紅花怨 24

 扉を開けると顔に粉雪が当たった。名前を呼ばれて振り返れば、ライアンの配下にいた隻腕の男が踊り場に立ちつくしていた。
「どこへ。屋上に上がっても、何も無い」
「……あなたに関係ないでしょう」
 シャラは婉然と笑った。訳もなく胸が高鳴っている。それは何のせいだろう。何か予感がする。何もないわけではないのだと。
 男は首を振ったが追ってくる気配はなかった。当然だとシャラは思う。ライアンは彼を含めた年若い連中の王だ。そしていずれ、タリア王になるだろう。彼らの上に立ち、彼らを導く、彼らにとっての絶対支配者が、たかが女に翻弄された挙げ句破滅するのを希望する者はいない。
 外は暗い。雪のせいで濃い灰色の闇になっている。時間的にはまだ夕方前の筈だが、視界は至極悪かった。シャラは屋上へ出る階段を一歩上がり、そして男を振り返った。
「ディー……って言ったわね、ライアンを呼んで。話があるの」
「外で?」
 そうよ、とシャラは頷いた。男は失笑した。
「ライアンは忙しい。話なら彼が戻ってからにするんだな」
 シャラは階段の一番上に立ち、踊り場を見下ろした。彼はライアンと同じく、無表情でそこに立っていた。
 それが何故かをシャラは分かる気がした。自分が何を考えているのか、悟られたくないとき。
 シャラに見透かされたくないなら、彼の考えていることは一つだ。彼もクインと同じように、シャラはライアンのためにならないと思っている。シャラはディー、と言った。
「煙管はライアンに返してしまったけど、あたしはまだ呪文をつかったわけじゃないわ。ライアンを呼んできなさい、あなた、そうする義務があるでしょ? ──彼の名は、ライアン・シシラグ」
 男は一瞬の躊躇を置いて頷いた。待っていろという言葉は信用できそうだった。男の背が階段を下りていくのを見送って、シャラは雪舞う外へと踏み出した。
 寒波が身を切るように痛めた。寒い。シャラは呟く。
 この寒さは雪の寒さ、世界を凍らせて自分を眠らせる、その冷たさ、だから寒くて当然なのだ。
 世の中はいつか母と彷徨った雪の闇と同じことだ。寒くて冷たくて、振り返れば足跡さえ消えていて、助けを求めたってこちらに気がついていたって、見て見ぬ振りの他人ばかりが住んでいる。
 だから今更失望も期待もしない。欲しいものなんか無いから。何も要らない、欲しくない、たった一つの言葉だけが欲しかったけど、もう……いいんだ。
「おかあさん……」
 罵らずには、呪わずにはいられなかった、その言葉の強さを弱さを悲しさを愛しさを、全部を雪が吸い取って無かったことにしていく。それが世界。シャラにとって、そして母にとっても。
 おかあさん……
 誰もが自分を捨てていく。置き去っていく。望むものは手にはいりはしない。それが世界。
 ──雪は、身と魂に降り積もる。
 どうしてあたしは望まれないの?
 あたしは何でもやった、必死だった。何でもするって思った。あなたの視線が、声が、あたしを呼んであたしを愛してくれるのが、あたしを愛しいと可愛いと言ってくれるのだけが、欲しかったのに。
 どうしてあたしじゃ駄目なの? 何がいけないの? 側にいてあなたを必死に愛したあたしより、ずっと前に手放した兄の方が大事なの? あたしの心じゃ足りないの?
 ──あたしのこと、嫌いなの?
