黒き魚たちの渇き4

 沈黙の時間がどれだけだったのか、リリクは数えていなかった。ただ、連れ立って遊びまわっていた年下の友人と自分の間に、何か重く、得体の知れない影が落ちたことだけは理解した。
 二人は黙っていた。長いこと、黙りこくっていた。やがて漏れた吐息で、呪縛が解けたように身体が動いた。リリクがカントを見ると、彼も同じことをした。視線があって僅かな間を置き、二人とも、温い溜息のように笑った。
「……ちょっとこれ、変なんだ。柄に何か入ってる」
 カントが苦笑で凍えたような表情を解しながら言った。リリクは促されるままに剣を受け取る。彼も剣に触れたことがないわけではない。カントのようにいやいやでもなく、リリクは武芸一般というものに親しんでいる。養家が医術の家だからカントの所のように、日常ではないにしろ、修学所では護身術の一環として剣や弓を教える。

 カントがそっと壁際に寄ったのを確認して、リリクは軽くその剣を振ってみた。なるほどカントの言う通り、剣を振る度に柄の内側で何かが動く気配がする。カントは粘り気のある水のようなと言ったが、リリクにはもう少し違うものに感じられる。
 良い気配じゃないな、とリリクは眉をひそめた。気味が悪いというより、人の心に巣食う不安の薄暮を揺すられるような落ち着かなさだ。……けれど。
「お前ん家の義父さん、これ、どうすると思う……?」
 カントの瞳が僅かに鈍く光ったような気がした。

「……どう、だろう……でも、これは義父のものではないし……」
 言いかけた言葉は次第に消えていった。カントが考え込んでしまったのを見て、リリクは剣を鞘に収め、自分の寝台に腰掛けて窓から差し込む日に照らした。きらめく赤は夕日よりも更に心を掻き立てる何かを放っていた。惜しいな、と単純な思いが浮かんだ。
 リリクの義父は剣を所有することに興味を持たない。骨董的な価値もあるだろうから、形見分けの品として飾っておくという選択も出来ただろうが、海洋騎士に相談するという結論は、その答えを導かない。義父はこの剣を手元に置く気はないのだ。

 自分の前から消えてなくなる。瞬間的に沸いた苛立ちにリリクは自分で動揺した。自分の性質がどちらかというなら感情的で衝動的なことは分かっている。罪のない、小さなものを傷つけているのはそれが生贄だからだ。自分の中にある飼い馴らせないものに代用品の餌を与えて大人しくさせる為の。
 剣を所有することが自分にとって良い結果になるという想像は全く浮かばなかった。強烈に惹きつけられるのと同じに、いけないという警鐘を聞く。この警告の声を聞くことが今までリリクがふらふらしながらも均衡を保持できた一番の理由だろう。あるいは誰の言葉よりも素直に従っているのかもしれなかった。

「惜しいよね」
 ぽつんと呟かれた言葉に、だからリリクはぎくりとした。見透かされたような気がしたのだ。カントはじっとリリクのほうを見ていたが、視線は剣に吸いつけられてぴくりともしていなかった。
「義父さんは……多分、領主様に献上してしまうんじゃないかと、僕は思うんだ……」
 そんな事をどうやら海洋騎士であるカントの義父は呟いたらしかった。そうかとリリクは頷いた。それは不自然なことでもなかった。領主でなければ聖教会への寄付でもいい。元々聖騎士の持ち物なのだから、最初からそうされても当然だったろう。
「仕方ねぇよ、この剣はもう誰の所有物でも……」
 言いかけ、リリクは急激に上がってきた一つの考えに語尾を途切れさせた。頭の中で烈しく「いけない、いけない」と誰かが叫んでいる。

「そう、誰のものでも、ね……」
 呻くような、低い声がした。それがカントのものだとリリクは一瞬気付かなかった。分からないほど声はかすれ、僅かに震えているようだった。カントの視線が自分の頬に当たっているのが分かった。彼も、目を合わせることを僅かに恐怖している。リリクは一瞬目を閉じ、そして鞘を握り締めて剣をつくづくに見た。残照が窓から流れ込む。
 畏怖、感歎、そして ── 心の中に、絡みついてくる何か。
 欲しい。
(いけない)
 欲しい……
(イケナイ……)
 そんなことは分かっている、でも、……手に出来なくなるのは……堪えられない損失だから……!

