黒き魚たちの渇き2

 ただいま、と呟きながら家に入ると、養母が奥からぱっと飛んできた。相変わらずリリクのことをいつでも視界に置きたいのだ。
「お帰り、リリック。ねぇ、今日はねぇ……」
 洪水のように始まる語り口を適当に頷いて聞き流し、リリクは部屋へあがった。家のすぐ裏手には養父の開いている診療所がある。建物が別のせいかあまりこの家は薬臭くない。それがリリクには妙な安堵感になる。いずれ自分は養父の後を次いであの診療所の主にならなくてはいけない。
 いけない、と呟くと更に心が重たくなるのを自覚した。カントは時折自分とカントの立場が入れ代わっていれば良かったのだと呟くが、それは的確であった。自分は運動は何でも好きだが、成績など考えたくもない。

 自分は向かない。医者になる適性がないのだ。それは成績のこととは関連なく、診療所にいる患者たちが養父に頼むような縋るような視線を向けるのを見る度に、自覚される。……あの、他人からの縋るような目、悲しげな信頼を見る度に、どこか、追い詰められるようないたたまれなさが襲ってきて、叫び出したくなる。
 長い溜息をリリクはついた。カントは似た境遇の「海の子供」であった。彼と最初に出会った頃、同じ「海の子供」が修学所にも何人かいたのだが、お互いに引き合うように共にいるのはカント一人だ。
 理知的な瞳と静かな物言いがすっかりあの子供を大人びさせ、上流というものへ馴染ませているが、その目の奥に自分と同じ不満、微かな苛立ちを感じている。自分たちは似ているのだ。何かに鬱屈し、脅え、吠え出さぬように自分を抑えているのが。

 けれど今日は悪いことをしてしまった。あんなつもりではなかったのだ。さほどカントが怒っていなかったのが幸いでもあるが、とにかく明日、また謝っておこうとリリクは頷く。
 ……カントを溜まってきた苛立ちの捌け口にしているのは、悪いことだ。それは自分でも分かっている。けれどこうして何かをしてしまう度に彼の機嫌を必要以上に上げておこうとも思う。悪態をつき、散々からかっていてもカントと離れない。もしかしたら、より相手に依存しているのはリリクのほうかもしれなかった。……面白い考えではなかった。

 夕食の支度ができたという声に合わせてリリクは階下へ降りた。養父も既に診療を終えて帰宅しており、養母の手料理を口にはこびながら、しばらくは雑談が続く。最近は学校はどうだと聞かれてリリクは口の中でぶつぶつ言った。養父母は一斉に朗らかに笑った。
「まぁまぁ、無理をすることはないのよ、リリック。もし何か他にやりたいことがあるんだったら、お医者なんかよりもずっと素敵よ」
 養母の言い方は、リリクを傷つけまいとする優しさに彩られて心地はいい。リリクは曖昧に笑う。養父がそうだな、と優しい声を出した。
「まぁ、医者というのも世の中には儲けることが簡単だという奴もいるが、気苦労の割には報われないからな。お前が嫌ならそれでかまわんよ」
「あ、……俺、別に、医者が嫌じゃないから」
 リリクはいつもと同じ嘘をつく。養父母はリリクに優しい。医者の後継が欲しくて養子にしたはずのリリクがどうにもならない成績でも責めることがない。お前にやりたいことがあればいいんだよと言ってくれる。

 ─── 違う!
 リリクは叫びだしたい気持ちになる。
 違う、違う、俺は医者になりたくなんかない、人の命を扱うなんて、出来ないんだ!
 何よりも怖いのは、その生命を賭けた信頼を患者が寄せてくることで、最期を見取った遺族が養父に向かってありがとうと頭を下げることだ。その痛々しい沈黙を、自分は甘受できそうにない。
 だがリリクの言葉に養父母は表情を緩めた。口では何といっても、リリクが裏手の診療所を継いでくれると思うのが彼らの楽しみなのだから。リリクは心の中で溜息ばかりをつく。こんなときに、明らかに環境の良くなかった海上での生活を思い返しているのは不遜だろうか。

