第3章 かもめたちはうたう 11

 ちかちかと天窓から陽光が射している。その眩しさでシャラは目を覚ました。遊女の部屋は客の使う表廊下と、下働きが使う裏廊下に挟まれていて、窓は天井に四角く切られたものが一つだ。天窓からの光だとすれば、既に昼が近いはずであった。
 そんなことを思いながら寝返りを打つと、その横に男がいたことにシャラは驚いて微かに息をのんだ。無論それは前の晩の客なのだが、この時間になっても部屋から出さないのはやはり具合が悪い。と、いうよりもこの時間まで客がいることが信じられない。しっかり朝寝を決め込んでしまった自分も悪いが、相手も良くない。大体、こんな時間に帰したのが知れたらねえさんたちに具合が悪いわ。
 起きなさい、とシャラは隣でまだ寝息を立てている少年の肩を揺する。彼はうん、と曖昧な返事をして目をしばたきながら起きあがった。
「……なんだよ、もう朝……」
 そこまで来て、彼も時間の遅さにようやく気付いたようだ。天窓を見上げ、ついで寝台の脇に適当に放り出されている彼の時計を拾い、長い長い溜息になる。
「やっちまった……ま、いいや。俺がいなくても他がどうにかするさ」
 最後についていた呟きは楽観というよりは期待であろう。その証拠に少年は急いで身支度を始めた。短い髪がまだ寝癖のままになっているのを、シャラは適当に直してやる。ありがとうと笑う顔は屈託なく、これが彼女についている客の中で一番若くて朗らかなたちだ。
「あんたも本当に不思議よね」
 彼の支度を手伝いながら、シャラは呟く。鏡をのぞき込んで寝癖を押さえるのに懸命だった少年は何が、と振り返らずに言った。
 けれどその視線は鏡の中で動いて自分を見ている。彼は自分が好きなのだとシャラはとうに知っていて、それをこんな僅かな仕草でとらえ直すたびに、決して不愉快にはならないのだった。
「あたしとあの人のこと知ってるんでしょうに。よくもまあ、自分のご主人様の女に手を出そうなんて思えるわ。あんたの図太いとこ、尊敬しちゃうわよ、チアロ」
「だって、彼は駄目だって言わなかったよ」
 その言葉にシャラは胸の奥がちりっと焦げた匂いをたてるのを感じる。けれどそれを表情に出してしまったら、自分の中の誇りや矜持というものが全て崩れ去ってしまう気がして、ことさら笑顔になるのだ。
「そりゃ駄目だとは言わないでしょうよ。身請けもまだなんだし、妓楼に置いてるからにはあんた以外の他の客とだって寝るんですからね。神経が鉄で出来てるのはだから、あんたの方。いい根性してるわね、本当にさ」
 チアロはどうにか跳ねた髪を撫でつけ終わり、くるりと彼女に向き直った。
 彼の表情はいつもの通りに明るいが、瞳にある光はひどく真剣で、切なくなるほど強い。その強さが逆に喜びと怯みのない交ぜになったものに彼女の胸の中で変化して、チアロのことを決して嫌ってはいないのに、この目をされると喉がふさがれるように呼吸が苦しい。
 ──そして彼と同じ目で、自分もあの人を見ている。あの人があたしを見て、微かに逃げ出したいような素振りを隠そうとするのはそのせいだ。でも、じゃあ、どうしたらいいの?