 ずっと怖かった。だけど、逃げるように言ってくれたから。シャラは微笑みながら雪の乱舞を見つめた。荒れる渦は白く巻いて、夢幻のように烈しく美しかった。
 その中を飛ぶ蝶の輪郭。羽ばたきの軌跡が見える……
 ううん、これは違う。きっとあの日の蝶、あたしが見送った遠い日の、赤い格子。故郷の名前。帰り着く場所。待ってる。あなたを、あなたのことだけを、ずっと待ってる。
「おかあさん……」
 シャラは呟き、目を閉じた。ぽろんと一粒きり、涙がこぼれた。
 視界を不意に青い影がよぎった気がした。蝶、とシャラは呟いた。それは幸福の使者の名前。自分につけられた望みの種類。
 何を母が自分に見たかったのか、シャラには分からない。けれど理解し合うことが出来ないのなら、母が自分を気に掛け、愛してくれた証拠を探す方が余程楽しかった。
 迎えに来て。シャラは呟く。
 屋上に雪は激しく乱舞する。視界を瞬く黒白の点滅が目の奥に痛みを刻む。頬にあたる雪や唇を撫でる雪が刺さる。シャラは何度かゆるい瞬きをした。
 ちらりと見えた気がした蒼い影は、何処にもなかった。
「──シャラ」
 後ろから声が呼んだのに驚いて、シャラは振り返る。雪の中で彼の姿はいっそう鮮やかに浮き上がっているように見えた。
 ライアンはもう一度、シャラと呼んだ。シャラは笑った。それは今まで自分が聞いた中で、一番愛しさに溢れた彼の声のような気がしたのだ。
「ありがとう。来てくれて嬉しい」
 静かに言うと、ライアンが顔を歪めた。
「何をしている、戻ってこい。何がどうしたのか俺に説明しろ」
 返答がないと知ると、ライアンは再びシャラと呼んだ。シャラはゆるく微笑んだ。
「チアロのこと、ごめんなさい。本当にごめんなさい。あたしは生きている限り、あなたの得にならないわ。あたしにとってライアンは、神様みたいだったから」
「シャラ、意味が分からない。俺を呼んだ理由は何だ。俺は」
「死ぬこともできない場所に閉じ込めて飼うつもりなのよね」
 ライアンが絶句する。シャラはライアンに正面から対した。彼の顔は雪幕の向こう側で微妙にぶれて見えた。
 神様。シャラは目を細める。
 愛しくて、絶対の、あたしの、神様。
「あたしは世界中全てを差し出してもあなたが好きだから、大好きだから、あなたに全部あげたかった。でも、あたしに持っているものは何にもなくて、あなたにあげられるのは死体だけってことが分かったの」
 ライアンが曖昧に首を振る。否定というよりは自分の聞いた言葉が何を指しているのかを理解できていない仕草だった。
 そう思った瞬間、笑顔がこぼれた。見てはならないものを見たときのようにライアンの顔がひきつり、頬が痙攣したのが見えた。
「……よせ、シャラ。戻ってこい。こっちへ」
 差し伸ばされた手が嬉しい。引き留めてくれるのが嬉しい。これがライアンという男で、この見限れないところが好きで、これが彼の一番の致命的な欠点だ。
「ありがとう、嘘でも嬉しい。でもあたしはライアンのためにはならない。そうでしょう、お兄ちゃん?」
 ライアンが唇をふるわせ、何かいおうとし、沈黙した。シャラはまた笑う。彼の沢山の顔を見ることが出来て、嬉しい。何と引き替えでも嬉しかった。
「いいの、無理しなくて。あたしがあなたの本当に他人ならあなたはあたしを捨てることもできるけど、あたし、あなたの妹になるって決めたから、妹だから、あたしが自分で降りない限り、あなたはあたしを守ってくれようとするから、だからもういいの。いいんだ。いいのよ。あたしはあなたのために死んだ方がいいんだ。やっと分かったから、だからいいの」
 シャラが笑うと、ライアンは唇を結んだ。雪の音が二人の間の距離を埋めて、今は近く寄り添っているように、彼の温度や彼の心が分かるとシャラは思った。
 ライアンは損得勘定はできる。シャラの言葉の真実、詰まるところ自分の弱さは認めているのだろう。けれどシャラを失うことは痛手だ。天秤の傾きを戻す方法を、彼は必死で探している。
 けれど、結局彼が欲しているのは家族であって、シャラではないから。あたし、とシャラは目を閉じ、凍えてきた顔で微笑んだ。目的のために、手段なんか、選んでやるものか。
「あたしがあなたの為にここから飛んで死んだら、きっとライアンはあたしのこと忘れないもの。生きていたら薄情だけど、死んだ人には優しいものね」
 淡々とした喋り方は。ライアンから学んだものだ。感情なんてものを込めない方が、余計に心に響く。ライアンの口から自分の名が呼ばれる。それは押し殺すもので震えていた。
