紅花怨 23

 クインを煉瓦屋敷の奥へ匿うように横たえ、ライアンは溜息になった。途切れ途切れに続く呼吸が不規則で弱い。無理をさせたな、とライアンは苦く呟いた。しばらく無言でクインの額に浮いてくる脂汗を拭ってやり、ライアンは立ち上がる。
 彼の視線が自分に向いてきて、シャラは僅かにすくむ。責任をとれ、と振り絞ったクインの声が、何重にも頭の中で回っている。
 だが、ライアンはシャラに首を振った。クインの罵りの大概を彼は予想できるのだろう。気にするな、ということであった。
「……お前に後のことを頼んでもいいか」
 シャラは頷く。ある程度回復するまでこの場で看病をし、歩けるようになったら例の部屋へ戻るようにといわれ、シャラは再び承諾する。ライアンはクインの鞄の中から薬缶を出して、一度に飲ませる薬の種類と量を細かく教えた。
「これ、全部飲んでるの?」
 呆れ加減のシャラの声に、ライアンもゆるく笑った。
「元が少し弱いらしいからな」
 分かったわ、とシャラは頷いた。ライアン、という声が小さくしたのはその時のことだった。声は掠れてしわがれており、一瞬誰の声だか分からなかったほどだ。
「ライアン、ごめん……」
 目の端が潤んでいるようにも見えた。ライアンはシャラの時と全く同じように首を振った。クインは顔を一瞬歪め、毛布の中へ沈み込んだ。
 ライアンが去ると、静寂になった。シャラは部屋を暖めるために暖炉に石炭を放り込みながら椅子の上で膝を抱える。
 失敗した。クインの様子を見ればわかる、あれは本当に最後の機会だったのだ。
 どうしてあたしを助けようとしたの。シャラは膝に額を押しあてる。クインは養護院にでもぶち込めば済む話だと言った。それも間違っているわけではないのだろう。だがライアンがシャラを助けるように言ったから。
 チアロはもう目覚めないかも知れないとシャラは初めて実感として身震いをした。医者は見放し、魔導は失敗した。
 馬鹿な子、とシャラは呟く。ライアンに言われたとおり、彼が行くまで待っていれば良かったのに。そうしたらあんな目に遭わなくて済んだのに。シャラは顔を歪める。
 馬鹿な子。死ぬと分かっていて火に飛び込んで焼かれる虫みたい。一度否定された想いが叶うなんてこと、あるはず無いのに。最初から無いものは最後までないものよ。最後までないのなら、それは掴めないものなのよ。
 馬鹿な子。呟いてからシャラは頬をひきつらせて笑った。
 そしてあたしはそれ以上の馬鹿だから。
 いいえ、みんなみんな、恋をする奴らは馬鹿だ。こんなに割の合わないことはない。愛はもっと愚かだ。そのために何もかも失うのだから。
 そんなもの無くても、食べて飲んで眠れば生きていくことは難しいことじゃないのに、誰にも目を向けずに一人きりで生きていくことはきっと出来ないことじゃないのに。
 シャラは天井を見上げる。魔導が失敗に終わってライアンが昏倒した彼をこの部屋へ移すのを横目に、シャラはずっとチアロを見ていた。
 確かにほんのりと血色の戻った頬、微かにぴくんと痙攣していた瞼、様々に、彼が戻ってくるだろう証拠を見つけられたはずが、それらはどこにも見いだせなかった。今までのことが、全て幻だったような錯覚さえ覚えるほど、何もかもが綺麗に消え去って、ぽかんとした空間だけが残っていた。
 ごめんね。シャラは唇を動かす。あなたを好きになれなくてごめんね。
「今頃反省か、馬鹿女」
 掠れた声がした。クインの目が開いている。シャラははっと背を正し、椅子へ座り直した。時計は大分進んでいる。かなり長い時間自分はぼんやりしていたようだった。
 クインの声はまだかなり掠れて聞き取りづらかったが、そこに添付された多量の憎悪はすぐに分かった。視線の弱さと目つきの鋭さは全く違うものだった。
「反省しておしまいか、馬鹿女。俺はお前を絶対に許さないからな。失敗したのは、お前のせいだ。最初から俺は、ライアンに、魔導は消耗するから一回きりだって、そう言ったのに奴が、お前を助けろって、言ったから……」
 クインは途切れ途切れに吐き捨てた。苦しいながらもやはり洪水のように言葉を操る性癖とで、それは美しい唇が紡ぐ言葉としては最低の部類に入った。
