紅花怨 22

 大丈夫か、と言うライアンの声にクインは軽く頷き、未だ血色の回復しない顔で微笑んで見せた。
 今日は彼は例の女装姿だ。魔導の内には姿を変えて他人の目に写す技もあるというが、彼はそれをしない。化粧をしてスカートをはいてしまえば男だと見破る者はいないし、第一、魔導というのはひどく消耗する……らしい。
 らしい、というのは魔導士自体の数が少ない上、個人で力を借りようとすると伯爵以上の貴族の推薦か皇族の了承が必要で莫大な金がかかる──つまり、通常生きている限り目にすることはない代物だからだ。
 クインは何故だかそれを扱うことが出来る。シャラは多少の読み書きをこなせるが、彼の部屋には見たこともない記号の羅列を記した本が散乱していた。あれが魔導書というものなのだろう。
 ……どうやって手に入れたのか、知らないけれど。
 クインを見つめていた視線に、彼も気付いたらしい。シャラを振り返った。相変わらずそこにあるのは不機嫌で冷たい色だが、それでもシャラが彼に頭を下げた以上、言い出したことの整合を取るつもりはあるようだった。
 そんなことくらい、何でもないわ。シャラは薄く笑う。ライアンがそうしてくれと言ったなら、何でも出来るもの。つまらないことを言わないことに決めたから。
(クインに頭を下げてくれないか)
 だからそう言われたときシャラは素直に頷いた。ライアンは明らかに安堵したように溜息になった。それにチアロのことをどうにかしたいという気持ちは確かにあったのだ。
(いいけどあの子、何なの? 魔導なんて普通じゃないし部屋だって、薬とか本とか……それに女装、男娼? 何なの?)
 ライアンはしばらくおいて頷いた。他人に話すなと念を押されてシャラは約束の替わりに笑顔になった。
(あれは……あれの持つ血筋の宿命は重い。が、それは返せば切り札にもなるということだ。アルードも捜している。俺ができるのは奴がなるべく人目に触れないようにすることだけだ)
(……偉い、ってこと?)
(まぁ、そうだな)
 ライアンはゆるゆる頷いた。
(あの子のこと、愛してるの?)
 シャラは恐る恐る聞いてみたが。ライアンは首を振った。
(寝たか、という意味なら肯定だが。だが、それと愛しているかどうかというのは全く違う)
 そう、とシャラは頷いた。奴はチアロのいい友人だからとライアンが言って、煙草に火を入れた。ライアンの側によると、やはり煙草の匂いがした。
(だから気が立っている。チアロのことをお前のせいだとずっと言ったからな。だが、本当は俺のせいだ。俺がお前と利益を計るのに慎重すぎて奴を苛立たせた……だから奴は連絡役の子供だけ連れてお前を助けに行った。俺を、冷たいと言ったな……)
 微かに揺れる自嘲の影が淡い。シャラはそんなことないわ、と強く言ったが、ライアンの顔にかかる影の濃さは変化がなかった。
 チアロのことは、ライアンも本当に後悔しているのだ。呼び戻せるというなら、何にでもすがろう。ライアンの頼みなら尚更で、ライアンの後悔を消すためなら、絶対だった。
 僅かに胸を突かれるような痛みがする。それを無視してシャラはチアロの側へ立った。
 彼は静かに眠っているだけにも見えた。深い呼吸、ほんのり開いた唇、けれどその顔色の悪さは確かに尋常でない。
 チアロ。ごめんね。シャラは汗で額に張り付いた、彼の髪を丁寧にどけてやる。指先にねとりと膚の油が付く。その生温さが、彼の生命がまだある、生きている、という強烈な実感になった。
 クインが小さな笛をくわえて音階を確かめるために吹き鳴らしている。口笛のようであった。
「詠唱にどれくらいかかる」
 ライアンの声に、クインはペンをくるくる回して見せた。計算する、ということであった。びっしりと記号で埋め尽くされたノートの端で数式をしばらくいじって、クインは一刻半くらい、と答え、溜息をついた。
 確かにそれは長い時間といえた。魔導というのは聞いているだけなら歌に似ているとクインは言ったが、その時間を歌い続けることは辛いことと言えた。まして彼はあまり調子が良くはなく、体力が元からある方だとは思えない。
 もう少し回復してから、ということをライアンも思ったのだろう。そう言ったが、クインは首を振った。
「これ以上時間をおくと、可能性は無くなる。前の薬、少しは効いてるみたいだけど……皮膚の再生は時間がかかるとしても、基本は体力勝負だからね。俺だったらもう死んでる」
 だからこれ以上は時間を遅らせるわけにはいかない、と呟いてクインは苦い溜息になった。理屈はそうでも彼がまだ出歩くことさえ億劫に感じているのは確かであったのだ。
 クインは再びシャラを見た。目付きは凍土のようだ。