 リリクは鞘を掴む手に力を込めた。誰か、それが見えない強制力だとしても、誰であってもこの手から剣を取り上げるとしたら途方もない理不尽と感じるに違いなかった。ごくりという音が自分の喉で鳴った。それに弾かれたようにカントが顔を上げるのが、視界に映った。
 リリクは今こそ、思い詰めたような顔をしている友人にまっすぐ視線をあてる。同じようにカントの瞳がリリクにあたった。その中に浮かんでいる餓えたように求める光。そしてその中に映りこむ、同じ表情をした自分自身。うわ言のように、カントが呟いた。
「持ち主はいない、んだ、よね……」
 頷いた自分のうなじも、熱を出した時のように感覚がふわふわしている。リリクは現実味を取り戻そうともう一度頷き、いない、と繰り返した。
 今度の沈黙は先程よりも遥かに長く、緊張を孕んでいた。二人はお互いを試しあう様に、長いこと動かなかった。目を先に逸らした方が負けだというような頑なさで、友人を殆ど睨んでいた。
 不意に視界が暗くなった。太陽が雲に隠れたのだ。その瞬間に、二人はどちらからともなく頷きあった。
「秘密だ」
 リリクは畳み掛けるように言った。カントはそれに誓いを立てるように片手を上げてリリクの言葉を増補した。
「二人だけの、ね」




  夕方帰宅したリリクの義母は、子供達が妙に蒼褪めているのにすぐ気付いた。どうしたの、と聞くと二人は視線を交し合い、海洋騎士家の養子である少年が重たそうに口を動かした。
 ── 剣が、なくなってしまったんです。
 剣と聞き返したのは、彼女にとって一瞬記憶から取り戻せないものであったからだ。彼女の義理の息子が補足してくれなければ、思い出せなかったかもしれない。
 ── 剣がすごく綺麗だったから、俺達、ちょっと部屋の中で振ってみて……でも部屋じゃ危ないから、海のほうへ行こうって話になって。

 息子が俯き加減にそんなことをぽつぽつ語る。途中の桟橋に出ている屋台で喉が乾いたから果物を買い、受け取ろうと剣を屋台に立て掛けるように置いたという。果物を食べやすいように切ってもらい、行こうかと下を見るともうそこに剣の姿は無かった……
 彼女は息子とその友人を見る。二人とも下を向いたきりであった。顔を上げられないのだろう。彼女はそう、と優しく頷いて見せた。剣の始末を夫が困惑していたのは確かだし、それの話を突然持ちこまれた方もそうだろう。
 夫に相談して探さなくてはならないが、無理をすることでもなかった。誰かの持ち物であるなら話は別だが、現在の所、それは夫であったような気がするほど、所有は曖昧であった。

 いいのよ、と言ったのは少年達の負担を軽くしてやりたい心であった。「海の子供」と呼ばれている養子制度を通じて家にきた子供達だ。何かの失策失態が再び自分たちをあの泥の海へ追いやるのではないかと恐れているのだろう。
 彼女は海の生活者の詳しいことなど何一つ知らなかったが、環境が良くないとは感じていた。彼女はその場所では生きていけぬであろう自分自身を良く知っており、そこへ戻すことが子供達にとってどれだけ辛いだろうかと思うと胸に痛みを覚えるほどに、無知ではあるが善良でもあった。
 少年達に微笑みながら、心配しなくていいのよと彼女は言った。不注意だったけど、あなたたちだけのせいじゃありませんからね。息子の友人にも、宥めるように笑みを向け、帰宅を促した。彼の家にはこちらから知らせなくてはならないが、それは捜索を終えてからの報告をつける方が良い。安心しなさいねというと、彼は唇を僅かに上げた。

 ── ごめんなさい。
 それでも出ていきかけた時に彼は振りかえってそう言った。
 ── 本当に、本当にごめんなさい……
 声が今にも泣き出しそうだったから、彼女は殊更満面の笑みで頷いた。彼が日の落ちた街角に消えたのを確認してから扉を閉めると、似たような顔付きの息子が、喘ぐように呟いた。
 ── 本当に、ごめん、俺……
 その声は、あの少年とそっくり同じに聞こえた。懺悔のようにも耳に響いた。