、ふん、と彼は鼻を鳴らした。それはあの時のまま、悪意に固まった物だった。
 他人の憎しみに打たれてようやくシャラは我に返る。
「ライアン、こいつ……」
 二人の声が同時に同じ言葉を紡ぎ、互いに鼻白んだように黙り込んだ。シャラ、とライアンが呼んだ。シャラは生返事をし、溜息と共にライアンを見た。
「いつか話したな、クインだ。今少し体調が良くないから、お前には看病を……」
「やだって言ってんだろ! 何聞いてたんだよ!」
 癇性な声がライアンの言葉を断ち切った。シャラも嫌みそのものに笑って、いやだってと肩をすくめたが、ライアンは許さないと言うように首を振った。
「熱がまだひどい。結局風邪をひかせてしまったな」
 ライアンがクインの頬に手を当てながら呟いている。外から帰ったばかりで冷たいのだろう、クインはライアンの手に頬を擦りつけ、気持ちいいと笑った。ほころぶような、愛らしさ。
「消耗するんだよ、治癒は。喉もしばらく駄目だ、音が紡げないから魔導は当分使えない。俺はチアロなら喜んでするって言ったのに、なんであの女が優先なんだよ。大体あの女は養護院にでもぶち込めば済む話だけど、チアロはそんなことじゃ」
 まくしたてた口調をライアンの吐息が遮った。笑っているのだった。こんなに穏やかで柔らかい笑みをライアンがこぼしていることに眩暈を感じる。
「そんなに喋ったらまた喉を痛めるぞ。シャラのことは礼を言う。気に食わなかったら済まなかったな」
「……いいよ、ライアンの頼みだしね。俺は、ちゃんと頼んでもらったことはあんまり断らないことにしてる」
 くすくす笑う声。シャラに向かって憎しみを吐き出していたときとは空気の色も違う。クインの微笑みがほんのりとしたやわらぎを作って、きらめきが射すような感覚さえ持った。
 めまい。ひどい。
 シャラは一歩下がった。二人から離れたいと思ったのだ。彼らのかわす眼差しと、親しげな口ぶりが完全にその世界からシャラを締め出していた。クインはわざとそうしているのだろう、こちらを見ようともせずに輝くような美貌を振りかざして微笑んでいる。だがライアンまでそれにいちいち頷いたり笑ったりしているのがシャラを突き放し、打ちのめした。
 ──歩けるか。
 ──連れてってくれるなら有難いくらいにはね。
 ──仕方のないやつだ。
 ──今に始まったことじゃないさ。それに俺の我儘きくのも好きだろう?
 苦笑。だが、否定はついに聞こえない。シャラは震え出す。この部屋の異邦人は確かにシャラだった。

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