第3章 かもめたちはうたう 14

 夕方近くなってくると技楼には次第に活気のようなものが満ちてくる。タリアの火入れの時間はまだ少し先だが、それに合わせて開く店棚の支度のために、遊女達はお互いに品評を試合ながらの化粧に余念がない。
 この時間、彼女たちの忍び笑いや取り交わす言葉で地階の客用の食堂は明るい活気に溢れているのが通常だ。仲の良い遊女達はそれぞれにかたまって、化粧小物や簡単な装身具を貸し合ったりそれぞれにいる想い人の話をしたり、時間が来るまではくつろいでうち解けて過ごす。
 リィザも同じようにそこに入り、いつもと同じ椅子に座って簡単に化粧を始めた。水揚げの時に女将がしてくれた化粧が魔法のようであったと今更に思うがそれでも慣れというものはあって、最初の頃よりは全てがましに傾いている。
 外のざわめきが微かに流れ込んでくる。開業前だから外に面した格子の窓は閉められ、全てに簾がおりているが、音だけは完全に遮断できない。通りの浮かれるような賑わいは全くいつも通りの日常であった。
 リィザはちらりと外を見やり、微かに吐息を漏らした。
 深闇の始まりがそこに迫り来る時間、外の繁賑が華やかであればあるほど、心が暗くうち沈んでいく。リィザはそれには既に気付いているが、一体どうしたらいいのか自分でも分からないまま、ただ日々を流していることに怯み続けているのだ。
 水揚げから既に9ヶ月と12日を過ぎている。日数までがすらりと出てくるのは自分が一日一日を丁寧に、あるいは執拗に数えているからだ。この一日一日が、終わるのを数えている。指を折りながら日々が過ぎ去っていくのを見ている。
 そうやって待ちこがれているのは恐らく、朝を告げる遠い鐘声であった。あるいは早朝を歌う鳥の声、微かに白み始める空の色。
 その時間になると、明らかにリィザは安堵した。距離感を掴めないままに通り過ぎていく沈殿した空気から僅かな間でも解放されるかと思うと、自分でも情けないほどにほっとするのだ。
 こんなことではいけない、もっと努めなくてはという声が次第に自分の中で小さく縮こまっていくのが分かる。
 その代わりに聞こえてくるのは、何かに潰されるように呻いている自分の声だ。押し殺した呼吸の息づかいがひどく苦しげで、それを聞くだけでも胸がしめつけられそうになる。
 リィザは僅かに溜息をつき、その記憶を振り払おうとした。タリアの火入れの時刻は近い。そろそろ長く赤い夜が始まろうとしている。化粧と身繕いくらいは終わらせておかなくてはならなかった。
 鏡の中にいる自分の瞳にある光は弱く暗い。それを直視しないように気を払いながら、リィザは白粉を軽く肌に乗せた。
 元々日に当たって色素が浮く程度には白かった肌が最近は更に透明になってきている気がする。見習いの頃とは違い、遊女となった今では外で日に照らされることなどあり得ない。そばかすなどすっかり消えて、真白の雪のようだと時折は寝語りに口にする男もいるほどだ。
 それを思い出してふと漏らした笑みを鏡の中に自分で見つけ、リィザは一瞬僅かに唇を結ぶ。それは自分ではっとするほど嘲笑と酷似していたからだ。
 あざけっているのは男達か、それとも労働の質が変わった途端に美しくなっていく肌の現金な作用か──否、多分一番嗤ってやりたいのは自分だ。何もかもを微笑みで誤魔化し、真実をひた隠し、表面だけを慣れたように振る舞う心中で全く別のことを考えている自身なのだろう。
 この妓楼に来た頃、リィザは自分の身に起こった運命の流転を飲み込めなかった。毎日泣いてばかり、帰りたいと呟くばかりだった。それでもこの場所で生きていくことを納得して受け入れて、水揚げを迎えた。
 その時には確かに未来を良い方に考えようとしていたし、リィザなりに覚悟は決めたつもりであった。
 これが芝居や物語だったらそれで一件落着、であったのだろう。
 けれどどうしたことなのか、身体は頑なに全てを拒んだままだ。心は受け入れても、身体はぴったりと閉じられたまま、自分の運命を声無く呪い続けている──それが分かる。
 天窓から淡くこぼれ落ちてくる赤い夜光の中で男の手が自分の直肌を遊び始めると、呼吸が止まりそうになる。ぎゅっと目を閉じて一刻も早くその時間が過ぎ去ってしまわないかと息を潜め気配を殺していると、必ず悪い夢を脳裏に見た。
 それはあの貴族荘園で闇雲に働いていた頃の幻だった。
 幻影としては美しかった。あのころに見知っていた、虹や優しい小糠雨や蝶の乱舞や蜘蛛の巣の朝露や……それに、彼。思い出しては駄目だと必死でうち消そうとするたびに、自分がいかに幸福だったか満ち足りていたかを思い出す。
 そしてその瞬間、身体の上にある違和感に気付いてリィザは小さな悲鳴を上げて目を見開いてしまう。行為の最中におもむろに凝視されるほど男を興ざめさせるものもないらしく、大抵の客は鼻白み、何かを言う。それは直截な怒りであったり苛立たしい嫌味であったりしたが、言われた瞬間からリィザの身体はますます強張って、やがてそれは激しい苦痛に変わるのだった。
 それは勿論、自分が悪い。リィザは理性では理解している。