 シャラがきゅっと唇を結んだとき、だって、というチアロの声が聞こえた。
「だって、俺、お前が好きだもの。お前がいいなら今すぐここから出してさ、二人でタリアなんか出てどっか別の場所へ行ってもいいよ。俺、他のどんな事のためにも痛いことは嫌いだけど、お前のためだったら死んでもいい」
「馬鹿ね」
 シャラはあきれた風を装って、つんと肩をそびやかした。
 チアロのまっすぐで直截で、軽やかではあるが真剣な言葉を聞くとき、ひどく心浮かれている。けれどそれは本当に欲しいものの代価品であって、所詮偽物でしかない。
 偽物であることを承知してもいるが、チアロの真摯な気持ちを知りながらそんなことしか考えていない自分にも嫌気がさすのだった。
 シャラの表情が曇ったのに気付いたのか、チアロはやっと上着をかぶりながら彼女に近寄ってきて、ゆっくり顔をすり寄せた。
「……暗い顔すんなよ、せっかく綺麗な顔してるのに台無しになるぜ」
 こつんと額同士を打ち合わせてチアロは笑い、彼女の手を軽く握った。
「また来てもいいだろ?」
 ご勝手に、とシャラはふいっと顔を逸らす。いつでもこうしてじらしてやれば、彼はまた熱心にシャラへの賛辞を降り注ぐのだ。
 その言葉を聞くのは好きだった。後から自分で適当にこじつけ、改竄し、もっと別の声で囁かれるのを夢想するために。
「──待ってるくらいの殊勝なこと言ってよ、たまにはさぁ」
 チアロの甘えるようなすねた声に、シャラはつんと顔を背ける。慣れ親しんだ関係が既にこれを冗談に流せるほどに積み重なっていた。
 彼女から気に入る言葉を引き出せないのはいつものことで、チアロはやれやれと肩をすくめる。出会った3年前にはまだ子供の領域を出ていなかった身体も仕草も、既に少年と呼ぶ域へ達し、やがて大人と呼ばれる時代へ入っていくだろう。
 彼の未来は何故かすんなりと、良いものばかりを描くことが出来る。
「お前の気位の高いとこ、すごく好きだけどね」
 チアロの声は苦笑を含んで甘い。シャラはふうんと素っ気なくそれも流した。
 恋愛には必ず勝利者がいる。力関係は決まっていて、逆転することは滅多にない。この場合はシャラの方が明らかな優位であった。
 チアロの率直な賛辞も洪水のように溢れてくる愛の言葉も、全ては彼女の意のままであって、止めろと本気で言えば彼は飲み込むだろう。チアロの言葉はどれも軽やかに明るいが、誇張や戯れのような嘘の匂いはしない。それがどれだけ自分を慰めているかシャラは知っている。本当に振り向いて欲しい人に顧みられないまま年月だけが流れ堆積していくのを、見ているしかできないから。
 またね、と簡単な言葉だけを残してチアロが出ていくと、シャラは長い吐息を落として寝台に座った。
 昼近い陽光はやけに明るくて、それが天窓の硝子を通して降り注いでくる健康な目覚めが自分に不釣り合いに似つかわしくない、そんな居心地の悪さがじりじりとあがってくる。
 チアロのことは嫌いじゃない。あれは自分の崇拝者で、彼の気持ちに頷けばその性質の通りに明るく力強く自分を愛するだろう。それは分かっている。彼が今シャラに降り注いでいる陽光のごとくにまっとうに自分を恋していることはきっといいことなのだろう。
 でも、そんなもの要らない。
 どんなに辛くても苦しくても、焦れても泣いても苛立っても、自分の心が吸い付いていく背中は一つきりだから。
 好き、とシャラは呟いた。その声が耳から胸にするりと落ちた瞬間、そこが鈍く痛んだ。あの人があたしのことを特別に思っているのは知っている。でも、それはあたしが欲しい視線じゃない。あたしが欲しい熱じゃない。彼に温かに大切に扱って欲しいなどと思ったことなんか、一度だってない。彼がシャラの目の届かない場所できっとしているであろう、取り巻く女達にするように戯れに踏みにじって欲しいのだ。
 彼の長い指が自分を愛撫するならば、どれだけの歓喜になるだろう。彼のよく鍛えられた身体が自分の身体を法悦の中に押しつぶしてくれたら。たった一度で死んでもいいのに──……
 その瞬間、シャラは微かに呻いて首を振った。やけに生々しいことを考えている自分がひどく淫蕩な女であるような気がする。あの人のことを考えると胸が苦しく切なく痛い。この痛みが次第にひどくなるのを自覚して、自分がどれだけ彼を恋しているかを思う瞬間は自嘲の入り混じった哀しみの中だった。
 ──自分も母のようになるのだろうか?
