紅花怨 25

 チアロの目が開いたという知らせを受けたのは、それから程なくだった。クインの施した処置は失敗だったにせよ、チアロの体に残っていた埋み火を焚き付けることは出来たようだ。
 クインの方はまだ寝込んだままだったが、友人の奇跡は彼の機嫌を取りあえず持ち直させた。相変わらずシャラに罵署雑言の嵐を浴びせるが、ライアンに言われたとおり聞き流している。
 部屋へはいると、チアロの頭が微かに動いた。ライアンはいないが知らせは行っているはずだから、今夜は戻ってくるだろう。
 シャラが寝台に近寄っていくと、その場にいた幹部級の男たちがすうっと離れた。シャラは真実ライアンの女だと認められ、女王のような扱いをされているのだった。
 側の椅子に座ると、ディーの声がお願いしますと低く囁いた。シャラは頷く。クインのことで病人の世話には慣れていたし、二人で話したかったのも確かだ。
 全員がいなくなるとぬるい沈黙になった。チアロの目が笑っている。自分がライアンにさよならと言いながら笑えたように、彼も自分の願いが叶って笑っている。チアロ、と小さく言うと彼は頬を痙攣させた。きっと全体で笑いたかったのだ。
「ごめん、って言うなよ……」
 吐息のような声がした。シャラは微笑み、頷く。言わなくてはいけないことは、本当はこちらなのだ。
「助けてくれて、ありがとうね……」
 うん。チアロが唇だけ動かした。シャラは彼の額の汗を布で押さえながら、でもごめんね、と言った。
「あたし、ライアンが好き……助けてもらったのに、それまでもいっぱい気持ちをもらえたのに、チアロを好きだって言えないあたしを許してね……」
 それにもチアロは目で頷く。
「いいんだ……俺が、お前を、好きなだけだから……」
 シャラは曖昧に笑った。自分を振り返らない相手を恋願っている共通だけで、彼のことは大まか理解できた。
「いつかも聞いたね、チアロ。どうしてあたしを好きなのかって。同じことを聞いてもいい? 酷い目にあってもどんなことされても、あたしが好きなのは何故」
 チアロはシャラを黙ってみていた。沈黙が耳鳴りに変わる頃、彼は記憶から何か探り当てたのだろう。ゆったり目を閉じた。
「……わかんない、よ……お前が好きなのは最初からだし、最後まで、そうだよ……でも……一番最初、格子の向こうにお前を見つけたとき、見つけた、って思った。何だか、どきってした……」
 微かにチアロの顔がほころぶ。そんなものかも知れないねとシャラは頷いた。恋に落ちる瞬間に、理屈なんかいらないね。
 チアロは眩しくシャラを見た。シアナと呼ばれて首を振る。シャラよ、と教えると彼はまた嬉しそうに頷いた。
「いい名前だ。世界で一番……いい名前だと、思う」
「馬鹿ね」
「そうだね……でも、俺、お前を見たときから、好きだったから、嬉しいよ……それだけで、いいだろ……」
 シャラを見て笑う目の奥が、哀しいほど澄んでいて、自分を定めてしまった色が見える。殉教者の目だ。自分の神のために全てをなげうつ覚悟の出来てしまった目──そして、あたしも、か。
 理解できるのは、自分たちがよく似ているからだ。それぞれの信じるもののために、どんな目にあっても恨まないと頑なだから。
 シャラはチアロの汗を拭き、額に唇をあてた。
「本当にありがとう。ごめんね。あたしは沢山、チアロに謝らないといけないね……」
 彼から貰えた愛情を捨ててまで、他の男のために死にたいと願っていることを。チアロは切なそうに笑った。
「俺も、謝らなくちゃいけないこと、あるから。ごめんよ、俺、ライアンとお前が他人だって、ずっと前から知ってた……」
 チアロはすぐに解答にたどり着いたのだという。シャラの母親は異国人で、子供の名前がライアンというのが分かっていれば十分だった。兄妹ではないのかという疑いをシャラが抱いているのを、彼はその時気付いたらしい。ただライアンがどう考えているのか分からなかったし、シャラの心の方向は定まってもいるようだったから、口を挟むことなく沈黙を守ってきた。
 それにチアロは逆の方向からの検証もしてくれた。帳簿はなかったが、芸団の座長はライアンのことを覚えていた。
「ライアンは、本当の名前、分からないんだ……あれ、別の子の名前なんだってさ……」
 訪ねた先の芸団には、たくさんの身売りの子供たちがいる。食い詰めた親が子供を売るせいで、痩せ細ったり体力がなかったりする子供も多い。座長がライアンのことを記憶に止めていたのは、彼がずっと昔の当たり芝居の主役だったからであった。
 ライアンは彼がそこへ着く数日前に死んだ子供の名だ。母親から名前を聞いたはずがど忘れした座長が、面倒になって後がまに同じ名前を付けた。顔立ちも多少似ていたのだという。
 シャラの母は異国人であったが、今のライアンの母はどうやらこの国の人間らしいこともその時分かったという。シャラは目を伏せた。すり替わってしまった本物のライアンが兄かも知れない。その可能性はあった。何故チアロがそれを言わなかったのか、聞かなくても良かった。自分だって黙っている。
 そうね、とシャラは頷いた。自分が罪を感じているように、チアロも感じている。痛みの種類は違うが分かり合える。
 もう会えないかも、とシャラが言うとチアロは頷き、生きろよ、と言った。頷き返しながらシャラはゆるく、晴れやかに笑った。

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