 風はいつでも泥臭く、魚も同じ臭いがした。運搬車からこぼれた貝を拾い、魚を捕り、どうにかこうにか食いつないでいた日々。酔うとからんで殴る父親、泣き叫ぶだけの母親、あの二人が馬車に轢かれて世を去ったとき、自分の胸によぎったのは安堵だった。明らかにリリクはほっとしたのだ。
 だが、今ならあの二人はいない。海の上に小舟を浮かべて生活することがどれだけ気楽で気儘なことなのか、良く知っている。そのうちに好きな女でも出来たら船を引き払って都市で仕事を探したっていい。そんな、夢想というものをいじり回しているのは何故。現実に不満などない。生活に不服などない。ありはしない。何もかも恵まれて、養父母も診療所で働く看護士や看護婦たちも自分に優しい。めこぼしをくれないのは教師くらいだ。だがその教師たちも自分の整った顔で微笑みを向ければ、その矛先がゆるむ。
 ──こんな顔。
 リリクは自分で利用している狡さも承知の上で、それもまた、鬱の種であることを知っている。カントだって、時々は自分の横顔を眺めては感嘆の吐息をついているのだから。

 再びカントのことへ思考が戻ってリリクは微かに溜息になる。明日、きちんと謝罪した方がいいだろうが別れ際の重苦しい空気はどうにもならない。カントは寝れば忘れるリリクと違って、慎重でじっくり腰を据えるほうだ。悪くいえば、しつこい。それを思うと気が重かった。
 夕食が終わると養父母の話に適当に混じって時間を潰し、それから部屋に上がるのがいつもの習慣だった。カントのところも似たような事情らしいが、この家も後継者がいなくてリリクを養子に入れた上、二人とも子供が好きだ。俺は子供じゃないと思うのも片隅で、自分を引き取って育ててもらっていることには感謝を素直に感じるから、リリクは大概をつまらないと思いながらもつき合っている。
 この日、養父が話を始めたのはつい先日亡くなった大陸の聖騎士の話であった。

 ──ある聖騎士が戦死した。聖騎士とは聖職を勤めながら神聖王国の騎士として国を守る者たちのことである。随分と以前、養父はこの男に施したことがあったらしい。怪我をしていたのを助けてやったのだ。巡礼に出る聖職者に施しをするのは市民の義務だと養父は苦笑するが、男は聖騎士の称号を与えられた後でも養父への恩を忘れなかった。時折は手紙を寄越していたし、何度かクハイスにも顔を出していたのを覚えている。騎士としての力量の頂点を緩やかに下りつつある年齢だったが穏やかで、自分を律し終えた大人だけがもつ風格があった。
 だが彼は一度戦場に立つと人が変わったように勇猛勝つ果敢であり、敵に対して容赦がなかった。剣の腕も素晴らしかった。戦功の話を彼は殆どしなかったが、腰につられた見事な紅剣のことだけは、リリクも覚えている。

 戦死といわれてリリクは軽い感慨を覚えた。元より悲しみを覚えるほどの接触があったわけでもない。ただ知り合いが消えた、その消滅の実感が湧かない。ふうん、と半ば義務に近い感触に相槌を打つと、養父は苦笑してリリクの膝を軽く叩いた。
「それで、お前に頼みがあるんだよ」
 リリクは顔を上げる。聖騎士の話しは言われれば思い出す程度のことでしかなかったからだ。きょとんとした顔をしたのを養父母が暖かに笑った。リリクは照れ笑いになりながら頭を掻いた。
「お前の友達に、ガクユーン殿の子息がいただろう。明日、修学所へ行ったら手紙を渡して欲しいのだ」
「いいけど……どうしたの、義父さん?」
 手紙を受取ながらリリクは首をかしげる。養父はあいまいに頷いて長細い包みを居間の奥から持ち出し、リリクに渡した。リリクは開けてもいいかを目で問うた。養父が頷く。
 固く縛られた口を緩めて一振りすると、リリクは思わず目を見開いた。

