紅花怨 21

 部屋に戻ると、クインは居間の長椅子で眠っていた。深い眠りと微熱の証の頬の赤みが気怠げで、艶めかしい。二人が入ってきた音で彼は目を覚ましたらしく、ぼんやりとシャラたちを見た。
 熱で潤んだ眼差しは蠱惑的と言うには言葉が足らない。シャラの視線に彼は気付いたようだった。生きてたのか淫売、と呟いてよろよろ身を起こす。
 きつくシャラを睨んだ目線は、次の瞬間に何事もなかったように背後へ移った。彼はシャラを無視することに決めたようだった。
「あいつ、出て、来た……?」
 声は潰れかけている。ライアンは軽く頷き、お前の言ったとおりだったと答えた。そう、とクインは苦しく微笑んで、助けを求めるように手を伸ばした。
 寝台に戻すために抱きかかえるライアンにすがるように捕まりながら、俺はどっちでもよかったんだけどねとクインが呟いた。
「あの女、しぶとい。悪運がいい。クァンも、もっとちゃんと中毒にするか、殺してくれたらよかったのに……」
「あまり喋るな、と俺はさっきも言ったな。シャラのことは口出しは無用だ。お前があの女をそういうように」
 クインは肩を軽くすくめ、目を閉じる。ライアンにもたれる弱々しさが故意だと分かっているから苛立ちが募った。
「ライアンの女だって言うからどんなのかって思ってたのに……あんな馬鹿女、俺の方がずっと綺麗で頭がいいよ……あの女を捨ててくれたら、チアロのこと、俺、もう一度……」
「喋るなと言ったのが分からなかったか」
 クインが吐息で笑う。その呼吸のぬるさが自分の首に掛かったようにシャラは身を震わせた。
 シャラをちらりと振り返り、ライアンは首を振った。先ほど言われたとおり、クインの言うことは気にするなという意味であった。シャラは反射的に顔を歪める。
 どういう理屈であれ、どんな事情であれ、ライアンが彼を庇うこと自体がひどく癇に障った。ライアンがクインの華奢と呼びうる体を抱き上げて奥の部屋へ戻すのをシャラは見送る。無視を決め込んでいた少年の目が動き、唇が動いた。
(死ね)
 彼の意志は見事なほどに一貫しているのだった。
 しばらくしてクインの部屋から出てきたライアンは、不機嫌の塊のように肩をとがらせているシャラに苦笑した。
「奴のいうことは気にするな、と言っただろう? あれは言葉数が多くて、好き嫌いがはっきりしすぎている。いちいち気にかけていたら神経が尖るだけだ」
 シャラは俯く。実際クインの言葉にも胸が悪くなるが、それ以上にライアンが彼を許していることのほうが神経に応えた。
 ライアンはシャラの様子には構わずに湯を使うように言った。部屋に戻ってくる間まで、ライアンの背中に体を預けていたが、裸足だった足先や雪に濡れた髪がようやく冷たさを感じ始め、どこもきつく疼いた。
 水でも熱くて触れることが出来ない。時間をかけて体を元に戻すと、震えが来た。悪寒がする。長い時間、外を彷徨っていたのだと思ったのはその時のことだった。
 足下に、水が跳ねる。シャラはそれをじっと見つめる。妓楼にいた時のことが思い出された。
 客が帰ってから、階下の風呂を使う。避妊薬は毎日飲んでいたが、そんな理屈とは別に全てを流し落としたかった、あの頃。肌を水が落ちていく度に、客の付けていった痕跡が流れていくと信じていた。
 シャラは自分の首に触れた。傷跡が残っているかどうかは鏡を見ないと分からないが、部分に触れると痛みを覚えたから、きっと赤く残っているだろう。
 シャラは首の周りを撫でる。イチイが考えたことはよく分かった。ライアンは真実この少年窟の王であり、タリア王に近い男だ。彼の手を最終的に逃れることは恐らく出来ない。
