第3章 かもめたちはうたう 15

 この日の最初の客は泊まらなかった。まだ部屋にあがるのを差し止める時刻ではなかったから、リィザは身体と部屋の痕跡を丁寧に消してから階下へ降りた。身体の中の倦怠と嫌悪はこのまま自分の部屋で新しい毛布に潜り込んでいたいのだと一心に訴えているが、それに耳を貸してはならないことはよく分かっていた。
 そんなことをしても、結局何の進展にも進歩にも、無論解決にもなりはしない。どんな風に自分を慰めても宥めても潤わない性質に呆れながらも、根気よくつき合っていくしかないことは分かっている。それにどれだけの苦痛が伴うかという問題だけで。
 さすがに待合室には遊女達はまばらだ。そろそろ泊まりの客が主体になってくるほど夜は深まっていて、既に今宵の相手を見繕った娘達は自室に籠もっている。これから先の時間はやや揚げ代もまかることもあるから、外をそぞろ歩く男達の視線がちらちらと待合室の格子の向こうから注がれているのが分かった。
 リィザは格子のすぐへりにある腰台を見やる。身の空いた遊女たちが身体を置いて、外を行き交う男に視線を流して声をかけるための場所だ。数名の女達が既にそこにいて、格子の隙間から手を招いたり、お互いに何かを言い合って笑っている。
 そこに行かなくてはと思う瞬間には、リィザの足は動かない。おっとりとも内気とも表現できる怯えがちな性質が、見ず知らずの男に笑いかけるような真似をさせてくれないのだ。
 第一、何を言っていいのかもまだよく分からない。けれどいつまでもそこに杭のように立っているわけにもいかないとリィザが呼吸を飲み込もうとしたとき、後ろから声がかかった。
「空いてるわよ、あそこ」
 振り返るとシアナであった。リィザとは妓楼の中で唯一年齢が同じ少女だ。リィザのたおやかな風情とは反対の、煌めくような華やかさを放つ顔立ちは整っていて美しい。ライアンというチェインの若い王と容貌に共通するものが多かったが、どちらが綺羅しいかというならば、間違いなくこのシアナの方であった。
 彼女を目にする度に、はっとするほど綺麗だとリィザは思う。それは最初に出会った頃からまるで変わらない。
 リィザが一瞬自分に見とれているのに気付いたのか、シアナは肩をすくめて唇だけで笑った。彼女の仕草はどれも素っ気なくて強いが、そのどれにもさして悪意はなかった。
「今、身体空いてるんだったらあそこで外でも見てればいいじゃない?」
 シアナはまっすぐに腰台を指して淡々と言った。シアナねえさんは、と聞き返すと同い年の遊女は微かに笑って首を振る。
「あたしはこの後指名が入ってんのよ。部屋で待ってるのも暇だから、ここに誰かいないかと思ってさ」
 シアナはいいながら、リィザの背をとんと軽く押した。そこへ行くようにと促されているのが逆に楽に足を動かしてくれた。元々他人に指示されたことをつつがなくやり遂げてきた生活であったから、こうしなさいと強く言われると反射的に頷いてしまう。
 指名の入っている客というのはライアンのことだろうか。遊女間でもお互いの客の個人情報は秘匿が鉄則だったから聞くことは出来ないが、シアナの表情はさほど待ちかねているという風ではなかったから、違うのかも知れない。
 リィザが腰台に身を寄せて座ると、シアナがリィザの黒い髪を手で梳き流して何やら編み始めた。
「黒髪もいいわね、あたしも一度染めてみようかな」
 衣装には規定があるが、髪型なども自由になることの一つだ。リィザは背の中程で揃えているが、シアナの方は肩にまつろうあたりで切ってすそだけを簡単に巻いている。それがふわふわと彼女の秀麗な面差しを彩って、いっそう華やかに見えるのだった。
「シアナねえさん、でも今の髪型もとっても似合ってますけど」
 リィザの言葉にシアナは曖昧に笑い、そうねぇと呟いた。
 彼女の方がリィザよりも3年も早く水揚げを迎えているせいか、男のことにしても妓楼の中のことにしてもよく知っている。お互いに持っている性質が組違っているために実は雑談していても感覚の機微がよく掴めないのだが、これはリィザが薄々感じているならばシアナも思っているだろう。こうしたことは伝播するように正確に相手が鏡になる。
