紅花怨 20

 ライアンの指が彼の元に戻った漢氏竜の煙管をいじっている。それを見るでもなく視界に入れながら、シャラは不機嫌に居間の椅子の上で膝をかかえて黙りこくっている。
 元からライアンは口数は多い方ではないが、クインに見せたような気のぬるんだ笑みを、シャラの前では繕ったようにしまい込んだのがどうしても許せなかった。
「外に出るなよ」
 ライアンの言葉は唐突であった。シャラは雪だし、と答える。窓の外にちらちら舞うものが見える。いや、とライアンは溜息になった。シャラはこの溜息や伏せた視線の横顔をずっと見てきた。クインの知っている彼ではなく。
「お前を身請けた男、取り逃がした」
 シャラは怪訝に首をかしげた。彼が飛び降りたの低い階層ではないのだ。少なくとも、まともに落ちた音は聞いている。怪我をしないで済むことはないはずなのにと思ったことが、そのまま顔に出たようだった。
「下の雪だまりを狙って落ちたようだ。知恵は回る」
 シャラは頷いた。ライアンは溜息になった。彼はクインには笑顔を与え、シャラには溜息を与える。
「奴はお前を俺の弱みだと思っている。また狙われる可能性は高い。あまり、俺とどうこう話すな。妓楼ならお前の体面を優先してやっても良かったが、外に出たからには守ってもらう。俺の女だと喋ると碌なことにはならんからな……返事」
 シャラは俯き、手をきつく握りしめた。先ほどライアンが理由も聞かずに打った場所を。返事を、とライアンの言葉が焦れた。シャラは唇を結びながら顔をあげて、ねえ、と言った。
「あの子、何なの。ライアンの何」
「クインか? あれは……、俺の小遣いの種くらいのことだ。奴は思っていることを十倍に拡大して喋る。俺がいない時に言われたことは九割引いて聞き流しておけ」
 だが、悪意は真実だろう。シャラは顔を歪めた。ライアンはシャラの思惑を分かっている、と頷いた。
「クインはチアロと仲が良かった。チアロのことをお前のせいだと思っているからあんなことを言う……だが気にするな、シャラ。俺はお前のせいだとは思っていない。奴にも必ず理解させる」
 ライアンと同時にシャラも溜息になった。あの憎しみの烈しさを見た後では、それが近い将来だとは到底思えなかったからだ。
 ライアンがいつものように煙草を始める。その手付きを見ながら、ライアンにイチイと呼んだ彼が似ていると思ったことをシャラは今更後悔した。だがもう、何もかも取り返せない。
「チアロ、は……」
 ライアンの顔から張り詰めるように表情が消えた。それは問違いなく悪い話の証拠であった。
「お前が身請けされた日、奴は相手の男を見に行ったようだな。それで俺に知らせてきた。お前を身請けた男はクァンと言って、南方系……まあ、大麻の種別の話はお前には分からんな……今俺が自分の大麻経路で扱っているのが北方系の種類、奴の扱うのは南方系、多少特徴が違うし単価も違う、大体扱う経路がちがうんだが、クァンはその地ならしの先達……分かるか?」
 シャラはしばらくおいて頷いた。自分のためにかなり簡略された話であることは判った。その様子にライアンは苦笑し、しばらく考えてから更に話を簡単にした。
「南方系の大麻をばらまくための、下地を作るのが仕事だ。だがタリアの元の大麻閥が荒れるからな。ここ半年そんなやつらを狩っていた。タリア王アルードも元が北系だのに、新しい配下の中に彼らと組んで手引きをしている奴らもいる……」
 ライアンは長い溜息をつき、煙草をふかした。何か考えているとき、彼は必ずそうした。整った横顔をシャラはじっと見ている。
「クァンはそいつらの中間の幹部だ。南方閥の奴らのところに出入りしているのを見たことがある。チアロも俺が時折その仕事に使っていたから、クァンを見知っていたな。お前を奴が連れていくのを見て尾行(つけ)たようだが撒かれたと俺のところに来た……」
 くゆる煙の色をシャラは見つめた。捕まっていた頃のことは殆ど覚えていない。繰り返し見る雪と蝶の夢、泣いている自分。それから後は……良く、分からない。だが、煙の色は確かに違っていた気がするし、大体匂いがひどく甘たるい。