 相手は客で、自分は遊女だ。見合う金額を支払って楽しむ為にそこにいるはずなのに、歓待する側が醒めていることほど腹立たしいものもないだろう。それは分かる。
 けれど、何を自分に言い聞かせても納得させようとしても頑なな身体はどうしたらいいのだろう。これだけはどうしていいかも分からずに途方に暮れている。
 ──神様。
 逃げ込む先は、それしかなかった。水揚げの相手の男が無名神教会の僧職者であったのも何の偶然であったのか、最前から興味はあった無名神への祈りの聖句や紋様板の使い方などを教わることが出来た。名無き神は全てを知り、赦し、癒してくれるという教えに逃げ込みたくなるほど現実は閉塞という城壁の中に在って、そこから動こうとしない。
 だからリィザはそれまでよりの何倍も、真剣に祈った。助けてくださいとは言わない。どうか救ってくださいとも思わない。ただひたすらに、この現実から逃れる術として、安息を求める場所として、姿のない相手に黙祷した。祈りをしている時には現実という籠の中に在る疎ましいことも気の重いことも全て忘れていられた。
 ──神様……
 安息を少しでも探そうと、悲鳴と共に目を開けてしまった後はリィザは尚更目を固く閉じ何も考えまいとする。
 だがその所作をあざ笑うかのように幻は今度はそれまで相手をしてきた沢山の男達が与えてきた様々な苦痛に変わり、脳裏をぐるぐると回り続けるのだ。
 絶望という言葉がうっすらと胸に広がっていくのを感じるのはそんなときだ。その息苦しさを振り払う為にますます瞼を強く閉ざすと、ついには涙になりそうになる。──客といて涙を浮かべるなど、論外以前の問題だ。
 他にどうしようもないではないか、とリィザは自分を必死で言い含める。この妓楼以外に居場所などないのは理解せざるを得なかったし、自分でも納得したと女将に告げたからこそ水揚げもその後のこともあるのだからと。自分が在るべき場所はこの妓楼であることは明白であった。この中で自分なりの希望も未来も探していくべきで、それがいつか幸福というものへ至るかぼそい道を見つけてくれる……そのはずなのだ。
 なのに。分かっているのに。
 リィザは長い溜息になって鏡の中の自分に目を凝らす。
 時折訪ねてくるディーと他に二人ほど以外には常連客を持たないリィザは夜ごと客を誘う為に待合室に入らなくてはならない。身の空いている遊女達はそこか食堂かのどちらかにいて、通りすがりにでも目をとめてもらうのを待っているものだ。
 夕食は客のおごりにしてもらうのが殆どで、そうでなければ自分で頼まなくてはならないが、それには金がかかる。勿論妓楼の女なのだから客のものよりも安価だが、それにしても全てにつけて金が要った。
 その金はどうやって作るかといえば、結局客からの小遣いや客が頼む食事や酒に含まれている見返り料、そして指名料だ。何がいいとか嫌だとかご託を並べていては新しい衣装どころか下着の一枚も買えない。
 水揚げの時に多少のものは揃えてあるが、衣装も2枚や3枚では具合が悪いし、第一リボンや造花などの髪飾りに装身具なども多少無くては淋しく見えて余計に客がつかなくなる。
 この場所で生活をしていく為には客を取らねばならない、そういう機構は既にくみあがっている。なのに、それに馴染めず気付けば日数だけをひたすら数えている自分は一体何なのだろう。
 妓楼に売られた来たときにも自分の中の頑迷さに自分で微かに辟易したことがあった。
 今、その真芯の強情さをほとほと持て余している。
 男には慣れていくものだし行為自体には馴染んでいくものだと遊女達はみな言った。水揚げの翌朝にはそんなことは信じられないと溜息をついたものだったが、相手には慣れた。僧職のあの男からは女慣れた手つきや仕草などにも関わらず、どこか愛情めいたものの匂いを嗅ぎとった。その頃にはまだ男の腕の中にいるときに目を開くようなことはなかった気がする。
 僧職の男が秋を過ぎてぷっつりと来なくなり、やがてそれが転任であることを女将から知らされて後、完全に身体の感覚は閉じこもった。そんなことではいけないと思えば思うほど、吐息さえぎこちなくかたまっていく。
 他の遊女達の言う歓びというものを得ることが出来ない行為が、苦手から苦痛、苦痛から苦役に変わるまでそう時間はかからなかった。リィザは怯えているのだ。男という生き物全てが空恐ろしく、得体が知れなくて怖い。
 リィザが遊女としての素の部分にひどく乾いたものしか持ち合わせていないことは、肌を合わせていれば分かるらしい。
 怒る客、白けて不機嫌になる客、または逆にどうにか自分に感覚を与えようと躍起になる客、──そして、一番恐ろしいのはそれを知って殆ど一晩中責め苛む客だ。そういう性質の男はそれこそ文字通り夜の間中、言葉でも肉体でも彼女を追いつめることしかしない。多分、自分の怯えて強張り青ざめた顔もそれをあおっているはずだった。
 水揚げの相手には僅かに感じることが出来た情愛めいた空気は完全に見失い、どう探していいのかも分からなくなっている。こんな状態の自分にも僅かながらいる常連客というものが、一体何が良くてリィザに時折顔を見せるのかも分からない。
 ──それとも自分は彼らを憎んでいるのだろうか。どんなに冷えてあしらってもしつこく自分を買い続けるから?