 けれどリィザを経験の浅いいもうととして、何くれと面倒を見ようとする辺り、根は悪い少女ではない。
 多分、それだけ分かっていれば良かった。
「──姐さん、客待ちかい?」
 格子の外から声がかかる。太い銅鑼声にリィザが僅かに怯みながら格子の外を見やると、朱塗りの菱木に手をかけた大柄な男がじっと二人の方を見つめていた。その視線は迷わずシアナの方に向けられている。二人並ぶと紛れもなく、人目を引くのはシアナなのだった。
 この瞬間に自分の胸に湧いたのが、微かな痛みだったのかそれとも大量の安堵だったのか、リィザには区別が出来ない。この男は自分に興味を持たないが、それが何故なのかを考えたいとは思わなかった。
 シアナはふっと唇をゆるめて笑った。リィザよりも遙かに面差しが整っていることを彼女は知っていて、こうした小さな表情に僅かに優越感のようなものが滲む。リィザはそれを当然だと思う。客の前で笑うことさえ難しい自分などよりも、今から美女になると明白で明るく振る舞う彼女の方がよほど大人びて華麗だった。
「あたしは待ってないわ、これから他の旦那様が来るもの……ねえ、この子は? まだ水揚げからそんなに経ってない新人よ。可愛い子でしょ?」
 ぐいとシアナの腕が自分を押し出して、リィザは籠のように巡らされた格子へ縋り付くような格好になった。のぞき込む男を、上目に見上げる。僅かな時間男は考えていたようだったが、急に明るく笑った。
 この笑顔になったときの返答は決まっている。
「いやいや、俺は姐さんが空いてるときにまた来ることにするよ」
「そう……じゃ、またね」
 シアナはぷいと顔を逸らす。こんな高慢に見える仕草でさえ、彼女は華やかさにすり替えることの出来る、希有な少女ではあった。
 雑踏の中に男が消えるのをリィザはぼんやり見送る。あの行きすがりの男がリィザを買わなかったのはシアナと比べて明らかに顔立ちが平凡だからだろうか、それとも自分の隠し持った性質を素早く嗅ぎとったからだろうか。直感のようにそれを見抜く男達もいる。
 リィザは小さな吐息を漏らした。あの男が自分を買わないという選択をしたことが、明白な安堵になってしまうのが自分でも疎ましい胸の作用だった。
 と、急に耳が引っ張られてリィザは隣の少女を見る。シアナの方はやや機嫌を曲げたらしく、むくれたようにとがらせた唇からおもむろに溜息を吐いた。
「あんたねぇ、せっかく勧めてんだからさ、お愛想の一つくらい言いなさいよ」
「あ……ごめんなさい……」
 リィザは目を伏せて小さく謝罪を呟いた。違う違うそんな言葉など口にしたくないのだと誰かが耳の奥で叫んでいるような気がしたが、それは黙殺するしかない。今更処女だと気取るわけでもないし、この9ヶ月間で相当の数の男を知っているのは事実だ。
 リィザの反応のにぶさにシアナは顔をしかめ、長い溜息をついた。何かを言われるよりもそのほうが応えた。リィザはもう一度ごめんなさい、と言った。
「……謝って欲しいとは思わないけど」
 シアナは中断していたリィザの髪結いを続けながら低く尖った声で言った。
「あんたがそうやって不幸です不幸ですって顔してるとさ、こっちも滅入ってくるのよね。何とかならないの、それ。もうちょっと明るい顔してればお客だってもっとつくわよ」
「そう、なんです、けど……」
 だが実際どうしたらいいのか見当がつかない。男という未知の生き物は、身体を重ね合わせた後でも未知のままであった。
 見えないものに好奇で以て突き進むことが出来るのはそんな性質の女だけで、リィザのように見えないものに対峙したときにまず恐怖を覚えるような者は、ただひたすら怖い恐ろしいと震えているしか出来ない。
 リィザの返答はやはりシアナの気に入らなかったらしい。彼女は苛立ったように軽く舌打ちすると、理解できないと言いたげに首を振った。
 それも仕方ないだろうとリィザは思う。シアナが自分を分からないのと同じように、自分も彼女がよく分からない。
 ライアンに彼女が夢中になっていることは傍目にも明らかであったが、あの端正な顔立ちの男の一体どこがそんなに好きなのか全く分からない。それに彼を深く恋しながらも他の客もあっけらかんと受け入れていることに、矛盾を感じないのだろうか。