 それを言うと、ライアンはそうだと頷いた。
 シャラを攫った男たちが扱っているのは南方種ファライ系と呼ばれている草で、強い幻覚作用と神経の興奮に特徴を持ち、中毒性は低くはない。酷くなると記憶障害を引き起こし、次第に立てなくなり、体の筋肉が弛緩してゆるやかに死に至るとされている。果物の腐りかけたような甘い匂いが特徴的で、かさ張るが単価が安い。本格的に出回り始めればライアンの手から一つ、金の出所が消えることになるだろう。
 男たちの要求は三年分の購入者の帳簿であった。効率的で無駄のない販売の経路を確立するためのものだ。ライアンは殆ど字を読めないが、出来る者はいる。それに帳簿の数字の推移や同じ綴りであることなどから大まかなことは分かるようだった。
 帳簿の提出をライアンは撥ねた。シャラに人質としての意味を認めているなら交渉が全て破綻するまでは無事であろうとクインも言ったし、それはライアンも頷けるところであった。
 ここから先は交渉と折衝の話であった。それに、身請け代は安いわけではない。交渉が駄目で帳簿が手に入らなくても、シャラをその内に「巣」と彼らが呼んでいる下層の娼窟に送ることは予測できたのだ。
 そんな単語をどこかで聞いた気もしたが、思い出せない。ライアンは微かに笑って無理をすることはないと言った。
「初めてだと耐性がないからな。短期間に急激に取れば、誰でも多少ぼんやりになる」
「でも、あたし……」
「仕方がない。俺も奴らがお前をまさか身請けするなどとは思っていなかった」
いいえ、とシャラは首を振った。ライアンが意図してそちらから話をずらしたがっているのが分かったのだ。
「あたし、チアロのこと、」
「仕方ない」
 ライアンは反射的な早さで遮った。その語気の強さと荒さにシャラは黙った。沈黙はライアンの溜息が破った。
「仕方ない。奴は……」
 微かにライアンの声に慚愧が滲む。ライアンとチアロが一緒にいるのを見た回数は少ないが、ライアンは彼を弟のように可愛がっていたし、チアロは信仰に近くライアンに心酔していた。絆は素っ気なくも強いものであるよう見えた。ライアンとクインの間にあるのが微妙な感触を残した共棲であるのとは違って。
「奴は俺の指示を聞かなかった。根城を見つけても俺が行くまでは待てと言ってあったのに。奴が連れていた子供が俺を呼びに来たからそちらへ行った。下で煙管を捨ったとき、お前が叫ぶのが聞こえた……」
 宙を見詰めるライアンの瞳がすぼまり、僅かに痛ましげに伏せられた。シャラは俯いた。ごめんなさいと呟くと、ライアンはシャラの頬を撫でた。
「お前のせいじゃない。やつらは周到で狡猾だ。お前を使うことを思いつくなんぞ普通じゃない。何故お前が俺の馴染みの敵娼だと知ったのかは俺にもわからんが……遊女も女将も、どの女にどの客がついているかは喋らんはずだが、仕方がない」
 ライアンの声が次第に遠くなっていくような気がした。シャラは何度かまばたきをして、震え出してきた手をぎゅっと握った。
 イチイという男はライアンに似ていた。彼が与えてくれる優しさと導いてくれる快楽のさなか、自分はライアンの幻を見ていた。目を閉じればライアンと寝ているような錯覚を引き出せるような気がした。そんなことは何度もあった。何度もあったのだ。慌ててライアンの名前を飲み込むことだって。
 青くなって黙り込んだシャラの様子に、ライアンはすぐに気付いたようだった。怪訝に覗き込んだその顔が、シャラの顔色が伝染したように強張っていく。
 微かにライアンが呼吸を止める。シャラは目を閉じた。どんな打撃にも衝撃にも、あるいは言葉の刃でも受けるつもりだった。
 ──深い、吐息が聞こえた。
 シャラは目をあけて愛しい男を見る。ライアンは唇を噛み締めるようにして、じっと前を睨んでいた。煙管を摘む彼の指先が力の加減のあまりに白く、そして小刻みに揺れている。
