黒き魚たちの渇き3

 リリクの家は診療所とは別の建物であるにも関わらず、いつでも薬草独特の臭いがした。黴たような饐えたような、慣れないと僅かに顔をしかめそうになる。それはカントが毎回示す反応であったから、リリクはにやにや笑いながらもすぐに三階の自室へカントを上げ、窓を開けてくれた。リリクは診療所の空気に慣れていて自宅は全然臭わないと口にするが、カントには多少辛いものだった。
 外気が流れ込むと、それは潮の臭い。僅かに混じる泥臭さが逆に安堵を呼んで来る。

「これ、後でおばさんに渡しておいて貰えない? うちの義母から」
 カントは鞄の中から預かってきた手紙をリリクに渡す。中身を見るようなおどけた仕草でリリクがそれを西日にかざし、またお茶会じゃねぇのと悪態をついた。そういうリリクの養母も今日はお茶会らしく、姿が見えない。
 そうだろうね、とカントは苦笑気味に頷いた。カントの物心ついたときには既に父はおらず、母は船乗り相手の酒場で給仕をし、金で片のつく恋愛を繰り返していた。母がそうした恋人に海に沈められてカントは孤児となり、やがて「海の子供」として養子へ出るが、そこで目にしたのは陸地で暮らす上流社会人たちの暇なこととお茶会の多いことだ。
 それが悪いことだとは思わない。需要のあるところに供給が有る。彼等の散財浪費が海に住む者達に広い意味で還元されていることだってあるだろう。

 けれどカントは鞄にしろ靴にしろ、駄目になってしまった本にしろ、気軽に与えられると気が重くなる。それにどれだけの価値があるのかを過大評価していた過去を抜けて辿りついた先は、浪費としか感じないものに惜しみなく金を遣う人々の世界だった。それが義母の楽しみであることは承知しているし、意外に気苦労の多い世界でもあるから、発散しなくてはならないことも分かる──が。
 承服できない心はどの海に沈めたらいいのだろう。カントは僅かに吐息を落とす。気に入らないことなんかない、と繰り返して胸に呟きつづけている自覚はあった。リリクが手紙を自分の机に放り出し、待っていろと言って姿を消した。例の剣を見せてくれるつもりでいるのだろう。
 養父はリリクの義父からの手紙に未だ返信を与えていないが、聖騎士の遺産というべき剣が何故、という疑問を口にしていた。困惑しているのは誰もが同じなのだ。領主様に差し上げるのがよいだろうなという声に浮いていた色濃い迷いを、カントも当然に思えた。
 養父は昨日から領海の警邏に出ている。十日前後は戻ってこないから、剣を預かるにしても断るにしても、この期間に見物させてもらうのが最良と呼べた。

 リリクはすぐに戻ってきた。手にしている細長い包みが剣なのだろう。
 聖騎士ダグト公の話をカントは聞いたことがあった。養父も海洋騎士であるし、自身そうした物語が好きだったのだ。足らぬ現実から逃れるように本の中へ、空想の中へ。代価行為であると薄く承知していたものの、英雄譚や冒険譚はカントの心を確実に酔わせてくれた。
 敵に死を、神の前には敬虔な祈りを。奪った命の重さの分だけ彼を巻く空気も濃くなるようだという記述をカントは憧れと僅かな畏怖と……そしてごく微量の何かの異分子を以って眺めていた。
 自分には出来ない、他人を手にかけることなど恐らく出来ない。技術的なことだけではなくて、精神的なものまで足らない。前を向くよりは足元を確かめたがる性質だということは、自分でも嫌というほど知っている。だから躊躇い無く道を突き進んでいく者──例えばリリクのような無遠慮だとしても──への感慨は尚更深いのだった。

 彼の残した剣というだけで、カントには格別だった。触ってはいけないと言われている、例えば聖杯などに特別に触れてもいいよと言われたような。綴りの向こう側の、遥かに自由な物語達の結晶が自分の手の届く場所にあるというのが不思議でもあり、歓喜でもあった。
 リリクはカントの様子に僅かに笑った。彼の笑みは時折見惚れるほど甘い。本質は悪食の猫にしても、毛並みの美しさは一級なのだ。
「お前、剣もろくに触れねぇくせにこんなん見たいんだ?」
 それはいつもの意地の悪い言葉であったが、カントは鈍く笑って見せるに留まった。他のことは滑り落ちていく水のようなもので、リリクの厭味にも鈍感になっていたのだ。
「いいじゃない、僕は興味があるんだよ。聖騎士公の剣に」
 理解できないと言った表情でリリクは肩をすくめた。彼がいつも以上に勿体ぶっているのを察し、カントはリリック、と大きな声を出した。彼の義母が彼をそう呼んでいるせいで、彼はそう愛称されるのを好まない。
 案の定、リリクは秀麗な顔を思いきり歪めた。子供扱いのように感じるだろうし、照れくさいのもあるだろう。彼は好き放題に言葉を重ねてカントをからかうくせに、自分はそれが大嫌いなのだ。