「馬鹿女、これでチアロが駄目だったらお前、責任とれ」
「責任?」
「お前に余計な体力使ったからチアロがぎりぎりなんだ。いいか、俺はちっともお前を助けたいなんて思わなかったね。ライアンの頼みだからきいてやったんだ」
 シャラは首をすくめる。シャラが以前のようにいきり立って突っかからないのも気に食わないのだろう、クインは顔を歪め、つんと顎をそらした。ライアンがつまらなそうな顔つきで言った。
「始めるなら早くしよう。俺も忙しい」
 大麻閥のことはシャラにはよく分からなかったが、イチイやその仲間を皆殺しにしたことで、ライアンの周辺はまた騒がしくなっているようだ。
 外へ出るな、ときつく申し渡され、クインの部屋から他のアパートヘ移る予定も先延ばしになっている。クインの存在自体がライアンの握る秘密だが、そのお陰で彼の部屋は安全だった。
 シャラとライアンの関係は表面上は何も変化がない。シャラの対面をライアンが優先してくれた結果でもあるが、それはイチイのようにシャラを手にすることを考える男たちが存在する可能性を否定できないことでもある。外に出るな、というのはそういう意味であった。ライアンはタリア王アルードの下での仕事があるらしく、チアロが以前言っていたとおり、屋敷に居続けで滅多に少年窟には戻らなかった。
 シャラとクインはお互いに殆ど口をきかないで過ごしていたが、外が嵐なら出ていくわけにもいかない。
 クインは頷いた。そうだね、と小さい声がした。
 ライアンが出ていく。チアロは煉瓦屋敷の中の隠し部屋へ移されていたが、何かがあれば部下は必ずライアンを呼びに来る。見張りも兼ねて、彼は外だった。
 クインはチアロの隣に椅子を引きずり、自分の鞄の中から懐中時計を出した。シャラに放り投げる。それを空中で捕まえると、自分の隣に座るように手招きした。
「針がここと、この目盛りを指す瞬間に、俺の膝を軽く叩け。絶対に音は立てるな」
「時計?」
 いらいらしたようにクインは顔を歪め、面倒そのものといった口調で説明した。
「魔導は詠唱の時間の長さも関係する。本職の連中は叩き込まれて覚えるらしいが、俺はこれがないと出来ない。それと、絶対に話しかけるな、声を出すな、絶対に駄目だ。お前の声と混じると効果が無くなる。俺が手をこう、したら水だ。注ぐときに」
「音を立てなきゃいいんでしょ」
 クインは時々はかしこい、と嫌みを呟き、飴玉をいくつか剥いて寝台に転がした。詠唱の途中で口にすることもあるのだろう。
 水を注ぎ、寝台の脇へ置く。先ほどのノートをざっと見直し、見やすいように広げてクインは深く呼吸をした。
 チアロを見る彼の視線の真剣さにシャラは気付く。
(友達)
 彼のことを尋ねたとき、チアロは簡単に、単純に即答した。考えることもないほどに。そしてきっとクインにとっても同じことなのだろう。クインは水を一口含み、チアロの額に指先をあてて、始めようと言った。
「その針が正面に来たとき、合図を」
 返事の替わりにシャラは頷いた。
 最初の一言がシャラの合図と共に始まった。それは確かに歌に似ていた。ゆるく流れ、たゆる歌。時折彼が慎重に音を立てないようにめくるノートに書き込まれた記号は呪文なのだろう。ちらちら目で確認しながら歌い続けるクインの顔が微かに歪んだ。
 彼の額にぽつぽつ、汗が浮き始めている。重力に負けたように落ちた汗の流滴が目に入ったらしく、クインは瞬きを繰り返した。
 が、それよりノートをめくる方が優先らしい。シャラの合図で始まる区節、しばらく休む区節、そんな歌をかなりの時間きいていると、悪酔いしたようなめまいを感じた。
 シャラはクインの膝を打ちながら額に手を当てた。酩酊感、めまい。頭が自分で重すぎて、ぐらぐらする。気分が悪い。シャラはいいつかった仕事に専念しようと前を睨み据える。倒れそうだったが、耐えなくてはと考える側から新しい悪寒が胃の底から這い上がってきて、喉が干上がったように乾いた。
 シャラはクインの出した飴を一つ摘んだ。クインが許可に頷く。飴を口に放り込みしばらく舌で転がしていると、クインの手が動いて同じようにしたのが分かった。
 彼を見ると、その麗しさの具現だったような顔も引きつっていた。もともと透けるように白い肌を持っていたが、今この瞬間に表現するならば蒼白というものだった。
 魔導というものの真実は分からないが、術者や介添者に過度の負担を強いるものなのだろうか。
 シャラがそんな風に思ったとき、クインがぐしゃりと表情を歪めて声にならない喘ぎを吐いた。体が細かく震え始めている。
 シャラは咄嗟にチアロを見、そして感嘆のために目をみはった。あれだけ白かったチアロの顔に、血の気が戻ってきている……!