 何かを言おうとしたのかライアンが唇を開き、そしてもう一度嘆息した。シャラは震えながら許しを請うように、胸の前で両手を組み合わせた。
「ごめんなさい……」
 呻く自分の声が、泣き出しそうだ。いいえ、本当に謝らなくてはいけないのはチアロのほうだ。不用意と言うにはあまりにも基本的なことであった。ライアンは黙って視線を下へやった。苛立っているのか、彼の指が煙管を弄り回している。
「お前は、クインと一緒で、喋るのが好きだな……」
 やがてライアンが低く呟いたのは叱責のような感慨のような、微妙な感触の声音だった。シャラは俯いた。
「だが、それも過ぎれば災厄になる、シャラ。今後一切余計なことを言うな。俺は、……いや、チアロのことは許してもいい。奴は駄目だ。医者が駄目だと言った、だから俺は奴ではなく、お前を助けるように……いや、それもいいか……」
 脈絡の通らない言葉を紡いでライアンは動かなくなった。シャラは喘ぎ、両手で顔を覆った。イチイが自分に執着していたとしても、彼は自分をなぶることが出来れば良かったはずだ。
(しかもライアン・ロゥの女)
(お前が捕まえたにしては上出来)
 そこにライアンの名前が重なったとき、利害は一致したのだ。完全に。後は時間をかけて口説いていけばそれで良かった……
「だから言ったじゃないか。その女は疫病神だって」
 通る声に、シャラは顔を上げた。眠ったはずのクインが起きて、まだだるそうではあるがまっすぐにシャラを睨んでいた。彼は自分の寝台のある部屋の扉にもたれ、顎をしゃくった。シャラに出ていけと言っているのだった。
「ライアンもいい加減にしろ。そんな女より俺のほうがあんたにいいものを渡せるはずだ、そうだろ? だからあんたは俺を飼ってる。それにその女より、俺のほうがずっと綺麗で頭がいい。ライアンの助けになれる。その女みたいなことだけはしない……」
 一息に喋ってクインは咳き込んだ。ライアンがつまらなそうな顔でお前は首を突っ込むな、と言った。
「関係ないことはない。俺はその馬鹿女が俺に頭下げて頼むかライアンが切り捨ててくれるならもう一度、どうにかしてチアロのこと、やってみてもいいと思ってる──なあ、馬鹿女、お前だってチアロを助けたいだろう?」
 シャラは喉を鳴らした。チアロを助ける、という言葉は魅力的であった。進退を塞がれてシャラがぶるぶる震えていると、ライアンが溜息をついた。
「人を助けると言いながら人質を取るな、クイン。それは不公平だ。均せ。頼めと言うなら頼む」
「この女のときみたいに?」
 クインが自分を薄く笑いながら睨付けてきて、シャラは怯える。チアロのことの責任を取れと言われたら。反発する理由が残っていなかった。ライアンは軽く頷いた。クインは苦い顔になった。
「あんた、つまんないんだ。こういう気位だけは高い女だったら俺は幾らでも無理を言うけど、ライアンはその点すごく面白くない。何とも思ってないからね」
「かもな」
 ライアンが苦笑気味に頷いた。シャラはその言葉の意味を思い当たって軽く声を上げた。煮えたぎるものが込み上がってくる。我慢できずにシャラは椅子を蹴飛ばし、クインに飛びかかった。
 引き倒して張り手をくれてやろうと振り下ろす。
 だがクインには当たらなかった。シャラはライアンの腕を打った手の痺れを泣き出しそうになりながら握りしめる。クインは庇われた肩の向こう側からシャラを見て、勝ち誇ったように笑った。
 頭に血が上る。
「ライアンに膝をつかせたのね! 許さないから!」
「ぎゃあぎゃあわめくな淫売! ライアンがいいって言ったんだからそれでいいんだよ、口出しするな、馬鹿!」
「何よ、陰間! 色子! 男狂いで死んじまえ!」
「っンだとこの馬鹿女、お前こそ男狂いのくせに!」
 何かをシャラを言い返そうとした時、頬が張られた。ライアンはシャラの頬を打ち、クインの口を塞いだ。
