第3章 かもめたちはうたう 17

 どこかから、安い歌が聞こえる。流行歌に乗せた薄っぺらい愛を唇の端で嘲笑しながらクインは赤い迷路の中を歩いていた。今日の客は彼の気に入らなかった。初めて買うはずなのにやけに尊大で、それを思い切り顔に出したクインを薄汚いと罵ったのだ。じゃあそれを買うあんたは何なんだよとクインはつい笑いだし、かっとなった客に平手で打たれ、腹を立ててそのまま部屋を出てきたのだ。
 明日になればきっとオルヴィから一くさりあるだろう。この仕事は彼女がとってきたものだから、嫌になったら放り出しても構わないとクインは決めてかかっている。チアロの仕入れてきた話であったなら多少は忍耐することも、オルヴィへの当てつけのためであれば我慢するという選択はなかった。
 一晩くらい投げても十分に余裕がある程度には、忙しい。
 赤い格子棚の中をぼんやり彷徨いながら、クインは苛々と爪を噛む。今日は素の少年の姿であった。身長が最近日ごとに伸びていくようで、女装だと却って目立つようになりつつある。背の高さが既に少女の範疇には修まりが悪くなってきていた。
 だから女装と通常の服装とを最近は取り混ぜている。
 どちらにしても目立つことには変わりなかったが、少年の格好をしているときには眼鏡をかけているのが普通だ。度は入っていないが、多少印象が変わる。髪は魔導で黒く見せ、体温を安定させる為の保定の魔導を施した指輪をはめて、あとは少しだけ化粧で面差しの印象をいじるのだ。
 妓楼の硝子に映る自分の顔がひどく険立っているのを見つけ、クインは不機嫌にそこから顔を逸らした。この夏が終われば15になる。母の罪という言葉が重く胸に沈んでいて、そこへ歩き続けていく一日一日が息苦しく、気鬱だった。
 二度と会いに行かないわけにもゆかないし、真実の中核となっている部分を知りたい気持ちは確かにある。
 けれどそれに母と自分の間の血縁の否定や贖罪を含まなくてはならないとなると、理性などとは全く別の部分から、聞きたくない知りたくないと叫ぶ声がして、クインはそれを無視することが出来ないでいる。
 ──苛々している。
 それは確かだった。女の客を取ってみるかという提案に飛びついたのはいいが、これもまったくチアロが最初に言ったとおり、気休めにしかならない。むしろ適当に調子を合わせながら天井の模様で謎解きをしている男のほうが何も考えないでいられる分ましかもしれなかった……若い女がいないのも確かではあったけれど。
 クインは吐息を漏らして髪をぐしゃぐしゃとかき回した。この晩はまるきり空いてしまったが、まっすぐアパートに戻る気にはならない。以前同じようなことがあって早戻りしたときに、自分のいないがらんとした建物で微かな声を聞いてしまったのだ。
 彼の住み着いている部屋は最上階だが、地下水路から抜けて上へ向かう階段の途中でそれは聞こえた。不審に思ってそっと声のする部屋に近づきながら、クインは仕方ない笑みになるのを押さえられなかった。
 彼の住処とは階層が違うその部屋にいたのは一組の男女であるようだった。乱雑に放り出されたままの家具が視界をでたらめに遮っていて姿は見えないが、声の具合からして間違いないと見当がつく。
 無人だと思って紛れ込んできたのだ。
 ここは俺の城だから出て行けというつもりでクインが口を開こうとしたとき、男のほうが半身を起こした。右肩にはっきりと分かる古い傷が見えた。
 その傷をクインは知っていた。数度とはいえ寝たことのある男にうたれた刻印を、忘れるはずはなかった。苦い感情が口の中に湧いた。
 何かを言ってやろうとしたとき、女の声が今頃、と呟くのが聞こえた。
(──今頃、あの子も、同じことしてる……)
 その声もクインは知っていた。チアロと共に彼の身辺にいて、仕事を世話し生活の細かな面倒を見る役割を与えられている女。
 クインはきつく奥歯をかみ合わせた。怒濤のように巻き起こった眩暈は、恐らく怒りのためであった。
(奴のことは今は関係ないだろう)
 ライアンの声が低く答えた。その声には怒りのようなものが籠もっていて、オルヴィは小さく喉で笑ったようだった。クインは足音をたてないようにして、そっとそこを離れた。