 シャラが黙っていると、クインは血の気の戻らない顔で、唇を吊り上げて微笑んだ。こぼれるような美しさが開く。麗しい笑みに毒が混じった、壮絶な表情であった。
「お前のせいだ。馬鹿女。お前が、あの男に、ほいほい騙されるからだ、さすがに、妓楼の中だと、視界が狭くて馬鹿な女しか、育たない、んだ」
 シャラは唇を噛む。ライアンが狡猾と言ったように、それはシャラに見破ることが出来る話ではなかったしイチイの申し出を受けたのは、一面ライアンの仕打ちのせいでもあった。
「あれは……」
「言い訳なら聞かないぜ。クァンのせいでもライアンのせいでもない。お前のせいだ」
 クインはそこまでを早口で言って咳き込んだ。混じる音が尖っている。あれだけ長い詠唱であったことで喉は確実に痛めているようだった。
「お前はお前の罪を分かってない。いいか、クァンが騙したじゃなくて、お前が、ライアンを信じなかったんだ」
 シャラは喉を鳴らした。彼の言葉は口汚い罵りと言うべきものであったが、彼の言葉とそれについての正しさ、正しいと自覚する自負とそれを許す気高さは本物であった。
「お前が生きてるとライアンの邪魔、になる。俺は、出来ることはやった。チアロの命の代償は、お前が、払うべきだ」
「代償?」
「死ねよ」
 彼の言葉は簡素なゆえに強烈だった。シャラは表情が強張ったのを知った。少年は薄く笑った。
「お前が生きてること自体、ライアンの重荷だ。今度のことも、お前のことをぐちぐち言っていたから、俺の言うことを、聞かなかった。挙句、チアロだ。俺はな、お前なんか放っておけって言ったのに、勝手に出ていって、勝手に食い物にされてんだから、のたれ死ぬまで見物を決め込んでやればいいって、だのに」
「チアロ……」
 シャラは呻いた。罪悪感と共感の混濁した感情が確かにシャラの心のどこかに巣くっている。
 クインはシャラの沈黙に、意地悪く笑った。他人を魅惑するためだけにその容貌があり、つき落とすためだけに言葉があるような少年だった。
「チアロに死んで詫びろ。お前なんか生きてたって、誰も喜ばない。特に、ライアンは駄目だ。ライアンは、お前の、ことなんか、好きじゃない、何で、それが分かんないのか、苛々する……」
 シャラは寝台から抜けて少年の前に立ち、思い切り頬を打った。彼の熱っぽい、形の良いそこに更にほんのりと赤いものが咲いた。
 愛されなくてもいい、側に置いてもらえるだけでいいと刷り込もうとした催眠が、ぽろぽろ剥がれ落ちていくのがはっきり分かったからだ。指摘する者は敵だ。あたしをこんなに苦しくする。
 クインは微かな喘ぎを上げながら、枕に倒れるように面伏した。倦怠そのもののような緩慢な動きだったが、何かをしてやろうという気は起こらなかった。
 ライアンに言われたことも、苛立ちに変わる。
 クインは枕脇の小さな机の上をまさぐっていたが、やがて舌打ちをして起き上がった。途端によろめいて倒れこむ。シャラは小さく声を立てて笑った。
「笑うな、頭に響く、馬鹿女」
 額を押さえながらクインが言い、目線で何かを探している。シャラはふんと鼻をならし、水差しと錠剤の薬缶を取った。
「俺のものだ」
 シャラはそうね、と不機嫌に頷いた。ライアンからの言いつけに背く気はない。クインを頼むと言われたからには、薬くらいは飲ませてやらなくてはいけなかった。
 クインは薬をまとめて口に放り込みながら、直ったら焼き殺してやるからなと呟いた。クインは寝台の中へ戻りながらしばらく呼吸を荒げていたが、きつい視線だけはシャラに当て続けた。
「……淫売」
 ようやく唇を動かした少年の最初の言葉がそれであった。シャラはあんたもね、と答えた。
「俺は違う」
 シャラは微かに笑った。男と寝て金を貰ってるなら同じよ、と断罪すると、クインはふと笑った。口さえ開かなければ夢幻の中から出てきたような美しさ、目を奪うためだけに生まれてきたような麗しさだった。
「違うね。俺はお前みたいな馬鹿じゃない。お前みたいに目先のことにつられてライアンを捨てた挙句、みっともなくすがり直すことなんか、絶対にしないね。お前がいるから全部悪くなるんだ。それをその男の事だけたっぷり詰まったクリーム壷みたいな頭で理解できたら、屋上からでも飛び降りろ、死ね、馬鹿女」