 シャラは叩かれた場所を押さえて茫然とした。自分にはためらいなく手をあげるのに、クインには決して手荒なことをしない。チアロがクインのことを高級男娼と言っていたからそのためだと思い込もうとする傍らから、先ほどの二人の間の入り込めない空気がシャラの喉を締め上げて、窒息させようとする。
「ど、して……」
 シャラは呻いた。ライアンが何かを言うより早く、唇を塞いだ手を素早く外してクインがせせら笑った。
「教えてやろうか馬鹿女! ライアンが愛しているのは俺だけだ、お前のことなんか少しも愛してなんかないんだ、それが分かったらさっさと出ていけ!」
 クインというたしなめる声が否定でなかったことにシャラは怒りのあまり頬が引き釣るのを感じた。ぴくぴく痙攣している。
「なによ、それ」
 身体中の血が凍りつき、吠え狂う雪嵐のようだ。手足はどんどん冷たく、心までも冷えていくのに、目の前だけが熱い。
「なに、よ、それ……」
 呻くようにシャラは繰り返した。クインの瞳がああ、と面白いものを見つけたように光った。
 次いで浮かんできたのは、吐息が漏れるほどに美しい笑みだった。呼吸の度に花が零れるような芳しさ、目に鮮やかな麗しさが逆にひどく胸の嵐を激しいものにする。
「分かった、そうだ、お前に頭を下げさせるよりライアンから報酬を貰うことにする」
 軽く声を上げる声の弾みまで完壁にまとまった美しさだった。
「チアロを助けて欲しいんだろ? 人質なんか取らないさ。こんな女、どうでもいい。俺にチアロを助けてくれと頼める?」
 出来るなら、という短いライアンの返答に、クインは満足そうにシャラに向かって笑い、そして幻よりも夢に似た微笑みをライアンに向けた。
「じゃ、抱いてよ。簡単なことだろ?」
 シャラは呼吸が止まりそうなほど、心臓の辺りが痛んだのが分かった。ライアンがお前は本当に意地が悪いと呟いた
「お前がシャラを嫌いなのはよく分かった。シャラもお前が嫌いなようだしな。回復したらシャラはここから出すから、気に入らないことを全部当たるな」
「いいじゃない、俺とするのイヤ? そんなことないだろ。ねえ、出来ればこの女の見てる前がいいな、俺」
 ライアンが思い切り嫌な顔をした。シャラは唇がわななくのを感じた。立ち上がり、打ち据えようとするとライアンが腕を掴む。放してと叫ぶとライアンがシャラ、とはっきりした口調で言った。
「クインに傷を付けるな。怪我をさせたら承知しない」
「あたしは?」
「シャラ、俺の言うことを聞け」
「あたしはいいの、ライアン?」
「いいんだよ!」
 クインの声が高くあがった。
「お前なんかライアンには要らないって言っただろ! さっさと死ねよ、ゴミ女!」
 シャラは何かを言ってやろうと無意味に口を動かし、身を翻した。ライアンが後ろで何か言ったがよく聞こえない。
 アパートの階段を駆け下り、シャラは外へ飛び出した。
 外は荒れ狂う雪だった。明かりは路地の両側に並ぶアパートの窓から漏れてくる。吹雪というには弱い風が巻いて、粉雪が時折乱舞する以外に世界は静かであった。
 足が痛い。靴なんか履いている余裕はなかったから。
 見上げると雪。そして俯くとやはり雪。
 表情も感情も全てが止まったように凍えていて、シャラの瞳は何も映さない。ふと視界を何かが動いてシャラは顔を上げる。泣きたくなるくらい、それを願っている。多分、そんなことは起こりはしないのだけど。
 動いたものは窓の人影のようだった。影の形で男だと分かる。落胆、いいえ。これは安堵? どっちでもいい。シャラは既に感覚を失って二本の棒のようになった足をゆるやかにした。止めてしまうともうそこから動けなくなると、薄く分かりはじめていた。
 窓が開く。あの男は自分を買ってくれるだろうか。誰でもいい、少しでもいい、暖めてくれるなら。
 シャラは男の窓の下、明かりの漏れる場所へふらふら寄っていく。男はシャラの顔を見て頷き、上がってくるように合図した。その後ろから覗き込んだ男がおい、と慌てたようにその袖を引く。
 ──あれはまずい。やめろ、ライアン・ロゥの女ってやつだ、見たことがある。
 ──一人だぞ?