 何かが吹きつけてくるような熱気が一瞬頬を撫でた気がして、リリクははっとする。これは、見たことがある。あの騎士の腰にあった……養父を見ると、初老に差しかかった医師はリリクに目を細めて頷いた。リリクは喘ぐような吐息を漏らしてそれに見入った。
 ───それは一振りの剣であった。落日を固め、抜き出したように赤い。鞘に彫り込まれた精緻な紋様は羽ばたく鳥に、咲き誇る蘭の花だ。どちらも遠い昔に滅びた漢氏という民族の様式をもっている。目を奪うほど美しく、気高い香気を放つ剣であった。
 何かが吹きつけてくるとリリクが思ったようにその波動、剣の持つ得体の知れない圧迫感が迫ってくる。胸に、強く、強く強く。

 恐怖にかられてリリクは視線を放した。怖い。この剣は、何かいやな気配がする。見つめていると心の奥底にしまいこんだ何かを引きずり出されそうだ……呻いた声は、どこか歓喜に似ている。
「いい剣だな、素人目にもわかる」
 養父が呟いた。リリクは茫然からまだ完全に回復していない思考を動かして頷いた。この剣を何故持っているのだろうとやっと思い至って養父を見ると、養父は苦笑した。
「彼の遺族から形見ということで、私のところへ。何故これをうちへ送って来たのか、全く理解に苦しむが……」
 そうだろうとリリクは思う。
 この剣の息苦しくなるほどの完璧さは、敢えて手放す選択をさせるものではなかった。遺言でもあれば別だろうが、こんな剣を医者のところへ送ると指定するのはおかしな話でもある。聖騎士仲間か神聖教会への寄付か、その辺りが妥当でないか。
「まぁ、私ではどうにもならないからな。ガクユーン殿に見ていただいて、寄付をするなりご領主様に差し上げるなりするさ」
 クハイスの名士の社交やお互いの養子が仲が良いこともあって、比較的養父はカントの家と行き来がある。が、ガクユーン家と言ったらこのクハイスでも屈指の名騎士家、正面からまともに郵便にしたり謁見を願ったりするとこの話、いつ出来るかも分からないのだ。
 裏口からではあるが、この方が手っ取り早く、確実でもある。リリクは頷き、手紙を懐に入れた。カントに話しかける切っ掛けになってくれるのも実際、ありがたいものであった。

 翌日あったカントはそれほど不機嫌そうではなかった。鞄は新しいものへ替わっている。手紙を渡して昨日はごめんと言うと、カントは薄く笑って肩をすくめた。リリクのようにころころ感情で変わらない目の色を淡々とさせながら、逆に褒められたよ、と苦笑している。
「教科書とかノートとか、大切にしてくれて、だってさ……服は洗えばいいからって」
 そうか、とリリクは簡単に答えた。服もノートも本も、安いものではないのだ。それをいいと言える家に今二人ともがいることが、幸運なのは間違いない。……船の生活者だったらどれか一つでも欠損したら嫌というほど殴られるし、相手の家にどなり込むこともあるかもしれない。
 手紙なんて珍しいねとカントが言ったから、リリクは昨日の失敗の分を埋めるように言葉を並べ立てて剣の話をする。聖騎士ダグト公だね、とカントは頷いた。
「知ってんのか」
 やや鼻白んでリリクは言った。まぁ、とカントは頷いた。
「有名な話さ。神の聖句を口にしながら悪魔の如く敵を屠る騎士、その前に如何に敵があれどその後ろには人がない。そう言われるくらい、凄まじかったって……どんな気分だろうね、人を殺すなんてさ」
 カントの声はいつものように穏やかで静かだったから、最後の言葉も聞き逃すところであった。リリクはおい、と軽い声を出した。脅えたのかも知れなかった。
「そんな怖いこと言うなよ。お前、時々すげえ目付きになるな」
「───僕もそうだけど、リリクだってものすごく苛々しているときがあるよ。僕はただ……そんなことにつき合いたくないだけさ」
「同感」
 リリクは冷めた声で言った。カントは肩をすくめて剣を見たいなと言った。リリクは頷いた。今度遊びにこいよと言うと、カントは今度は嬉しそうな顔をした。もうすっかり機嫌を直しているようだった。