「な……によ……」
 シャラは息苦しさを耐えるために胸倉をつかんだ。クインはシャラが打って切れた唇を拭い、そこについた血の筋に掠れた笑い声を立てた。
「お前……」
 不意にクインが言った。静かな声音には怒りよりも憎しみよりも、もっと恐ろしく深いものが宿っていた。瞬間胸内に湧いたものを、シャラは恐れだと悟って顔を歪めた。
「お前本当に、ライアンがお前のことを気に掛けてると思ってるのか? お前なんかただの荷物だ。引っ越しで捨てるゴミさ。ライアンの足、引っ張りやがって……チアロのことも」
 クインは顔をゆがめた。
「お前が、あんな男にほいほい騙されたから」
「イチイ……」
 シャラはその名を呟いた。その名は自分の身からは遠い場所にあるようだった。すっかり忘れ去っていた過去の亡霊が突然現れて自分をおそったのだと思うとひどく背が冷えた。クインが馬鹿にしたように笑った。
「馬鹿だな、あいつの名前はクァン、ファライ系の麻薬経路の先達だ。やつらの小遣い稼ぎに見事に引っかかったお前もすかすかだな、ライアンヘの当て付けか、奴がリィザを抱いたから? そんなの俺の女だって分かってるから、興味があるんだ……ライアンが愛してる、のは、俺、だけだ、から」
 シャラは嘘つきと低く言ってクインをにらみつけた。クインは彼特有の誇らかな笑顔になった。
「ライアンが愛してるのは、他の誰でもどの女でもない。お前はそれを、遂に理解しなくてはならない。それでも、ライアンがお前に少し気に留めたことを思い出にして、死ぬに不足はないはず──と、リィザに言ったって?」
 リィザ、とシャラは眉を寄せたがその言葉は思い出せた。ライアンを取ったあのいもうとに懲罰をくれてやったとき、そんなことを言ったような気がする。では、リィザというのはあの女の本名なのだろう。そんなことは今更、どうでも良かったが。
「ああ……リーナね。あれはあいつが」
「人のせいか? 性根が腐ってると醜いって本当だな」
 シャラは落ち着いてきた呼吸が眺ね上がるのを感じた。無言のまま素早い動作で完璧に整った頬を平手打ちした。クインの身体が一度跳ね、彼は呻いて丸くうずくまるような形になった。一瞬黙り込んだが、やがて僅かに顔を上げて仰向けに転がる。解けて広がる髪、頬にまつろう後れ毛と物憂い眼差しが蠱惑的であった。
 クインはそのまま、僅かに喉を震わせ始めた。まるで嗚咽のようだと思った瞬間、華やかに笑い始める。それは高らかな勝利の呼び声に似て、シャラを立ちつくさせるのに十分だった。
「そうだよ、確かに不満はないはずだよな! そうだろう、馬鹿女! そうだ、ライアンがお前に気を掛けてやった思い出を抱いて死ねよ、不足はないんだろ?」
 それだけを凄まじく早口で叫び上げて、クインは激しく咳き込んだ。シャラは再び手を挙げようとした。クインは咳を続けながらシャラの目を睨み上げてきた。
「お前のせいだ」
 その声には今までのような揶揄も悪意すらも感じ取れなかった。ただ苛烈はげしい怒りがまっすぐ入ってくる。
「お前がいるからライアンは苦しくなる」
 クインの声が静かにシャラを引き裂いた。シャラは首を振りながら、後ずさった。あたしのせいじゃない、と呟いた声がおかしいほど、震えている。
 チアロ、あたしのせい? そう、それは、多分……
「お前のせいだろ!」
 クインが怒鳴った。反射的にだって、と言いかけたとき、クインの形の良い眉が跳ね上がったのが見えた。
「だって?」
 クインは顔をゆがめた。
「チアロは、本当に、死ぬかもしれないんだぞ!」
 その瞬間チアロの絶叫が耳奥から叫び上げた。
 シャラは喉を詰まらせて下がった。その言葉だけが真実、クインの洪水のような言葉の中で唯一、心をわし掴んだのだった。
 クインも震えていた。それが怒りのものだと気づいてシャラは喘ぐ。この怒りが当然なのだ。何故ライアンはあたしを見捨てなかったんだろう。
 お兄ちゃんと呼んだとき、嬉しそうだった、そのせい? あたしをずっと妹だって、そう信じてきたから?