「シャラ、俺はお前を、理解したいと」
 選ばれた言葉だとシャラは頷いた。何を言ったらいいのか、考えた末の罠だ。ライアンの理屈など聞き飽きていたから、もうそれには動かされないとシャラはそう、と突き放して笑った。
「ライアンは、あたしがこんなこと考えてたのを、知らなかったのね。いいわ、許すわ。あなたのことは全部許すことに決めた。さっきの言葉の意味を教える。──あたしはあなたにとって生きてる価値がある女?」
 シャラ、とライアンが呻くのが聞こえた。自分がうっとり微笑んでいるのにシャラは不意に気付く。笑っているんだと思った瞬間、凍ったようだった表情が開くように破顔したのが分かった。
「ほら、答えられない」
 違う、とライアンは喘ぐように呟き、それを自分で信じるためのように、何度も首を振った。
「俺はそんなことを思ったことはない。俺の足かせだと思うな、お前が死ぬことはない」
「違うわ」
 シャラは笑い出したくて仕方がない。ライアンは結局、シャラをまるで分かっていないのだ。
「あたし、あなたのために死ぬんじゃない。あなたを破滅させたくないの。亡霊になってあなたに一生つきまとうことが出来るから、ここから飛び降りてあげるのよ」
「シャラ、そんなことをしても何一つ生まない。自分で何もかも捨てるような真似をするな」
「いいえ、あたしには元から何もないもの。あたしの世界には、ライアンしかいない。それでもいいの。あなたに愛されなくて必要じゃなくて、役に立たない上に足を引っ張るなら、あなたにあたしの価値はないの、そういうことだから」
 シャラ、とライアンの荒げた声が遮った。彼を見ると、雪の向こう側に青ざめた彼の顔があった。
 彼が何を言うのか、シャラには分かった。ライアンはシャラの内面を知らないが、シャラはこの五年、彼の心と機嫌を窺い、それに一喜一憂して生きてきた。全ての基準はそこだった。彼のことしか知らないのは真実なのだ。
「あたし、あなたの妹じゃない。調べたんでしょ? あたしも知ってるのよ、チアロに調べてもらったもの」
 解答はもらっていないけれど、シャラには確信がある。
 ライアンは誤魔化すときは、語らない。真偽をうやむやにしておきたいときは、そもそもその話題を素通りしたがる。だからきっと、自分は彼の妹ではない、別人なのだ。
 ひょうひょうと風が唸った。ライアンはじっと何もない場所を睨んでいた。時間を酷く長く感じ始めた頃、ようやく彼は口を開いた。
「……済まなかった……」
 ライアンの呻きを初めてシャラは聞いた。
「済まなかった、シャラ。それは──謝ろう。俺とお前は他人だ。俺はただ、お前が妹であってくれたらいいと、それだけで」
「いいの」
 シャラは素早く言葉を遮った。ライアンは片手で額を押さえていた。彼の苦悩の影、辛そうに歪む口元、それらもまた初めて見る。そのことが自分を微笑ませる。鍵のついた扉が開いていく音を聞いた気がした。
 胸が締め付けられる。彼の翳りが辛くて切ないくせ、狂おしいほど嬉しい。痛みを植え付けて、彼を傷つけて、呪いながら血を吐きながら。彼に憎まれて殺されたい。
 嬉しい。嬉しい。シャラは次々に沸いてくる笑みで飽和してくるのを感じる。傷の付かなかった硝子に引っ掻き傷を入れたように、処女雪を滅茶苦茶に踏み荒らしたときのように、自分が今、彼の中で一瞬だけでも唯一ならば。
 嬉しいと笑ったとき、雪がシャラの周囲で流れを変えた。足元から吹きあがる熱くて浮遊するような、そんな熱がシャラを浸してもっと高い場所へ連れていってくれる。
 視界を塗りつぶす白がまぶしい。夕方近い時刻のせいか外が暗いからか、窓の明かりはぽつぽつと灯っていく。その明るい光が乱舞する雪に滲み反射して、虹色の光彩を描き出す。
 綺麗だとシャラは目を細める。昔からシャラは綺麗なものが好きだった。安物ばかりだけれど輝いていた母の宝石箱、道ばたに群れて咲く花、そして青く煌めく蝶。
 うとうとまどろむ午後にシャラの前に降りてきた、美しい、生きた宝石。羽ばたきに引かれるように手を伸ばした幼い日。
 ──きらめく羽粉が反射する。母の掌から飛び立った蝶が青い軌跡を描き出しながら消えていくのを二人で見送ったあの日。
 シャラと呟いた母の声音に龍もったものは、何だったろう。あまりに幼くて分からなかったけれど、それが幸福の使者の意味だったと知ったとき、多分、とても嬉しかった。神様のくれた宝石で出来ていて、幸福の場所へ連れていってくれる?