 ──触らんことだ、藪蛇になるぞ。
 ──奴を怒らせると首がもげるものな。
 ──南のをばらばらにして運河に吊したって話が……
 急に窓が閉まり、カーテンがひかれた。シャラはぼんやりそれを見上げた。自分を買うつもりがなくなったことだけが分かった。
 寒い。暖かなところへ行きたい。時折肌に少年たちの視線を感じたが、シャラに声をかけてくるものはいなかった。
 ──すげ、美人。やれるかな。
 ──ばっか、あれライアンのだ。手ェ出すなよ。
 ──こわ……
 ──一人でいるから大丈夫だって。
 ──あんな薄着で追い出してるって事はさあ、死んじまえってことじゃない? そんなの買ったら余計だって。睨まれたくねェ。
 ──見なかったんだ、何も。
 ──そうしよう、俺たち、何も見てないんだ。
 囁きかわす言葉に混じるライアンの名前と恐怖。彼の女、本当に死ぬぞ。つつくなよ。薮蛇。
 シャラは凍えて動かない唇から息だけを吐いた。白い煙が一瞬広がり、すぐに空気に消えていった。
 雪は降り続けている。いつから歩き続けているのかもうよく分からない。けれどライアンが後ろから自分を追ってくる気配は微塵もなかった。
 涙さえ出ない。自分には与えられないものを皆持っていくのだ。どんなにシャラが願っても、どんなにシャラが思っても。
 あたしの持ち物なんか、何にもない。
 雪は身と魂に降り積もる。耳元で幼い声が震えながら訴える。
 ──寒いよう。
 うるさい。
 ──戻れないの。
 うるさい、出来るわけない、そんなの。
 ──もう歩けない。
 そうだね。
 ──疲れた。
 そうだね。そうだね、疲れた……
 疲れた。疲れた。歩けない。お腹すいた。眠い。寒い。
 灯火は暖かな夕日色をしていた。あるいは故郷と呼ぶべき場所の、温もりの色を。
 雪は身と魂に降り積もり、真芯から凍らせる。
 タリア。霧散してきた思考の中で必死で考えようとする。金に変わるものといえば、自分自身しかなかった。他には何も持っていない。身に付けている薄いワンピースだけなのだ、自分にあるものときたら。
 でも、タリアヘ出れば。ここ、どこだろう。でもタリアヘいけば。境界門のほうへ、いかなくちゃ。あっちへいけば、ひとがいるから、かってもらえる……
 雪が肌に痛かった。シャラは気力が尽きかかるのを半ば冷酷に見詰めている。歩けなくなったら死んじゃうのかな。どこかへ行くことがそんなに大事なのかなとシャラはぼんやり考える。
 どこへ行っても同じだ。この町でライアンの女だと名乗ったときから運命は一つだ、例えば。
 シャラは俯いていた首をできる限りの素早さで上げる。窓の明かりたちの幾つかで、一斉に視線を逸らし、またはそこから離れる影を目にした。
 分かってる。この町に人はいるけど誰もいない。
 ライアン。シャラは呻く。灯る明りがどれだけ暖かであっても、どれだけそこに人がいて、どれだけ賑やかな色をしていても、それが自分を助けてくれることなんかない。それが世界。
 そこにいてもいるだけの男。そしてあたしも何も持っていない。ライアンの心を捕らえておける、何も。ふと気に留まっただけの女を駆逐できるだけの、何も。何も、何も何も何も!
 ライアン……──
 唇が上手く動かない。小刻みに震えていて言葉を紡ぐのさえ痛みを伴う。それでも呼びたい名前は一つきりだ。誰を傷つけても、誰を踏みつけにしても、狂おしいほど切なく苦しくなる名前はただ一つだけ。
 あたしがいると迷惑? あたしはあなたの疫病神? 一つだけはっきりしているのは、あなたが私の神さまだということで、神様は信者なんて振り返らないものなのよ。そんな愛はありふれすぎて、拾うほどの価値もないから。
 不意に足が止まる。顔を上げると誰かがいた。ライアンに似ている気がする。
 いいや、最期に会えたから。どんな風に呪ったら、あたしのこと忘れないだろう。なんて言ったらあたしのこと憎むだろう。
 息が出来ない。首を絞める手が温かい。
 ぬくもりをくれる? あたしを殺してくれるの? それならそれでうれしいわ、いっそ憎んでくれるなら。
 憎まれたい。愛されたい。どちらにも偏らない、中途半端な同情はいらない。だから殺してくれるならうれしい。くるしい。うれしい。もういい……
 急に視界が落ちた……!
「クァン!」
 一瞬シャラの世界は影に覆われる。座り込んでしまった膝の裏に雪が当たって冷たく、痛い。
 目の前にいた影がつき飛ばされて後ろへ転ぶ。銀色の糸が雪の狭間を縫って影へ食い込む。次の瞬間あがった叫びが耳を打つ!