 ……勿論そんなことを聞けば彼女が不機嫌になることは分かっていたから口には出したことがないが、リィザにはシアナの明るさも不思議だった。
 彼女とは仲の良い姉妹にはなれても、決して愛し合う友人同士にはなれないと思うのはこんな時だ。持っている性質が違いすぎる。
 けれどシアナが何くれと気をかけてくれることも本当だったから、シアナについてはよい先輩としてリィザは彼女を敬った。シアナにもそれは分かっているのだろう、時折かみ合わなくなる会話などには執着せず、構ってくれるのはそのためだ。
 シアナは今までの会話のことなど忘れたようにリィザの髪をいじっている。細い指が器用にリボンと髪を編み合わせていくのを壁の鏡で見ていると、シアナを呼ぶ女将の声がした。指名の客とやらが来たのだろう。
 行きがけにしっかりしなさいよ、とリィザの背を軽く叩いてシアナは待合室を出ていった。
 取り残されて、リィザは赤い河のような通りを見やる。そこを流れていく人の波はそぞろに陽気で、これからの夜を楽しむつもりの男達の期待感が見えるような気さえした。
 ふっと溜息をつこうとしたとき、隣にいた遊女がリィザの膝をつついた。女将が自分を呼んでいるのが聞こえた。
 待合室を外から見かけて時折は指名する男もいたし、特に敵娼を指名しない客に女将が空いている遊女をつけることもある。仕事に直接関わらないことは大抵昼間自室に呼んで話をするのが女将の癖だったから、客に違いなかった。
 待合室から出ると、女将が機嫌良く頷いた。その奥に立つ男には、見覚えがある。リィザは一瞬翳りそうになった面輪を、会釈のようにして伏せることで誤魔化した。
「指名だよ、リーナ。旦那様をご案内おし」
 女将の声に頷いて、リィザはディーに淡く微笑んでみせる。笑いかけることが出来る程度には、馴染んでいる相手だった。
 ディーはいつもと同じくそれに合わせるように笑う。その笑みには確かに情のようなものが滲んでいる。彼が外で何をしているのか薄々知っていても、リィザの元を訪れるときには血生臭い気配は消すように努めてくれるのはありがたかった。リィザの臆病さも物怖じする性格も、半年も経てば分かってくるのだろう。
 部屋へ入るとディーは服の前ボタンを片手で器用に外した。リィザは彼の背後に回り、上半身を覆っていたシャツを肩から剥がすようにして脱がしてやる。よくついた筋肉があがる右肩に比して、左側にはそれはない。人の体を造り上げる血肉の鎧の替わりに、金属の留め金がにぶく光を反射している。
 機械人という名称は後になってから聞いたが、失った身体の一部をこうして補うことは時折あった。金額によって多少は機能にも差があるが、彼の腕は安くはない部類に入る。その証拠に、簡単な動作なら胸筋と複合させた疑似神経の働きで単独で動かすことが出来た。
 が、腕はそれなりに重く、動かすのにも労力が要るために、神経を休ませるべき妓女の部屋では大抵外してしまうのだとディーは最初の晩に言った。
 今日もその言葉通り、腕を外しにかかっている。手伝うのも初めてではなかったから、リィザはいつものように彼の右手の届きにくい左肩の後の留め金をあげて腕を身体から分離した。
 ディーは礼のつもりなのだろう、リィザの頬を軽く撫でると寝台の脇の椅子に腰を下ろした。食事は、と聞かれてリィザは済みました、と答えた。それは嘘だったが、先の客が帰った後の気の重さなどで食べる気にはならなかった。
「……お前さんは会うたびに痩せていく気がするな? 大丈夫か」
 彼には気遣われてばかりだとリィザは苦く微笑み、はい、と頷いた。
「水揚げの頃とあまり体重は変わらないんです。ディー様が心配下さるから、そんな風に見えてしまうんでしょうか」
 リィザはディーに気を遣わせたくなかった。本来気遣いをするのは自分の役割であるはずなのに、逆のことをされると気恥ずかしい。
 但し痩せているというのは本当だ。体重が変わらないというのも嘘ではないが、背が伸びていて、相対的には痩せている。