 クインの仕事は通常朝までかかる。拘束時間が翌朝の一番鐘までであることで、大抵の客は彼を一瞬でも長く手元に置きたがったのだ。二人とも自分が朝まで戻ってこないと思っていたのだろう。
 自分の部屋で絡み合っていたなら絶対に赦せなかっただろうとクインは思う。
 そうでなくても、オルヴィのことは最前から気に入らなかった。ライアンと似た寡黙な質の女だったが、彼女が自分に最初から好意の欠片もいていなかったことは肌に感じている。
 それはこのせいだったのだろうかとぼんやり思い、階下から時折聞こえる彼女の声から逃れるように毛布をかぶって目を閉じなくてはならなかった。
 逃げたのだという自嘲と、ライアンへの苦い怒りと、オルヴィへの嫌悪が混じり合った末にクインはこのところひどく苛立っている。だが、今日も早く戻れば同じ光景が広がっているような気がして、居たたまれない。
 チアロに愚痴のように訴えると友人は決まり悪そうな顔をして、いつか話さなくちゃいけないとは思ってたけど、と言った。チアロも知っていたのだ。
(女がチェインで暮らすのは大変なんだよ。チェインなんて男ばっかりだから下手なことすりゃ便所にされて終わりだし、そんなことなら町に立ってりゃ金になるからな。だからライアンの周りにいることを選んだんだろう。彼女、字が読めて計算が出来るし、無口だからライアンには合うみたいだ)
 ライアンと寝たのはオルヴィなりの保険だろうと付け加え、チアロは気にするなとクインに笑った。
 ライアンがあの女を寄越した理由の一端はそれで分かった。オルヴィはライアンの愛人の一人で、それをつてにチェインでのし上がって行こうとしている種類なのだ。
 そしてライアンもそれを承知しているであろう。自分の周りにいることがどんな羨望と利益を生むかを知らないわけではあるまい。
 チアロから話が行っているのかいないのか、ライアンもオルヴィもそれ以後態度を変えることはなかった。
 けれどクインにも見知ったことがある。
 少し前からライアンの左の耳朶に碧玉が留められているが、オルヴィの右耳にもそれがある。石の形や大きさは殆ど同じだが、彼女のほうが紅玉なのは揃えたのだろうか。
 オルヴィは時折それを彼に見せつけるためなのか、わざわざ右の耳に髪をかけるような仕草をする。
 嫌な女だ、とクインは歩きながら顔をしかめる。あの女と気が合うなどという幻想は抱いたことがないが、ライアンを挟んであちらが寵を誇るのは、自尊の意地にかけても認めることが出来ない。
 今夜の客があの女の持ってきた話で良かったとクインは当てつけに思い、そして長い溜息になった。今戻れば同じ事が行われているかもしれず、それを関知した瞬間に今度こそ声を上げて彼らをなじれば敗北感だけが残るのは分かっている。面白くなかった。
 不機嫌に俯いたままクインはタリアの赤い格子の中を回遊している。男も女も彼は客として巡りあうままに知ったが、女であっても自分を思うようにしようとする相手には少しの関心も持てなかった。同じ女でも、自分が全ての主導権を握ることが出来れば違うかも知れない。恋人を作るという選択肢も本当はあるのだろうが、誰かと巡り逢う機会など無いに等しかった。
 一番身近にいる女といえば実はオルヴィなのであるが、それを思う度に冗談じゃないという白けた気持ちになり、最後は失笑がこぼれてくるのだった。
 けれど今、自分の巣であるはずのアパートには戻りたくない。帰る場所を一時見失い、ふらふらと華やかな迷路の中をうろついている自分が可笑しくて、クインは唇を歪めて鼻を鳴らした。
 母親からの乖離、心預ける相手の不在。その二つが入り混じりあい、手を取り合って踊りながら、胸の内でただ身の切るような寂しさを訴えている。
 お前を心から愛してくれる人、お前が本当に愛する人に出会えればきっと寂しさも消えると母は言った。それは真実だろうとクインも思う。母の語る言葉は彼にとって、いつでも煌めくように美しい真実であった。
 けれど、現実は理想のようにはいかない。その理想を求めて胸の痛みに殉じるのか、手に入らないものだと諦めてこれからも同じように日々を流していくのか、その選択肢は自分の前に並べてみせるだけで辛かった。
 どこからか歌が聞こえてくる。この春先から時折流れる、お仕着せのような愛の歌だ。