 シャラの瞳に何かが飛び込み、視界が一瞬深紅に染まった。鮮熱な痛覚にシャラは悲鳴を上げた。男が雪の上を転がり、よろめきながらも立ち上がる。
 それを追って自分の前に立ちふさがった影に、シャラは喘ぎ、呻き、そして歓喜のままに名を呼んだ。
「ライアン……!」
 それは相手の男も同時であった。ライアンの声が僅かに震えながら、何かに焦れるように耐えるように呟くのが聞こえた。
「お前は、よほど俺を喜ばせるのが巧いらしい」
 シャラは顔を上げる。末端がずきずきする。ライアンの頬が歪んでいる。笑っているのだ。微かに震えが来た。
「薬のことだけなら許そう。だが他は余計だったな」
 声を上げて笑うと、ライアンは視線を僅かにあげて明かり、と怒鳴った。
 次の瞬間、シャラは目を焼く光に手をかざした。
 劇的であった。閉められていた雨戸、ひかれていたカーテンがただ一言で全て払われて、一瞬でそこは光溢れる雪の回廊へと変化したのだ。
 シャラは再び悲鳴になった。自分をなぶったあの男へ点々と続く痕跡が、血の跡だと理解したからだった。
 ライアンはシャラに一瞥もくれず、男へ向かって走っていく。雪煙の向こうに背中が遠くなる。だがそれはいつまでもはっきりシャラの目に映っていた。
 男が自分の剣を抜く。暫檄をかわして銀の糸がひらめく。
 喚声がわめきたてている。少年たちが一斉に、窓枠を叩いて雄叫びを吠えているのだ。
 シャラは悲鳴を上げながらあとずさった。
 怖い。笑いながら人を殺そうとするのが何よりも怖い。
 助けて。助けて、お母さん!
 何故この瞬間に母を呼ぶのだろうとシャラは薄く思った。何故と喘いだ瞬間、薄く世界にかかっていた霧が晴れ、硝子の箱が砕け散って、その声をシャラにようやく届かせた。
 ──お逃げ!
 あの瞬間、お母さん、そう叫んでた……!
 呪縛が解けたように、身体が動いた。シャラは跳びはねるように駆け出した。ここから逃げなくちゃ。
 背後でけたたましい歓声と、隙間から絶叫が聞こえる。
 怖い。シャラは喘ぎながら走った。逃げなくちゃ。助けて。誰か来て。殺されちゃう。
 目茶苦茶に走り回り、暗い路地でシャラはやっと座り込んだ。喉が痛い。凄まじい勢いで走ったために、胸全体までが痛んだ。
 ぶるっと震えると、シャラは膝を抱えうずくまった。ただひたすらに怖かった。ライアンの頬の影は歓喜のままの微笑で、それは今まで自分が妓楼でうっとりと眺めていたものよりも遥かに強く力溢れ、美しく、──怖かった。
 そうして長い時間が過ぎた頃、シャラはぎこちなく視線を上げて路地の向こうを見た。雪を踏む音がしたのだった。
 シャラ、と呼ばれて頷く。薄い闇の中、はっきり表情が見えない辺りでライアンは足を止めた。
「帰るぞ、シャラ。クァンはゆっくり時間をかけて生かしてやるが、お前をいたぶった男はこれで最後だが、チアロのこととまとめて精算というものだ」
 シャラは座り込んだまま、ぴくりともしなかった。黙ったままの二人の間を、粉雪が流れた。
「……俺が怖いか」
 シャラは頷く。あの時、ライアンは笑っていた。それははっきり分かった。男たちと同じように、ひどく楽しそうだった。
 ライアンの笑顔を見たことがないわけではない。破顔するのは珍しいが、それでもゆるい苦笑、明るく歪んだ顔を知らないわけではないのだ。
 けれど、それが全く軽いものであったことをシャラは見てしまった。人を手に掛けようとしているときに彼が浮かべた笑みこそ、傲然と、くっきりと、彼の愉悦を教えた。こぼれるような力ある、美しい笑顔だった。
 それが何より怖い。あの男が母を殺そうとしたときにも楽しそうに笑っていた事実が、はっきりと網膜に刻印されていて離れてくれない。思い出す度に、あの日の自分の悲鳴が耳の奥からせり上がってきて、心臓が握りつぶされそうになる。
 そうか、とライアンは低く喉を鳴らした。これは自嘲らしかった。そのいたましさが胸を焼いた。
「そうか、怖いか……」
 微かに声に滲んだものが落胆であったのか、それとも苦みであったのかはシャラには区別できない。だがライアンが自分の頑なさにそんな声を出すのを初めて聞いた。シャラは首を振った。
「うそ……こわく、ない、よ……」
 がちがち歯が鳴っている。ライアンは微かに頷き、自分の着ていたコートを脱いだ。雪を踏む音が近くなる。
 ライアンの手が優しく自分の頬を撫でて寒いだろうと言ったとき、何故か、涙が溢れた。

icon-index