 クインに目を戻すと、対照的にますます白くなってきていた。唇が紫に変色し、小刻みに震えている。シャラは合図を打ちながら、水を飲むかを手で訊いた。クインのことはどうでも、チアロの体に起こった変化は何よりも確かだったのだ。
 クインは頷き、ノートをめくった。シャラはそうっと水を注いだ。クインが呻きをどうにか押し殺しながらもがくりと首を垂れたのはその時だった。
 詠唱の合間に混じる呼吸が荒い。肩が揺れている。
 シャラはうっかり声を上げそうになる。それを慌てて押し込んでいると、クインはゆっくりチアロの寝台に頭を乗せて面伏せた。ノートが自分から見えるように寝台の上に立て、彼はそれでも詠唱を続ける。チアロを救いたがっているのだ。
 シャラは合図を打つのを膝から彼の腕に替え、クインの汗を軽く拭った。クインが熱っぽい吐息を捨てた。
 クインの詠唱の声が次第に小さくなり、様子はますます酷くなる。休止区節に入るとクインは肩で呼吸を必死に均しそうとし、水を飲み、飲み込めずに吐いた。が、咳はどうにか殺して気配だけを喘がせている。
 音を立てるな、といった言葉の自己遵守にシャラは半ば感心する。シャラの合図をそれでも数えているのか、呪言区節になると顔をあげてどうにか再開する辺り、性根は座っていた。
 いつの間にか、ノートは最後のページへ近づいていた。詠唱も終わるのだ。今まで細かな針の進みしか目に入れてこなかったが、確かに時計の針はクインが言ったとおり、一刻半程度を経過したことを告げている。
 チアロの顔色はもう、あの妓楼の薄暗い闇で見た頃と変わらないほどになっているように思われた。助かるかも知れない。その希望の具体的な形を目にして、シャラは薄く笑った。
 その時だった。ふと詠唱が止まった。休止区節かとシャラはいつものように時間を教えてやるが、クインの体はぴくりともしない。怪訝にシャラは彼をゆする。
 と、力を失った華奢な体が寝台から滑り落ちた。
 最初の頃のチアロと体中の全てを交換したように白く硬直し、目を閉じて動かない。一瞬遅れて呼吸が戻った。
 クインの青い宝石のような目が、ぼんやりと天井を見上げ、めまいをこらえるように、半身をようやく起こした。
 自分のノートを見、そしてチアロを見る。最後にシャラヘ目をやって、顔を崩しておもむろに立ち上がった。その勢いに押されてシャラは思わず後じさった。クインは蒼白で怒りに引きつった顔でシャラに詰め寄り、手から時計を取り上げた。
 衝動のまま、それを窓へ叩きつける。派手な音がして硝子が割れ、寒気が舞い込んだ。
 その瞬間全てが分かった。失敗したのだ。
「責任取れ、よ」
 クインは彼自身が今持ちうる全てを目線に込めてシャラを睨み据えた。激しく容赦のない怒りで自分を殺せるならそうしたいというようだった。
「お前が死ねば良かった、ライアンがどう言ったって……」
 絶え絶えに呟く言葉に籠もる呪いにシャラは唇を噛みしめる。
 クインが何かを更に言いかけ、めまいを起こして再び背後へ倒れた。身を打って呻いた声を最後に、今度こそ失神したらしい。
 シャラはライアンを呼んだ。一人ではどうにもならなかった。
 部屋の中の様子を見たライアンの顔が、北風に晒されて厳しく凍っていった。

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