 出来ない、ならば、自分の執着しているものを連れていく。天国だろうと地獄だろうと、そんなことは構うものか。
 それにイチイは、とシャラは追想する。彼はあたしがライアンの好きな女だと思っていた。当てつけるにも丁度良かっただろう。
 そこまで来て、シャラはあ、と軽く声を上げた。
 たった今、気付いた。だからこそ、自分がイチイを誘い出すための餌として外へ放たれたことを。ライアンはすぐには追いかけてこなかった。それに、さっき。
(お前の言ったとおりだった)
 ライアンはそういった。クインの差し金だろうか。あの子はあたしに死ねと言った。そう仕向けるつもりだった。どっちだって彼には良かったのだろう……でも。
 シャラはようやく震えの止まった唇がわななき始めるのを感じる。ライアンも賛同したからイチイは現れた。ライアンはあたしを仕掛けた罠の上に置く兎にしたんだ。
 ばちばちと足下で水が爆ぜるような音を立てている。シャラは顔を歪める。あたしを囮にした。死んでしまうところだったのに。
 吠え上げた声が、狭い風呂場に湯の蒸気を引き裂いて満ちる。あたしを要らないんだ。必要ないから捨てるんだ。
 シャラは自分のこめかみの辺りの髪を掴む。意味不明な言葉を叫び立てながら、身を折った。涙など通り越して、自分でも制御できない衝動が荒れた叫びになる。
 体ごと何かに打ち抜かれて死んでしまいたい。ライアンに必要ないあたしは、あたしにも必要ない、要らないのよ、全部!
 シャラはもがく。体が上手く動かない。風呂の壁にでも死ぬまで頭を打って苦しみながら死にたいのに。
 いや。シャラはもがきながら叫ぶ。
 いや、いや、あたし、もう要らないから。あの人の側に置いてもらえないなら、もう、要らないから。だからもういいから、要らないんだから。要らないんだから。必要なくても愛情が欲しいなんて思ったのが間違いなんだ、だって。
 あたしのこと死んでも良いって思ったんだもの。どっちでも良かった賭に乗ったんだもの!
 ずるっと体が動く。足を酷く打ってシャラは呻き、呻きながら手足をばたつかせる。自分を押さえつける腕を叩き返して丸くなり、号泣しようとした時、体が不意に起こされた。腕の皮膚が引きつって痛い。やめてと泣きながら声を上げると、急に胸が詰まって呼吸が苦しくなった。
 もがこうとした体が、ぴたりと止まった。
 ライアンの体がすぐ近くにある。彼の腕が自分の背に回されて、きつく抱き寄せられているのが分かった瞬間に芯が熔けたようだ。やるせないほど早い、体の反射だった。
「ずるい……」
 シャラは微かに喘いだ。四肢に少しも力が入らない。涙が出る。ずるい、と繰り返してシャラは目を閉じた。ぽろりと涙がこぼれて転がり落ちていく。
 耳を澄ませば鼓動が聞こえる。吐息が肌に当たる。こんなに近くにいられるのは久しぶりだとシャラは頬をライアンにすりつけた。捨てられたくない。ただの調度品でもいいから、側に置いて欲しい。捨てるほどの、意識しないほどの慈悲でいいから。
 しゃくりあげた言葉が、喉の奥に押し込められたまま、ついに消える。ライアンのことを怖い。怖がっている。
 けれど離れられない、だって喉を潤す水がないと死んでしまうから、光の射さない闇では枯れてしまうから。
 あなたの世界に、その側にいたいから、だから。
 そこに至る道筋は一つきりに見えた。覚悟を定めるためにシャラはゆっくり、長く、嘆息した。ライアンがわずかに体を離して落ち着いたか、と聞いた。
 シャラは頷く。ありがとう、と低く言い、次を口にするためだけに目を伏せた。
「お兄ちゃん……」
