Love Affair 悪魔のような女

 あたしの彼はカニである。三十二才、既婚。いわゆる不倫というやつだ。以前奥さんと子供の写真を見せてもらったが会ったが、奥さんはパグという中国原産のちんくしゃな犬に似ていて、娘さんは可哀相なくらいに奥さんに似ていた。
 彼は一言で言うなら調子のいいタイプだった。のべつまくなし、何かを喋り立てている。彼の宴会芸は、四対の足のうち、上から二対目の足で何かにしがみつきながら
「かに道楽〜ぅ」
と、がしゃがしゃ足を動かすというシンプルと言えばシンプルなものだが、彼のキャラクターと一緒になって、これが出先などでは結構受けるのだった。
 彼と付き合い初めて一年ほどした日曜日、あたしは洗濯物を干そうとマンションのベランダに出ようとして、慌ててしゃがみ込んだ。あの写真よりも更に太ってパグから唐獅子へと迫力を増した奥さんが、なんとマンションの下からじーっと何かを探すようにベランダ中を眺め回していたのである。
(ひえーっ)
 彼が何も言ってこなかったから気付かなかったけど、バレてるんだと確信できる。まさか、乗り込んでくるつもりじゃないだろうな、とカーテンの隙間から外を窺うと、タイミング悪く丁度うちのベランダを目で物色していた奥さんと、遠目にも、ばっちり目が合ってしまったのである。
 あたしは反射的にカーテンへ隠れてしまった。洗濯物の入ったバケツを抱きしめると、洗剤の臭いがした。 少しの間をおいて、うちのチャイムが鳴った。ひええ、とあたしはますます堅くなって窓の近くで息を殺していたが、チャイムは間隔をおいて鳴り続けている。
(奥さんだ)
 間違いない。あたしはぶるぶる震えながらバケツにしがみつく。一時間もそうしていたろうか、ふとチャイムがやんだので、あたしは恐る恐るドアを開けた。
「なんだ、やっぱりいるじゃない」
 だみ声がして、あたしは脇を見る。
 唐獅子の顔をした奥さんが、パグの顔をした娘を連れて立っていた。
「うちの主人がお世話になってます」
 何かあたしが言う前に奥さんは素早くドアを塞いで立ち、そう言って丁寧にお辞儀をした。あたしは心の中で
(ぎゃふん)
と呟きながらども、ともごもご言った。だが奥さんが一つ聞きたい事があるんですけど、と切り出したのは「うちの主人とどういう関係」でも「あんたが誘ったんでしょ」でもなかった。
「うちの主人、あなたからお金を借りてませんか」
だったのである。
「えっ……」
 あたしは絶句し、それからまさかと思った。確かに彼にお金は貸した。でもそういうことは時々あったし、競馬で勝ったとか臨時収入があったとかで小まめに返して貰ってたから、気にはしてなかった。それを言うと、奥さんは溜息をついた。
 実は、と奥さんの口から聞いたのはとんでもない話だった。彼にはあたしを含めて五人の女がいて、それから少しずつ借金しては他の女の返済に一部をあてて遊び回っていたらしいのだ。奥さんがそれを知ったのは、その内の一人が泣きながら「金返せ」と電話してきたからだという。
 あたしの頭からざざーっと血の気が引く音がした。後ろへ倒れそうだった。しかも、彼は問いつめると最初はしらばっくれ、ついには
「最初に借りた金、永久に浮いたままなんだぜ、俺って頭いいだろ! 家のローンで金がねぇんだ、がたがた言うな」
という正当化で開き直ったという。あたしは許せん、と呟いた。
 奥さんはそうよ、と力強く言った。あたしは頷き返した。泣きそうだった。あんなカニに貢いできた分のお金も心も心底勿体なかった。そうしてあたしは奥さんに誘われるままに、彼の家へと初めて乗り込んだのである。
 帰ってきた彼は、さすがにぎょっとした顔をした。奥さんはしれっとした顔であたしを友達のカナコさん、と紹介した後でわざとらしく知り合いだったのねぇ、と言った。あたしもできるだけ嫌味たらしくこんばんわ、と挨拶した。
「ど、どうも……」
 彼はぎこちなくはさみをあげて甲羅を擦り合せる挨拶をしたが、目の焦点は定まっていなかった。あたしと奥さんは彼の秘蔵の日本酒を開けて飲んでいたのだが、恨めしげに見ただけで何も言わずにまた外へ行こうとした。
「おい、どこいくんだよ」
 奥さんのドスのきいた声が言った。彼はびくっとして動きを止めた。奥さんは彼をわし掴むと乱暴にテーブルの上に置いた。
「てめぇ、聞いたぞ」
 奥さんの低く太い声に、彼は震えながら違う、と言った。
「何が違うんだよ、金返せ、カニ!」
 あたしはがなりたててやった。奥さんがそうだそうだ、と気勢をあげた。彼はうーっと泡を吹いた。その様子にあたしと奥さんはぎゃっはっはと腹を抱えて笑った。奥さんは笑うと沖縄の魔除けのシーサーに似ていて愛敬があった。
 彼は
「近所に聞こえるからやめて」
と力無く言ったがそれは無視してやった。
「そうだ、かに道楽やれよ、カニ」
 あたしは杯を飲み干してにやりと笑って言った。彼は嫌だよう、と小さく言ったが奥さんが
「やれって言ってんだよ!」
 と、一喝すると、涙目になりながらテレビに掴まって
「か、かに道楽〜ぅう」
 と足をばたばたさせた。
 それを見てあたしたちはまたぎゃははと笑い、それから真顔になって思い切り、
「ばーか、ばーか!」
と罵倒してやった。
 彼がううう、と泣きながらテレビから降りようとしたのを、奥さんが
「誰がいつやめていいって言った!」
と怒鳴って、彼はまた「かに道楽ぅ」を泡を吹きながら続けた。あたしはすうーっと胸の辺りから何かが抜けていくのを感じて本当に気持ちよかった。
「俺が悪かったから、勘弁してぇ」
 彼は泡を吹きながら懇願していたが、あたしたちは許すつもりなんかなかった。1匹のカニに不愉快な思いをさせられた、あたしたちの気持ちは完全に一致していた。
「やめると食っちゃうぞ!」
「ひーっ!」
 奥さんの言葉に彼は必死でかに道楽〜ぅを繰り返した。あたしは大声で笑いながら、彼の動きが少しでも鈍る度に
「今夜のメニューはカニ、カニ!」
と、去年流れた宅配ピザのCMソングを歌ってやった。
「ひーっ、ひーっ」
 彼は泣きながら必死にかに道楽〜ぅをした。あたしたちは肩を組み、ピザのCMを歌い続けた。寝ていた彼の娘さんが起きてきて、パパから買ってもらったこぐまちゃんのカスタネットを、あたしたちの歌に合わせて乱痴気に叩き始めた。カスタネットの目茶苦茶なリズムの中で、あたしたちはいつまでもいつまでも、即興で作った
「今夜のメニューはカニ料理、カーニ、カニカニ! 足から味噌までん〜うまいっ!」
という歌を大合唱していたのだった。
《終》


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