 そんなことを追憶に問えば、そうねというたどたどしい言葉が返る。あ、お母さんの声。
 神様の宝石で出来た、幸せの場所へ連れていってくれる御使いなのよ。もう寒いこともないし、お腹も空かなくなるからね。
 ──ほんとう?
 それが幸福だった頃があった。暖かくてひもじくなければ幸福な日が。
 ──ほんとう。蝶がくるよ。神様が迎えに寄越してくれる、宝石なんだよ、綺麗な、幻みたいな。
 ──きれいなの? だいすき、おかあさん。
 幼い声にシャラは頷く。いやなこともあったけど、必ずあたしをどこにでも連れていってくれた。食べ物の一番をいつも必ずあたしにくれて、あの男を叩き出してくれた。あの瞬間あたしを選んでくれた、逃げなさいと言ってくれた。あたしが一緒に行かないように置いて走って行ってくれた、だって運河なんてすぐ脇にあってすぐ飛び込めたのに。あの言葉だけで、あたし、本当に嬉しかったから。全部許せてしまうほど。
 でもごめんねお母さん、あたし、もうおかあさんのことを追って走ることが出来る年になったのよ──
 目の前を、青い影がかすめた。
 蝶だ。闇を舞いながらゆるやかに自分を導いてくれる蝶が見えた。シャラは破顔する。嬉しかった。
 連れていってくれるんだ! 追って走る青い羽、淡く輝く燐光の奇跡、羽ばたく度にまき散らされる、美しい光の泡たち。神様のくれた宝石で出来ている、美しい使者。
 来てくれた! 手を伸ばす。捕まえなくちゃ。いつかの窓の桟にいたあの蝶のように、掌におさめて開くと目の前に広がる、宝石箱のきらめき。一瞬の輝き、それは本当に一瞬の、目を奪うほどの美しさだった。
 シャラは微笑み、顔を上げた。
「ごめんね、チアロのこと。お母さんがね、あたしに逃げなさいって言ってくれたの。あいつの手を押さえながら逃げなさいって、言ってくれた。だから、お母さんが、そういってくれたから、あたし、それで良かったんだ……」
 シャラ、とライアンが呻いた。お兄ちゃん、とシャラは言った。ライアンはじっと俯いたまま目を閉じた。
「ごめんね、ライアン。たくさんあなたに迷惑かけて馬鹿な妹がいたって、そんな風に覚えててね。あたし、お母さんに沢山、あなたの話をしてあげる。お母さん、お兄ちゃんのこと、好きだったから。あなたがお兄ちゃんでも違ってても、お母さんに話したら喜ぶと思うの。同じ名前だったの、偶然だけど知り合えたら偶然じゃないかも知れないからきっと喜んでくれる」
 微笑みながら言うと、ライアンは再び呻いて額を押さえた。彼が震えているのにシャラは気付き、寒くないよ、と言った。
「あなたを愛してる、妹でも、そうじゃなくても、愛してる」
 価値が欲しかった。母親の愛情を受け取る価値。ライアンの心をつなぐ価値。一つ失って一つを得るなら、それはとても条理だ。
「だから、あたしのことを忘れて幸福になってくれると、嬉しい」
 シャラは自分が今どんな風に笑っているのかを見たいとふと思った。きっととても嬉しそうなのだろう。
 死ぬときは彼を傷つけて、いやと言うほど自分を刻んで死にたい。その痛みを忘却できない弱みにつけ込んで、あなたのその弱さと優しさを食べながら、あなたの胸に生きていく。
 無限と永遠の苦しみを刻印できるから。
 シャラはお兄ちゃん、と呼んだ。
 顔を上げたライアンの顔に、思った通りの痛みを見て、シャラは自分に出来る限り優しく微笑んだ。
「話、聞いてくれてありがとう。さよなら」
 シャラはライアンに背を向ける。日が落ちてきて暗さを増す路地は、星を地上に落としたように綺麗だった。蝶が瞬く。お母さんとシャラは呟く。自分を迎えに来てくれる人がいたのだから。
 屋上の縁に足をかけた時だった。
「──シャラ。俺のために死ねるか」
 鼓動が一つ、大きく鳴った。シャラは振り向く。ライアンはもう俯いていなかった。彼の目にシャラを射抜く光が戻っている。
「無価値だというなら、俺が、死ねという時に死ね。お前が生きているだけで俺の利益になることも、無い訳じゃない。俺のために死ねるか、シャラ」
