黒き魚たちの渇き8

 夕日が沈もうとしていた。窓から見下ろすと診療所の入り口に妻が診療の終了を告げる札をかけているのが見える。ゆるく椅子に沈みながら机に向かって診療の記録を書く。
 アナイスはただの風邪。リークの骨はそろそろくっつく。ミルキの婆さんはまぁ、年を取れば耳が遠くなるのは当たり前なんだがなぁ。
 小さく笑ったとき、扉が叩かれた。きっと妻だ。
「あなた、お茶を入れたわよ」
 思った通りにそれは妻であった。普段はさほど感じないが、光量の少ない部屋にいると肌に刻まれた皺は彼女の年齢を如実に語った。仕方がない。自分もまた、緩やかに老境というものへ向かって歩いている。
 亡くなった養父が肩が上がらないと言っていたのを実感できる年齢になったのだ。季節の変わり目には手を振り上げないと届かない位置には物は置かれない。次第に肉よりも脂気の抜けたものが好きになってくる。若い頃の必死の勉学のせいで酷い近視になってしまった目が、最近はよく見える。これは老眼という奴との相殺の結果か。

 妻の顔貌に過ぎ去った年月を一瞬で思うのも、老いと真向かう年齢になってきた証拠かも知れなかった。出会ったときはお互いに若かった。大都市マージの医療学校で知り合った時自分は20で彼女は18、医者の卵だった自分と薬の調合士の卵だった妻はすぐに恋に落ち、結婚した。街に戻って養父の診療所を継ぎ、二人で力を合わせてきた。
 やがて養父を、そして養母を看取り、二人になった。自分たちの間に子供は授からなかった。子供は神が下さるもの、決して人の範疇ではない。だから諦めてはいるが、妻と二人で日の終わりに茶を飲んでいると、ふと子供がいたらと思うことも事実であった。
 今更ながら養父母の愛を身に実感として感じることが出来るようになったのだ。跡など継がなくてもいい、子供がいてくれさえすればいいのだと繰り返していたあの言葉が真実であったことも。

 夫の書いた診療記録を見ながら、妻がそれに合わせて薬の調合を書き足していく。そんな共同の作業も、この30年変わらない日常だった。ふと妻が顔を上げた。
「誰か来ているようね?」
 確かに扉が叩かれている。急患だろうかと窓から見下ろすが、扉を叩く人影はしっかりと自分の足で立っており、具合の悪そうな連れもいない。
 怪訝に思いながらも階下へ降りて細く扉を開くと、そこにいたのは黒髪の少年だった。齢は13から15の間くらいだろう。僅かに怯えたような表情が何故か胸に残る。
「リレクトル=アクスランド先生?」
 彼は頷く。少年は良かった、と笑った。

「僕はヴァン=リドーといいます。父の遺言で、先生にお渡しするものがあるんです。父の名は、ナセール=リドー」
「……いや、私は」
 そんな方は存じ上げないと困惑のままに口にしかけたとき、少年はあの、とそれを遮った。
「父からあなたに、これを渡してくれと頼まれました」
 少年は長いマントの奥から細長い包みを引き抜き、それをほどいた。落日よりも尚赤い剣が、眼前にあった。一瞬呼吸が止まったような気がした。30年以上の時間が一息に逆巻き、巻き戻されていく。
 カント。呟いた声はかすれて震えていた。
「ええ、父はそう言えば分かる、と」
 少年の声に我に返り、深く頷く。カント。消えてしまった子供。少年がそれと、と手紙を差し出した。
「父から、先生へ手紙を預かっています。読んでいただけませんか」
「もちろんだとも」
 扉を開けて少年を中へ迎え入れながら、リリクは胸に手を当てた。




『親愛なるリリック

 君は私のことを怒っているだろうか。多分そうだろうとも思うし、そうであって欲しいのかも知れない。私がクハイスから逃げ出した16才の頃、私も君も、とても苛立っていた。それが若さなのだと言うことにも気付かないほど、私たちは苛立っていたね。
 そして私は短絡で、君は慎重だった。思い出せばきっと誰もが資質が反対だと言うだろうけど、私はそれが真実だったと思っている。

 不思議なことにリリック、私は君に別れ際あれだけ酷いことを言ったにも関わらず、君は絶対に医者になりえたと信じている。君は優しく、そして強い。その優しさを表現する方法を知らなかっただけなのだと。でも、それが若いということなのだろうね。それだけでも価値があるのだから。