『涙を持たない海鳥たちの 悲鳴は海へ墜ちるもの──』
 題名は知らない。かもめがどうとか、海鳥がなんとか、そんな淋しげな歌だった気がする。まともに聞いたことのない歌の俗っぽさにクインは肩をすくめた。こんな物欲しげな歌を考え出す奴はよっぽど強欲に違いない。
 そんなことを思いながらクインは歌の出所を探すようにぐるりと周囲を見回した。
 タリアの大通りからは少し入ったこの界隈も、並ぶ店棚は妓楼が圧倒的に多い。顔見世のための格子部屋から手招いている、白く優しい腕たちと笑い交わす女たち。クインがちらりと視線を向けてやると、彼の尋常でない美貌にあがる歓声。
 今夜はどこかへあがろうかとふとクインは思いつき、自分の耳に嵌めた大ぶりの真珠を撫でた。現金はあいにく殆ど持ち合わせていないのだが、以前客からもらったこの耳飾りを換金すれば足りるはずだ。大抵出入りの鑑定屋が妓楼にはいるから、揚げ代とやらを差し引いた釣り銭を、帰る前に貰えば済む。
 ……妓楼などに足を入れるのは実は初めてなのだが、大体の仕組みはチアロとの雑談で知っている。多分相手のほうでどうにかしてくれるはずだし、女そのものは知らないわけではなかった。
 ライアンへの不愉快な怒りも、オルヴィへの苛立たしさも、全て忘れてどこかで明るく華やかに発散するというのは悪い考えには思えない。ただの思いつきにしては欠損はなさそうで、クインはやや考えた末に娼家にかかる絵看板を見つめた。屋号は駒鳥と桜桃だと聞いている。確かライアンが通いつめ、チアロが必死で気を惹こうとしている女がこの近辺の妓楼にいたはずであった。
 ライアンがひたすらに構いあげている女、チアロが夢中になる女というのは一体どんな女なのだろう。オルヴィなどはライアンの愛人に過ぎない───とクインは底意地悪く笑う──あの嫌気の差すほど情感の薄い男が愛しているという女。チアロは美人だと繰り返していたが、この友人の場合は惚れた欲目の無意識の嘘だったとしても不思議ではなかった。
 クインはゆっくりと来た道を戻り始めた。この先は組合に入っている妓楼が少ない、次第に全ての質が落ちていく坂道でしかない。気付かずに通り過ぎたのだろう。歩いていると歌が近くなる。音源はどうやら遠くない場所にあるようだ。
『泣けずに沈んだ宿定は 閉じて籠もった貝のよう──』
 悲しげな声が歌っている。それを聞くともなく耳に入れながら、クインはことさらゆっくり歩いた。
 自分の部屋に戻れないという奇妙な現象が腹立たしくもあり、けれどたまさか思いついた思案が存外面当てには良さそうだという意地の悪い面白みもある。ライアンへの当て付けとするならこれもよさそうだった。
 妓楼はそう時間をかけずに見つけることが出来た。こぢんまりというには大きいが、タリアの大通りの店に比べれば遙かに気安そうな風情だ。屋号である駒鳥と桜桃の浮き彫りになった看板がぶらさがっている。ライアンの女だという遊女の源氏名は聞いていないが、聞けばなんとかなるだろう。
 クインはそろそろと妓楼へ近寄っていく。大体の話は聞いているものの、最初に足を入れるには多少の踏ん切りがいった。妓楼の地階は大抵食堂と顔見世のための待合室になっていて、両方が塗り格子の向こう側に見て取れるようになっている。赤い衣装を着ているのが遊女、白が見習いで黒がただの下働き、だったはずだ。
 一体どれがライアンの執心するという女なのか、クインは格子の向こう側をほんの少しの間、眺めやる。女達はそれぞれに美しく装っており、待合や食堂で華やかに笑ったり客であろう男と何かを話したりしているが、どれがそうなのかはやはり分かりそうになかった。
 あまりこれは考えることではなかった。思考を重ねて理解できることと、賽を投げてみるまで分からないことがある。クインは自分の性癖を緩く笑いながら、妓楼の格子からこぼれ落ちてくる明るい光のほうへ歩いていった。
 ───と、その耳に微かに異音が聞こえた。硝子が砕ける音はどれほど小さくてもはっと首をすくめたくなるような痛さであった。
「──ごめんなさい……ごめんなさい……」