 そんな疑問がちらと脳裏をかすめるとシャラはいつも恐ろしいものを見たように、その考えから目をそらした。シャラの母は多情で恋の多い女だった。どこまでが客でどこからが男であったか遂に分からないが、それでも恋し、夢中になり、最後は決まって捨てられることの繰り返しだったことは知っている。
 男に騙され、殺されかけた末に運河に身を投げて死んでしまった母。シャラとよく似た顔立ちの女は結局幸福にはなれなかった。自分も同じ運命の車輪に乗っている気がして、シャラは怖くてたまらない。遊女になるまでは今のところ、同じではないか。
 それを救ってくれるであろう相手にシャラはたった一人をさだめた。彼以外知らなくていいし、見えなくてもいい。他のことなど必要がない。いつか彼が自分に向かって膝をつき、低く数少ない言葉で何かを語ってくれたら。それだけで死んでもいいくらい、あたしは彼が好きなのに。
 ちりっと胸の奥が焦げるような痛みがした。シャラは溜息になった。自分が考えている半分も、彼は自分を思っていないだろう。あの人には沢山の敵と沢山の配下がいて、何かにかかりきりになるには手に持つものが多すぎる。
 その内の一つが自分であることを疑ったことはない。水揚げから既に4年、シャラの元にずっと通い続けているのは確かなのだ。3度ほどミアの部屋にあがるのを見たことがあるが、自然にそれは消えて今はこの妓楼ではシャラだけに金を落としていってくれる。
 ──でも、そういうことじゃない。
 彼が自分を特別の女だと周知のために環境を美しく整えていくにつれて、どこへも捨てられない怒りだけがたまっていく。
 ──そういうことじゃない。
 彼の視線も吐息も言葉も、全てが自分一人のものであって欲しい。彼の中の一部分を分け与えるのではなく、何もかもがあたし一人に注がれるようであって欲しい。
 彼という存在の、全てが欲しい。妹だなんていう檻に入ったままではそれは永遠に手に入らないだろう。
 いつかあの人にも自分ではない誰かを愛して特別に想うことがあるだろうかとシャラは不意に思い、瞬間的にわいた激しい怒りにぎゅっと手を握りしめた。
 そんなの、絶対に、いや。そんな女、あたしが殺してやる──
 激高につられて浮かんできた言葉の強さにシャラははっとし、そして辟易して額に手をあてた。
 振り回されたときのように、ひどい眩暈がする。
 彼のことになると全く盲目のように何もかもが消えてしまう癖を、シャラは半ば呆れ加減に見つめた。
 そんなことではいけないと自分でも思うし、女将や先輩の女達からも言われてなお、その癖はいっかな直りそうにない。それが自分でも可笑しいと思うし、仕方ないような気もして、こんな事を考えるときは堂々巡りの惑乱の中だ。
 シャラは長い溜息になり、そして勢いよく寝台から立ち上がった。
 あまり彼のことを考えても今は仕方がない。この夜にも自分を買うであろう見知らぬ男達のために適当に部屋の掃除でもして、身綺麗にしておかなくてはいけないだろう。
 入浴や化粧はタリアの火入れの時間が近くなってからでもいいが、洗濯と掃除だけは早めにしなくてはいけない。
  シャラは昨晩来ていた人工絹のスリップドレスを拾い、下着と一緒に洗濯用の手桶に入れて部屋を出た。遊女達の部屋から裏廊下へ出れば、そこには高い位置の格子窓からさんさんと昼に近づいていく強い日射しが注いでいる。
 遊女達の部屋には簡単な浴室がついているが、こうした日々の細かな雑用に使うための水場は別にある。客を傷つけないように部屋に刃物や針なども置かないから、裁縫のための部屋もあって、昼前はみなてんでにそこで必要なことをしているのが普通だ。
 シャラが水場に入っていくと、先客がいた。
 長いことそうして足で踏んでいるのか、洗い桶の中の白い足が赤く染まっている。とんとん続く小気味よい音が何かの拍子のように規則正しい。
 不意に女は足を止めた。水を換えるのだろう。一度桶から出たときにシャラにようやく気付いたらしく、丁寧に頭を下げた。
「おはようございます、シアナねえさん」
 源氏名で呼び合うのはどの妓楼も同じ習慣である。シャラは軽く頷いておはよう、と言い、女の隣に洗濯用の桶を引き出した。