「急かすなよ。ほら」
 リリクが布に巻かれたままの剣を捧げ持つようにし、カントに手渡す。芝居がかったような仕草だと思った。リリクは自分が剣を目にしたい衝動を押さえているのを理解しているのだろう。彼は粗野を振舞っているが神経は細かい。乱暴な喋り方も雑な仕草も、自身の内側を晒してしまうことを恐れているからなのだと、カントはどことなく感じている。その苛立ちを些細な暴力に変えて魚苛めに熱中していられるなら、それはリリクにとっても幸福なことであるはずだとも。

 手の中の剣は、思っていたよりも軽かった。木の刀身に銀を張っただけの偽物ではないのかという疑念がふと頭をかすめ、カントは殆ど夢中で布をほどく。羽化を終えた蝶のように鮮やかに、それは姿を見せた。
 海へ沈む落日よりも深く、鮮やかな赤がまずは目に入った。朱金でもなければ深紅でもなく、両方の華やかさと陰翳を併せ持つ、退嬰的な美しさだ。細身の優美な刀身を包む鞘には翼を広げる鳥と咲き誇る蘭の花が彫られている。彫刻の陰翳が構図の深みを加えて躍動感と生命感が揺らぐように感じられ、カントは僅かに呼吸さえ忘れた。
 魅入られるようでもあった。この剣に備わっている強い声が自分を抜けと手に入れろと直接脳裏へ囁いてくるようだ。肌に吹きつけるようにあたる、力ある魅惑に突き動かされるように、カントは滑り止めにしては精緻な紋様の入った柄に手を掛けた。
 おい、と戸惑った声がしたのはその時だった。カントははっとする。自分が夢中で剣を抜こうとしていたのだと思い至ったのは、それから更に一瞬が過ぎてからのことだ。
「玩具じゃないんだぜ、カント。お前が扱うと怪我する、やめとけって」
 リリクは何故か怯えたような顔をしていた。カントはそれを数瞬の間見遣って、ぎこちなく唇を緩めた。笑顔になったつもりであった。
「大丈夫、ちょっと抜くだけだから……かなり軽いしね。僕だって騎士の後継者なんだから、全然触ったことがないわけじゃないんだ」
 好きではなかったけれど。
 リリクは苦く笑った。彼はきっと剣を抜こうと思ったことはないのだろう。カントの生業がいずれ人を死地に立たせるべきものであるとするなら、彼の生業はその逆だ。その自制がリリクに剣を抜かせない。けれど、とカントは僅かに内心で呟く。リリクのその慎重さに苛立ちを覚えるのは何故だろう。
 いや、それはもしかしたらその名のものではないかもしれない。苛立ちではなく、……優越と言うのかも。カントが手にしようとしない魚を撃つための貝をリリクが無理やり握らせる時、彼の美しい顔立ちに見え隠れする軽侮なのだろうか。
 リリク、とカントはくっきりした声を出した。

「大丈夫、僕は養父の剣だって触ったこともあるし、時々は手入れもするんだ。反射神経なんか要らないからね。刀身を見たくない? 鞘がこんなに凄いんだもの、きっと刀身も良いものだと思うよ」
 リリクはふんと鼻を鳴らしてそれを受諾した。彼は年下であり、普段は小突き回しているカントが自分を軽く扱ったのが気に入らないに違いなかった。
 カントは再び柄に手を掛けた。ちらりとリリクを見れば、彼も呼吸を潜めてカントの手元を凝視している。重々しく頷いて見せ、カントはゆっくりと鞘から刀身を抜き出した。やはりそれは鞘と同じく見事であった。細身であることは鞘を目にした瞬間に理解することだったが、その印象を改めて強くする。やや反りかえった輪郭が鋭利だ。
 ……溜息は、ほぼ同時だった。表現する言葉を思いつかない時にも溜息が出ることを二人は悟った。カントは剣の反りが良く見えるように剣を垂直に持ち、片刃の剣の背を軽く手で支えた。殆ど重さは感じない。軽い、と言うよりは手の一部のように馴染む。紛れもなく名剣だとカントは目を細めた。姿形は幾らでも繕うことが出来るが、剣自身の持つ気配などは作り出せない。

 刃止めの金具がしっかりかかっていることを指先で確かめると、カントはリリクから離れて立ち、軽く剣を振り下ろした。切っ先が軽く床につく直前、カントの意思を知っているようにぴたりと動作が止まった。それは滅多にないことであったが、
 カントは違和感に首をかしげながら握り締めた柄を見た。内側に水でも入っているのか、妙な異動感がある。水にしては重い動きだが、確かに自分の掌の先をぞろ動いた感覚がするのだ。
 カントは黙ったまま剣を見つめる。良い剣であった。