 シャラはゆっくり振り返った。視線が絡み合ったとき最初に頷いたのはどちらであったか、判然としなかった。
「……アルードのところへ行ってくれ」
 それはタリア王の名であった。シャラは首をかしげた。ライアンはタリア王の片腕だとチアロには聞いていたし、幹部扱いであることは確かだった。事実少年たちはもちろん、大人たちでもライアンの名を聞くと震え、恐れたのだ。
「アルードと俺は信頼しあっているわけでも、強力に利害が一致しているわけでもない。前王のカレルが死んだとき、アルードは俺に、カレルの酒に一服盛るように言った。俺はそれを受けた。アルードが何故奴を始末したがったのかは知らないが、俺はカレルが嫌いだった。俺はせいぜい高く売りつけてやるつもりで引き受けて、カレルは死んだ……俺が奴の酒に薬を盛ることが出来たのは、俺が奴の愛人おもちゃだったからだ」
 ライアンの秀麗な顔が僅かに痙攣した。シャラの心臓が絞られるように切なく痛む。過去のことだとライアンは首を振った。
「アルードが俺を丁寧に扱うのは、その秘密を握られているからだ。奴は俺を始末したい。秘密を永久に葬るために。逃れるために奴の片腕と吹聴し、奴に絶対服従を誓っているが、いつまで持つかは正直、分からない」
 ライアンは微かに苦いものを噛んだような顔をした。お前を攫わせたのもきっと奴だ、と付け加えてライアンは溜息になる。ライアンの名をシャラは呼んだ。
 雪のちらつきを越えて、目があった。同じ色の瞳。
「……俺にはまだ、力も金も人も足りない。いずれ俺はタリア王に座りたい。俺の主はカレルでもアルードでもなく、もうずっと以前に死んだ、俺を育ててくれた男一人だ。それ以外の奴の下になど、入るのは耐えられない。だがタリア王になれなかった時は、俺は死ぬ。俺が死ねばお前も死ぬ。俺がアルードを裏切ったと知れたときも同じだ。そんなことはさせないと、約束はできない。何かあったときに見捨てることの出来る、俺が執着していると誰もが認めている人質があれば、しばらくは時間をもらえる。俺はその時間を有効に使うことが出来る……」
 次第に声は小さくなっていった。これがシャラをいつか捨駒にするという意味であるならそれも納得できた。
「お前には価値がある。だが、それはいつか見捨てるための担保だ。何かあればお前は死ぬか、その方がましなことになるだろう。それでもいいか、本当にいいのか、シャラ、俺は、お前を……」
 シャラは黙っていた。ライアンは苦しそうに目を閉じた。整った顔の歪みをシャラは心底から愛しく思った。
 分かっている。これは言い訳だ。もしくは彼自身が罪悪感と向き合うための免罪符だ。捨てられて自分が死ぬ間際、彼は側にいないだろう。それをライアンも分かっている。
彼が自分のむくろに向かって叫ぶべき贖罪を、今、聞いたのだ。
「わかった……」
 答える自分の声は潤んでいる。価値がある。まだ、ライアンのために生きていてもいいのだ。いつか死ぬための生だとしても、彼がそれにも価値があると言ってくれたから。
「あたし、まだ、生きていてもいいんだね……」
 値打ちがなくても、誰も待っていなくても、迎えに来る人がいて、その人が価値があると言ってくれたから、それを自分の支えにして生きていてもいい。
 許しをもらえたから。逃げなさいと言った母の言葉がシャラにとっては一番の赦しだったことがぼんやりと遠い情景になっていく。それは過去になっていくのだ。心に溶けて消えながら。
 顔を上げると雪の彼方、ライアンが頷くのが見えた。もう一度、とシャラは口を動かした。ライアンが同じ言葉をくり返した。
「いつか、俺のために死ね。だから、今は生きろ」
 声に滲むのは、今の時点でもはっきり慚愧といえた。
 シャラは自分が微笑んでいるのに気付いた。

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