「随分丁寧にしてるのね。リーナは相変わらずこんな事が好きなんだ」
 シャラの言葉にリーナは小首を傾げて笑う。
 シャラが恋心という煉獄から目覚めて混乱し、立ち直りながら出てくる不機嫌な朝であるとするなら、この女は朝方は奇妙なほど明るい。ごく自然に呼吸をしているように見える。
 だがそれが不幸の臭いであることを、シャラは誰に教えられずとも知っていた。不幸な女は同じく不幸な女を見抜くのだ。
 恐ろしく正確に。
 ──彼女の前に出るといささか怯むのはそのせいだろう。彼女の真闇色の瞳に見つめられると、真っ黒な空に映る星のように自分の中身もそこに浮かんでしまう気がするのだ。
 シャラは彼女から視線を外し、洗い桶にぬるま湯を張った。自分の洗い物を入れて隣で踏み始める。同じ事をしていたリーナが成果を確かめるように彼女の木綿のワンピースを広げた。
 それで彼女が長く洗濯をしている訳が分かった。
 客が吐いたのだろう、その痕跡がくっきりと裾に残っている。シャラが一目見て分かるくらいだから、落とすのには時間がかかるだろうと思われた。リーナの溜息が聞こえる。
「吐かれたの?」
 シャラが聞くと、リーナはええ、と困ったように笑って頷いた。
「お酒が欲しいっておっしゃるからお出ししたんですけど……明け方に。シーツはさっきやっと干したんですけど、こっちはまだまだですね……」
「あんまり飲ませちゃ駄目よ。酒は繰り越しが出来るからって言って、適当に切り上げさせないと。酔っぱらってる奴の相手は疲れるでしょ」
「ええ、まあ……無茶を言う方が多くなるのだけが本当に困ってしまって」
 その無茶というのが何であるか、聞きたい衝動にシャラは駆られた。リーナというこの遊女が水揚げから半年にもなろうというのに未だに客あしらいというものが出来ないことを、女将が嘆いているのを聞いたことがある。
 遊女達の間でひそひそ交わされる性技のあれこれなどを本当に試したことがあるのかどうか、一度聞いてみたくて仕方がない。
 ──あんたまさか、寝転がってるだけじゃないでしょうね?
 そんな意地悪い言葉が浮かんでくるのは自分が苛立っているからで、その苛立ちはあの人のせいだ。シャラの世界で一番美しく力強い男。
 シャラはふっと溜息になって、肩をすくめて見せた。
「泥酔する前に寝台に引っ張り込んじゃえばいいのよ。お酒が残ってたらまた来る人も多いしね。気に入った客だったら半分くらいは残して置いて、次に来たときに、って言うの」
「ええ、そうなんですけど」
 気弱く微笑む面差しに僅かに浮かぶ困惑の色を、シャラは素早く嗅ぎとって目を伏せた。彼女のしていることは明らかだった。水揚げの時と同じような調子でたおやかにちょこなと座っているだけなのだろう。
 シャラの母も娼婦であり、シャラはこの世界に入ることを嫌悪したことはなかった。そうしないと生きていけないことくらいは分かる。
 この場所で生きていくからには仕事としてするべきことはする、というのがシャラなりの意地であるが、彼女はそれを放棄しているのだ。いつまでお姫様のようにいたいのだと怒鳴りつけたい衝動もあるし、そんなにここが嫌なのかと聞いてみたい気もする。
 それにいつまでもリーナ一人だけが無垢のような顔をして何も出来ないのですと装っていると、自分がひどく薄汚れた娼婦であると言われているような気になる。
 けれどそれを口に出さないのはリーナ自身がその困惑に開き直っていないのが分かるからだ。どうしていいのか、リーナには分かっていない。臆病というなら正しいであろうしそれを怠慢とそしるなら正しい。
 けれどそれを本人が気に病んでいる、その不幸をシャラは薄々知っていて、だから彼女に何かを言ってやりたいと思いながらも口にすることが出来ない。年齢が同じだからもっと馴染んでもいいとは思うのに、なかなか世間話程度から先に進まないのはそのせいだ。
「……もし衣装が足らなかったらあたしに言いなよ。ちょっと古くなったやつだけど、あんたに似合いそうな可愛いやつ、あげるから」
 彼女に一瞬抱いた苛立ちを鎮めるために優しいことを口にして、シャラは自分の洗濯物を勢いよく踏み始めた。