黒き魚たちの渇き5

 夕日の残滓がようやく海の彼方へ消えようとしていた。もう帰らなきゃ。そんな事をカントは呟くが、中々腰が上がらない。体は正直だ、望みと違うことを強いる時、酷く重たく感じるから。
 カントはふうっと溜息になる。こんなことじゃいけない、ということも分かっている。養父の名を汚さないような十分な功績を上げた上で騎士位を受け、海洋騎士となり、優しく厳しく自分を養育してくれた養父の恩に応えなくては。
 再び、溜息。カントは苦笑になった。夕日よりもなお赤い剣を軽く振り、立ち上がる。小高い丘から見下ろすと、一面燃える海がまぶしく目を焼いた。名前を呼ばれて振り向けば、金髪の友人が怒ったような顔で立っていた。リリクと呟いた声は、自分でも可笑しいくらいにぽかんとしている。

「お前、毎日来てるだろ」
 リリクはやはり苛立っているのだった。
「あんまり頻繁にするなよ。剣のことは誰にも喋らないけどさ、お前がこんなにしょっちゅうふらふら出歩いてたら目立つって」
 カントはごめんよと口先だけで謝った。謝罪の薄さに更にリリクは顔を歪めた。美しい造形は眉をひそめただけでも相当胸に応える。心底から厭うような顔つきだった。カントはごめん、と強く言った。
「リリク、僕、ちょっと煮詰まり気味なのかもしれない……」
 哨戒から帰宅した養父はカントとリリクの「過失」を責めはしなかった。結局のところ紅剣の所持について、誰にも権利はなかったのである。謝罪に来たリリクを返した後、養父はカントに剣の扱いに気をつけるようにとは言ったが、紅剣を失ったことには頓着をしていなかった。
 だが、それも済んで部屋へ引き取ろうとしたカントに養父が切り出したのは近隣の大都市マージにある騎士団への入隊の勧めだった。カントがどうしても武芸一般が苦手なのを、養父なりに案じていることは分かる。それは理解できる。

 だが、カントはそれを切り出された瞬間に、血の気が引く音がこめかみを下っていったのを聞いた。剣も弓も、苦手と言うよりは遙かに苦痛に近かった。カントとて、まるきり努力しなかったわけではない。むしろ、自分が不得手な部分であることをよく理解していたから、必死で鍛練を積んだ。
 父の知り合いの騎士たちや、配下の剣士たちに幾度指導を頼み、その数と同じだけ失望させてきたのだろうか。いや、失望だけならまだいい。養父の期待に応えられない落胆を、自分の胸で飼うだけならいい。それは内省であって、自分の中でどうにか宥めすかして眠らせるものだから。

 カントは怖いのだ。自分が養父の名声に傷を入れているのではないかという懼れ。彼らが自分を見下げるのと同じように、養父の見る目のなさを苦笑するのでないかという怯え。けれど、とカントは泣きたくなる。僕は、ちゃんとやってる。自分に課せられた義務と期待を裏切らないように必死に、それこそ血を吐くような思いで練習用の剣を握り、鏃の付いていない矢羽を持つ。やっているんだ。やれることは全部!
 そして、それでも、思うようには動いてくれない身体。
 だが一条の光明もまた見えた。紅剣はどういう理屈なのか分からないが、格段に扱いやすい。剣がまるで意志を持っている錯覚さえ覚えるほど、易々と、軽々とカントの思い描く軌跡を、すさまじい速さでなぞってくれる。
 理想の剣の道筋を自分の身体が描き出すことなど、カントには望外のことであった。そして紅剣以外ではまるで同じ、ただの勘の鈍い子供 ──

 カントはゆるく首を振った。リリクが自分の肩を軽く叩いて背を返した。カントは剣を鞘に納めて友人をを追った。
「適当なところにしておけよ、カント」
 リリクが低く呟いた。
「あんまり頻繁に出し入れするのは良くないぜ。結局盗んだのと同じだからな、分かってンだろ」
「……うん……」
 盗んだのと同じと念を押されればその通りであった。共通の秘密を抱え込んで二人は、それまで以上に行動を共にするようになった。傍目からは仲がよいと見えるだろう。間違いではなかったが、今はやや内実がずれ始めているのをカントは感じ、そしてリリクも然りであろう。
 剣のことは秘密だ。二人しか真実を知らない。だから漏れるときはお互いしかないと心の底でカントが考えていることを、リリクも分かっている。それが分かるのは、彼も同様だからだ。――― お互いに、相手方が喋ることとつまらない過失で他人に罪が露呈することを恐れていて……結局のところ、紅剣を素直に返すつもりがないのだった。