 少し私の話をしても良いだろうか。
 私はクハイスから逃げた後、剣を手にして戦場を点々とした。剣の魔力は絶大で、私は偽名を使って傭兵稼業を続けた後に騎士になり、騎士団の副長にまでなることができた。でもそれも、全ては君の言ったとおりにあの剣の力で、私の力ではなかった。
 私は割合それに早く気付いていたが、剣を捨てられなかった。踏ん切りがなかなかつかないのは、昔からのことだ。けれどもうそれも終わる。半年前の戦で私は左足を失い、その部分からの腐食で恐らくもうすぐ死ぬだろう。
 だから君に剣を返したいと思っている。君には必要ないものであることは承知しているが、それが筋だからだ。忠告をするならば捨ててしまった方が良いとも思うけれど。

 あの時、私は君のいう言葉が正しいと分かっていた。正しいから許せなかったのだ。私は君に怒っていたし、きっと君も私のことを怒っていただろう。今でもそうかもしれない。
 けれどリリク。私は時々月を見ると思い出す。あの晩の、君の泣き出しそうな顔を。そして夕日を見ると思い出す。クハイスの海に貝を投げて君と遊んだことを。
 それが全部美しく見えるのは何故なのか、私には分からない。けれど、美しいと思えるものを見ているとき、私は不思議に何もかも許せるし、許されているような気分になるのだ。

 親愛なるリリック。もし君が不快であるならこの手紙をどうか捨てて欲しい。だが、最後に再び呼ばせてもらえないだろうか。
 我が友と。
 さらば、我が友よ。
 そして君の幸福を切に祈ろう。君の成功を信じていよう。君に神の恩寵が降るようにと、私は君を想う。
 君のために。

カント=イーレ』


 リリクは手紙を閉じて目をつむった。彼がどんな人生をそれから生きたのかを知って、何故か満たされたような気持ちになる。長い溜息をつくと、目の前の少年が微かに怯えたような顔つきで、何か、と聞いた。
「いや……お父上は、亡くなったのだね……」
 はい、と少年は頷く。戦場での傷が元で、という簡単な説明にも頷いて、リリクは手紙を丁寧に畳み、封筒に納める。
「剣は確かに受け取ったよ。ありがとう」
 カントの忠告に従って街の骨董屋にでも売り払ってしまえばいい、とリリクは内心で頷く。金はこの少年に持たせてやるのが良いだろう。あの剣はカントが持っていったときから彼のもので、自分には必要なかった。
「君も遠路をご苦労だったね、しばらく私の家でゆっくりしていきなさい」
「いいんですか?」
「もちろん」
 リリクは微笑む。昔から整った顔立ちは年齢を重ねた今でもそう悪い笑顔にはならなかった。お父上の跡を、と聞くと少年は複雑そうに笑った。

「僕は……剣もそううまくないし……父は僕がこれから食べる分を残して、残りを孤児院へ寄付したんです。僕もそれには賛成したのでいいのですけど、僕は出来れば医者になりたいので、マージの医療学校へ行くつもりです」
 リリクは目を細める。カント、お前が何を考えているか、あてて見せようか?
「──もし君がよければ、ここで診療の手伝いをしてみないか? この裏がすぐに住居になっているから、そこから通えばいい。給金も当然払うよ」
 少年は少しの間、ぽかんとしていた。やがてその頬に赤みが差してくる。それは破格の話ではあったのだ。でも、と言いかけた少年にリリクは殊更優しく笑い、肩を叩いた。
「医療学校は金がかかる割に、いい場所じゃない。卒業した私が言うのだから。それよりは実践から学んだ方が得るものが多いはずだ。私の妻は薬草の調合士でね、そちらも興味があるなら手伝えばいいから」
「でも、僕、そんな……」
「いいんだ──本当に、いいんだよ」

 リリクは柔らかく言い、そして既に姿を隠して残滓だけを水平線の彼方に投げる日の方向を見た。美しいと思えるものを見ているときは不思議に何もかも許せるし、許されているような気分になる……
 ああ、そうだなカント。本当にそうだ。綺麗な夕暮れだ。お前といつか見ていたような。 
「……君のお父上と私は親友だった。たとえ30年以上会わなくても私たちは、お互いがお互いを案じていることを、分かっていたよ……」
 それも今更真実に思われた。少年は僅かに笑って頷き、父もそう思っていたと思いますと付け加えた。
「だから私は、親友の残した君に出来るだけのことをしてやりたいと思っている。彼に罪を押しつけてしまった私の償いを、私は君で取り戻したいのだろうね。私の我が儘につき合ってくれる気になったら、ここへ来てくれれば仕事を教えるから」
 少年ははい、と頷いた。

 朝の診療室で少年が白衣に着替え、照れたように佇んでいるのをリリクが発見するのは10日後であり、ヴァン=リドーがリリクの養子になるのは3年後。そしてヴァン・リドー=アクスランドが南部大陸一の名医と謳われるようになるのは、およそ20年後のことである。

《黒き魚たちの渇き 了》