 自分に問えばいつも答えは分からない、だった。反射的に否定が出てこないところが更にリィザを暗澹とさせる。馴染みの客達は行きずりの相手よりはまだ安堵を覚えることができるのに、彼らさえ厭うているなどと思いたくない。
 だが嫌悪感が少なく悪夢がやや淡いことと、愉楽というものを取り違えることは出来ない──……
 がちゃりという重たい音でリィザははっと我に返った。黒い制服を着た小間使いの少女が表の篝火にくべるための薪籠を扉の側に置いたのだ。細く扉を開けてその支度の為に外へ行く黒い衣装を見送り、リィザは鏡に向き直った。
 化粧はあまり凝ったことをしない。少し前に15になったばかりの肌は下手に飾り付けるよりも素の若さを売った方がいいと皆言ったし、同い年のシアナという姐妓もそうしている。
 だからごく簡単にそれをすませ、淡い色の口紅を置いて頬にかかる髪だけを後ろでまとめて百合の造花のついた櫛を挿した。
 この櫛はチェインの若い王の側近であるディーという男が彼女に買い与えたものだ。そう高価な品ではないが、衣装の布地がさほどまだ良くない。髪飾りにだけ金を注ぎ込んでいても均衡が取れなくて奇異なだけだろう。
 自分の指先が慣れた仕草で身支度を終えていく。仕上げの真珠粉を軽く目元に掃かせてぱたりと化粧道具の小箱を閉めると、それが合図だったように遠く一つ、空気をふるわせる鐘の音がした。夜の開始を告げる晩鐘の、予告の鐘だ。
 微かに絹のさやかな音がした。僅かに3名の遊女が立ち上がって自分の部屋へ戻っていく。
 彼女たちは客がつかなくてもこの待合室には入らなくてもいい権利を得ているのだ。この妓楼で一番良い部屋住の遊女達は揚げ代もリィザの5倍からというところで、客を選ぶ権利さえ在る。彼女たちが嫌だと言えば女将は上客を断るであろう。
 そしてそんな権利は彼女たちが特別である証左であり、リィザにはきっと降りてこないものであった。今のままでは無理だと考えるまでもない。
 正直なところリィザはほとほと嫌になっているのかも知れなかった。妓楼での生活も、男も、どこかに現実乖離したままの部分を残している。馴染めないと一言で斬って開き直ることが出来たらどれだけ楽だろうか。夕方が近くなるとリィザはいつもこんな気鬱に囚われる。次第に憂鬱は深く重くなっていき、鳴り響く晩鐘と共に簾があげられて通りに火が入ると、それは鉄のように固まって動く気配さえなくなってしまうのだった。
 ──早く、朝が来ないだろうか。
 リィザはこの夜の身の置き方などへの思考を振り飛ばし、ただひたすらに、解放される時間のことばかりを考えている。待っているのは朝、天窓から次第に白ける月が見えなくなって鳥の声がする時刻。自分の隣にいる見知らぬものがようやくいなくなる時間。
 夜の始まるこの時間にそんなことばかり考えているのがいかにも不遜で、リィザは微かに吐息を漏らし、立ち上がった。化粧道具を一度部屋に置いて裏階段から待合いへ下りてきたその瞬間に、耳に響き渡る四点鐘があった。火入れの時間である。
 巻き上げられた簾の向こう側の赤い光の洪水はこの日も目に痛いほど眩しくて、リィザはつい目を閉じた。