 ライアンが一瞬呼吸を飲んだ。今その顔に浮いているのはどんな表情だろうかとシャラはぼんやり思う。だが、顔を上げて確かめるだけの勇気は出ない。自分で言うだけでも、震えているのに。
「ごめんね、迷惑かけて。こんな馬鹿な、頭悪い妹を持つと、お兄ちゃんも大変ね……」
 離れたくない。側にいたい。繋がっていたい。ライアンの特別になれないなら、手段も名目も選ばない。
「シャラ、お前」
 ライアンの声には面食らったような響きがあった。今までのこともそうだし、シャラが突然それを認めて驚いてもいるのだろう。
「あたし、やっと分かった。ライアンが兄だって。ごめんね、チアロのことも。本当に、本当にごめんなさい……」
 かこつけて謝罪をしているのがどれだけあざといかは分かっていても、ライアンの心をつなぎ止めておくためには何でもしようと小さく頷く。
 シャラは一瞬俯き、それから朗らかな笑みになって顔を上げた。ライアンは声音の通り、戸惑いというべき表情をしていた。
「ごめんね、ちょっと母さんのこと思い出しちゃって。びっくりしたでしょ? 母さん、雪の日にいなくなったから、あたしこういう日、駄目なの、ごめんなさい」
「いや……それはいい。シャラ、それより」
「お兄ちゃん、あとでお母さんの話、聞きたいことがあったら話してあげる。あたしが知ってるお母さんの話、蝶の話、神様の宝石の話、きっと沢山話してあげるね……」
「ああ……そう、だな」
 ライアンは少しぼんやりした返事をし、それからふと唇をゆるめた。線のきつい花が目の前で開くのを見るような、そんな笑顔が彼の端正な顔に咲いた。人を殺しながら笑っていたときと同じほど溢れてくる心に満ちて、そして際だって明るかった。
「会いたい……」
 シャラはライアンに深く寄り添うようにして呟く。
「お母さんに会いたい……」
 意外なことに、ライアンの返答があった。短い賛同の言葉。シャラは頷き、お母さんと繰り返した。
 こんな形で自分を裏切らない人を手に入れたこと、あなたなら喜んでくれる? それともずるいわねと笑う? でも、きっと許してくれるよね、お母さん?
 シャラは深く頷き、くしゅんとくしゃみをした。ライアンが慌てて身を離すのが新鮮だった。
 もう一つ続けてくしゃみになったとき、シャラは弾かれたように笑い出した。ライアンは目元を和ませ、風呂場の外に置き放されてあったタオルをシャラの肩にかけた。
「まともに風呂くらい使え、シャラ」
「はぁーい」
 ころころ笑う自分の声が、ひどく子供じみていて明るい。ライアンが呆れたように笑ったが、やはりそれもシャラが今まで知っていた彼よりも、格段に明るかった。
 風呂場からは水の音が続いている。放水にしたままだったのだ。シャラは急いで立ち上がり、おどけて肩をすくめるとタオルを放り出した。それがライアンに当たる。
「お兄ちゃんも、濡れてるよーっ」
 濡れびたしだったシャラを掴み寄せて抱きしめていたから彼の服には黒い染みがシャラの体の大きさに出来上がっている。ライアンは苦笑し、曖昧に頷きながら立ち上がった。
「王屋敷へ戻るまでには体温で乾くだろう。それよりも本当に風邪をひく、シャラ、さっさと暖まり直せ」
 今日は王屋敷に戻るのだとシャラは肩を落とす。そんな様子にライアンはまた笑う。クインに与えらえていたような気安い笑みがふんだんに自分に降り注がれることにシャラは浮遊するような満足感を覚えた。
 微かに胸が痛い。でも嬉しい。切ない。でも、嬉しい。嬉しいと思えることが嬉しいと、思おう。
 風呂場に駆け込んで扉を閉めると、少し涙が出た。


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