 一瞬の空白の後、壊れてしまったようにそれだけを繰り返す細い声がする。それに被るのは客であろう男の怒鳴り声、そして怯えたように弱々しくも同じ事をひたすら呟く声、だがそれは何かに窒息するように聞こえなくなる。
 クインは足を止めて格子の向こう側へ視線をやった。食堂が見渡せる格子に男の大きな手が遊女の喉を掴んで身体ごと格子に押しつけ、何かを早口で言っている。
 他の遊女達が悲鳴のような声を上げて客に縋り付く。男は何かを低く言って喉輪にしていた手を離し、おもむろに華奢な体つきの遊女を平手で思い切り打ち据えた。その音が自分の鼓膜の近くに炸裂した記憶が一瞬戻り、クインは顔を引きつらせた。
 殆どたたきつけられたように遊女が食堂の格子に背を打ち、崩れ落ちた。長く豊かな黒髪に挿されていた百合の造花が片方ぽろりと格子の外側へ落ちて、風に送られ通りのほうへ転がる。
 クインは足をとめて顛末を見やった。
 客の男はどうやら女将なのだろう中年の女に食ってかかっているが、女将のほうはそれを適当に慰撫するつもりのようだ。食堂の奥の方に小間使いの少女が先ほどからせっせと上等の酒や食事を用意している。遊女達もこぞって男の機嫌を取り始め、とってつけたような明るいさざめきが空気を支配しようとする奔流の中で、黒髪の遊女は誰にも構われずに俯いたまま、打たれた頬を押さえた。
 細い肩が震えているのが見える。客に打たれることも暴力をふるわれることも、クインは自分の身に甦るようでぞっと背を冷やした。直接の肌の痛みよりも、見えない傷として胸に突き刺される痛みのほうがよほど辛いだろう。
 その遊女がひどく哀れに思われてきてクインは足早に造花に近寄り、拾い上げた。大して良い品でないのはすぐわかったが、遊女は格子の外へ勝手に出ることは出来ない。小間使いの少女がこの花に気付くまでには散々踏みにじられてしまうだろうという予測もなぜだかひどく哀しかったのだ。
 返してやろうと近寄っていくと、彼女がまだ少女と呼べる年齢であることにクインは気付いた。恐らく自分と対して年齢は違わないはずだ。肌の白さ、そこに被さる黒髪の見事な対比、けれど打たれた衝撃のせいなのか、まだごめんなさいと呟きながら震えている。頬を押さえる手では隠しきれないほど大きな赤い痕跡が、くっきりとそこに残っていた。
 クインはそれを見ないようにしながら格子に手をかけ、なあ、と荒ぶる男の気を引かないように小声で言った。
「──なあ、これ、あんたの花だろ……」
 掌に造花を乗せ、クインは格子の隙間から差し入れるようにしてやる。少女が頬を押さえたまま、ゆっくりと彼を見上げた。
 その瞬間に、クインの目の前に広がったのは黒く輝く深淵のような宇宙だった。一瞬遅れてそれが少女の大きな黒い瞳に潤んでいた涙の輝きだと気付く──
 気付く、時には既に、クインは息苦しさを覚えて喘ぐように喉を鳴らしていた。
 ふっと世界の音がまるで消えてしまったような刹那の時間に、転がり込んでくるのは歌だ。
 誰かが、どこかで歌っている。
『探してよ 波間にさすらう魂と、私の欠片をいつの日にか── 』
 それだけが聞こえる。
 まるで何かの暗示のように。
 今自分の前にあるのは一体何だろう。頭の中が次第に白くぼやけて霞み、その代わりに真闇色に美しい夜空とよく似たものが広がっていく。
 何かの壮大な光景に似ている。
 分からない。これは何だろう……
 魂を抜き取られたように少女の目を見つめていたクインの耳に、微かな、彼と同じほど呆然とした吐息が聞こえた。
 それはやはり震えていたが、先ほどまでの暗い彩りでは既になかった。
 少女の目が限界までに大きく見開かれ、その中の光がひたと彼を見据えて離さない。
『愛してよ お前の全てをなげうって……』
 かすれた歌声以外には、互いの胸衝かれるような呼吸しか聞こえない。
『愛してよ 流れる血潮 その最後の一滴までに刻んでよ──』
 クインの手から知らず、百合の造花が転がり落ちた。
 星が瞬く束の間、あるいは永遠のような悠久の時間。二人は惹かれ合うように、求め合うように、運命を互いの中に探すように、目線さえ離せずただじっと、見つめあっていた。

《第3章 かもめたちはうたう 了》

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