 じゃあ、妹だっていうのが事実なら、あたしはずっと彼の足枷になるの? あたしのせいで?
 あたしが……妹だといったとき、嬉しそうだった──とても、嬉しそうだった。あんなに明るく笑うあの人を、見たことなんて無かった。
 持て余し、辟易し、シャラの視線に閉口してさえライアンは彼女を見捨てなかった。厭う素振りはあったが決して置き去りにはしなかった。だから妹だとはっきり名乗ったら……それはますます酷くなるのではないの?
 シャラは自分がくっきり青ざめているのに気付いた。
 妹として彼の側にいることは、きっと同じような事件を呼ぶ。自分が考えたとおり、別れたらそれまでの他人と、血縁の女はまるで違う。ライアンが違う、と言った。
 チアロの命を失おうとすることが、ライアンにとってどれだけの負荷だろう。ライアンは結局イチイたちが言っていたように、甘い。その甘さが彼の足をすくう。
 一番の罠は……自分かも知れない。
 いるだけで災厄ということなら、妹だと言ったあの言葉を、再び否定してみたらどうだろう。シャラはごくんと喉を鳴らした。
 今更撤回したらライアンは自分から離れていく。妹じゃないと再び翻せば、それは特別でない、他人だから放り出してという意味に等しい。
 彼は、あたしのことを忘れてしまうだろうか。自問自答の末、シャラは自嘲に顔を引き歪める。
 妹か否かの答えを出さなかったときでさえ、彼は他の女に興味を持ち、何度か関係を持った。今あたしがいなくなれば、きっとあの女の所へ戻っていく。
 ──そんなの、絶対にいや!
 シャラは目を閉じて耳を塞いだ。外界から自分に流れ込んでくるものをはね除けたかった。けれど一番声高に自分を裁くものは、実は自分の中からやってくる。
 チアロのことはあたしのせいだ。そして次に犠牲にしてしまうのがライアンでないとどうして言えるんだろう……
 いや。それは先ほどよりも反射的だった。
 彼を好き。好き。溢れてくる水は妹だと名乗った日よりもずっと熱い。神様。シャラは呟く。
 あたしを好き? あたしを覚えてる? あたしが何を思って何をしたかったか、知ってるの? 裁くなら裁いて欲しいと、殺してくれるなら嬉しいと、思ったことがあるのを知ってる?
 好きだから、大好きだから、自分よりも世界よりもずっと大切だから、あたしはあなたに何もかもしてあげたかったし、全部をあげたかった、全部喰われてさえよかった。
 ──殉教しろと、いっそ言ってくれたら嬉しかった。
 自分のために死ねと言われず、特別な女として愛されず、妹となってチアロみたいな目に遭わせるくらいなら……
 シャラはふらりと背を返した。おい、と後ろから呼ぶ声が聞こえたがそれは彼女の神のものではなかったから、振り返りる必要は無かった。

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