 それに、最近クハイスの周辺に夜盗が出る。金品だけならよいが命まで取られてはと、子に厳しく言いつける親も少なくない。薄暮を過ぎれば子供の姿はほぼ見かけなくなる。リリクもカントも、年齢だけで目立つのだ。
 何度目かもしれない溜息を落とすとカントは紅剣を丁寧に布にくるみ、巨木にぽかんと空いたうろへ入れた。この木は街道から外れてはいるが姿は見え、長い年月に中が朽ちて空洞になっている。人はまず近寄ってこないし周辺は草の波、誰かに偶然にでも発見されることはない。
 ただ、街道を降りて何もない場所へ歩いていくように見えるから、回数が重なれば奇妙に思われるだろうとリリクが言うのは道理だ。分かっているのだ、そんなことは。
 
 カントは一瞬目を閉じる。剣に魅入られているというならそうかもしれない。剣を手にしているときは心が躍る。自分の身にかかる周囲の期待と、その裏返しの落胆を忘れることが出来る。カントに武術を教える者たちは可哀相だと彼は自分で思う。出来の悪い、人なつこくない弟子はきっと重たい荷物と一緒だから。
 溜息はきっと、つく方も辛いだろう。だが、つかれた方が辛くないわけではないのだ。自分も他人にも、憐憫など何の役にも立たないのも分かっていて。
 そんなことを最近頻繁に考えてしまうのは、この剣の魔術というものかも知れなかった。カントは意地悪をしている。それをリリクには知らせない。紅剣を木へ隠すとき、目印となる窪みに重なるように立てかけることは自分一人だけの所作だ。だからカントには分かるのだ。リリクが口で何と言おうと、紅剣に自分と同じように魅入られていることが。俯き加減に足早に遠ざかろうとするリリクの背は、夕暮れの薄闇に滲み、いつもより小さく見えた。

 街道へ戻ると二人は同時にそこを振り返った。燃えるような太陽の残滓に浮かぶ黒い影はひどく長く、暗く見えた。二人とも黙って家路を辿った。紅剣を搾取して以来、二人でいるときの会話はめっきり減った。共通の秘密を持つことで得られるはずだった強い絆は、いつの間にか別のものへすり替わっているような気がした。
 こんなはずじゃなかったのに。カントが思うように、リリクも考えているだろうか。けれど、お互いにもう戻れないと思い詰めてしまったのは確かだ。
 紅剣に別の色を与えるとしたら、とカントは思う。それは多分、後悔の暗灰青。光の射さない、海の色。

 こんな事を考えるのはよそうと何度も思い、それでもふらふらと思考の波に打ち寄せられて同じ場所を巡っている。煮詰まっているというなら本当だったし、違うというなら真実かも知れなかった。
 リリクはこの剣を欲しいと思っていないのだろうか、とカントはちらりと友人の横顔を見上げる。先ほどからずっと不機嫌に黙りこくっているリリクの輪郭は整って、出来の良い彫像のようだ。紅剣を隠したとき、リリクもそれに賛同したはずだった。あのとき、確かにお互いの瞳の中に同類の光を見た。そのはずだったのに。自分が紅剣にかまけているのを不機嫌に見ているのは、それが気に入らないからだ。リリクは思っていることを素直に表情に出す。

 カントが紅剣にのめり込んでいくのを制止しようとするなら、それはあの剣の持つ魔力をまるで理解していないということだ。……自分だって、隠れて剣をもて遊んでいるくせに。それとも単純な嫉妬だろうか。カントにはいずれ、騎士への道が用意されている。リリクは殺傷から一番遠い位置に腰を据えなくてはならない。性質は真逆を向いている。カントは騎士には向かず、リリクは知識を詰め込むのが不得手だ。
 だが、お互いに巡り会った相手が良すぎて悪い。泥臭い海の上での生活など倦み果てていたのに、恵まれてみれば狭苦しい。窒息しそうな日常。押しつぶされそうな……養父母の、慈愛と赦しの眼差し。二人とも、自分の望む未来は手に入らない。だが、もし、カントの手に紅剣があれば、カントの希求は叶うことになる。鞘を作り替えればあれを腰に吊ることも可能だろう。

「カント、お前、何考えてる……?」
 不意にかすれた声がして、カントは現実に引き戻された。リリクは秀麗な顔を歪め、街道の石畳だけに目線をやりながら呟いた。
「俺は、あの剣のこと、誰にも喋る気なんかねぇよ。ただ、あれはお前の剣じゃない。俺のでもない。お前だけが勝手に振り回したりすんな」
「……どういう、意味」
「別に。お前が忘れてるようだから言っとくけど、あれは俺の剣でもあるんだからな。今から謝っても義父に頼み込んでもらえるのは俺のほうなんだぜ。わかってんのかよ」
 カントは自分がはっきりと青ざめるのが分かった。リリクのこれは、体の良い脅しというものでないだろうか。リリック、と呟いた声が震えている。
「僕は、ただ……」

 何を言い訳しようとしているのだろうとカントは途中で言葉を切る。その代わりに、自分の胸の辺りを強く掴んだ。いいよ、とリリクが言った。
「何でもねぇよ。……そのうち、もっと上手い方法を考えようぜ」
 リリクは素早く争論を避け、唐突に走りだした。町へと駆け戻っていく彼の影が細く長く伸びていくのを見送りながら、カントはそれだけは許さないと、小さく、重く、呟いた。