 ディーは体格のことにはそれ以上触れなかった。リィザが痩せ気味なことを自分で気に病んでいるのを察しているのだろう。こんなところでこの男の優しさを知るにつけて、彼に対して何故もっと心が開いていかないのか、自分で不思議になる。
 それは数少ない常連客といえる男達全てに共通することでもあった。リィザの特性なのか、彼女を気に入って時折通ってくる男達は優しい。多分それはリィザ自身が怯えなくていい空気を持っている相手であるからだろう。相手を怖がっているときの自分の弱々しい怯えに怒りを覚えたり白けて苛立ったりするような男は、まず二度と来ない。
 食事を終えたディーと雑談などに興じていると、遠く鐘が鳴ったのが聞こえた。これは日の最後の鐘だ。雪崩のように遠く幾重にも拍っているのがわかる。
 ディーが天窓を見上げ、時間だな、と呟いた。リィザは一瞬ぴくりと肩が痙攣したのを感じ、それには気付かなかったように部屋の灯りを落とした。この最後の一点鐘を合図に妓楼の娘達は闇に潜り込む。妓楼の扉も閉められて、これ以後は翌日の開棚までは客は中にはいることは出来ないことになっていた。周辺の妓楼も規定によって同じ行動をしつけている。だから、夜半の一点鐘の後は、赤い格子の町であることが信じられないほど青く澄んだ夜が天窓から差し込むのだった。
 寝台の脇の小卓に残した油皿の炎だけが揺らめいている。ディーが黙ったまま自分を引き寄せて、丁寧に髪をほどいていく。彼の指が自分のこめかみ辺りから髪の中へ入る。ゆっくりと頭部の輪郭をなぞる。リィザは目を閉じて、じっと息を潜める。自分が情けなくて、ただ彼に申し訳が無くて、涙がこぼれそうになる。
 彼のことを嫌ったことなど一度もない。ディーは出会った頃から彼女に辛く当たったこともなかったし、声を荒げたことさえない。
 だのに、心安いはずなのに、身体のほうはいつものような苦痛の予感に強張ってどうにもならない。彼に申し訳ない、悪いという罪悪感はあるのに、それは少しも胸の中からこぼれてこなかった。
 片腕の欠損の為に、ディーはいくつかの要求をいつも囁く。それに頷いて従って、やがて彼の身体が自分に被さると、リィザは現実的なものと罪のものと、両方の重みに耐えかねるように吐息になる。それが何かの加減か、男が快さのものだと思いこんで一言二言、呟く言葉にリィザは答えない。ただ、没頭するふりをする。
 自分は勤勉な女優のようだと思うのはこんな時だ。けれど、勤勉であればあるほど惨めな気持ちになる。一体これはどうしたら解消するのか、それとも一生自分について回るのか。一生この妓楼の中にいるという仮定がちらっと脳裏をかすめ、リィザはその想像の荒涼さに呻く。
「……どうした」
 かすれた声が自分のごく近くに聞こえる。いいえ、と首を振ってリィザは彼の首に腕を絡めて引き寄せた。彼の唇が自分の首筋を確かめるようになぞっている。
 ディーの視線が自分のひどく醒めた表情に向かないようにして、リィザは天井の方向を見あげた。
 天窓に映る月。その青ざめた色をじっと見つめ、リィザは待っている。
 ──朝を。解放される時間を。しばらくは放心していられる、その瞬間を。いつか彼を愛せるだろうかという問いには答えがない。けれど待ち続けている。誰もがいうように、愛し、愛される、その相手を。全ての苦しいことから解放されるはずの、その愛を。
 それがこの男になるかどうかは分からない。もしくは彼の腕の中でそんなことばかり考えていることが答えかも知れなかった。
 でも。リィザは溜息をつきそうになって、慌ててそれを飲み込んだ。
 いつかという魔法があるのだと、自分に言い聞かせていればそれを遠い明日には信じることが出来るだろうか。いつか誰かと巡り逢うだろうか。いつか誰かを愛するだろうか。自分に欠けているのは恐らくそれだ。
 全てを怖がって閉じこもってしまいそうになる心、追憶と現実の間でばらけて砕けてしまいそうな自分、それをまとめてあげてくれるたった一つの力。
 その魔法を、いつか。
 相手がディーであるならそれも良かったが、今はこうして彼の肩越しに月を見上げる勤勉で怠慢な娼婦だ。リィザは目をすがめた。天窓の月がやわく歪んだ。




    探してよ
    波間にさすらう魂と 私の欠片をいつの日にか