第3章 かもめたちはうたう 2

 日が落ちると一斉に回廊に揺らめく炎が灯った。リュース皇子は香料油の匂いはどうしても苦手だったが、立場上好みを言うべきではないという習慣のためにそれを口に出したことはない。
 だが、一瞬眉をひそめたのを父は素早く見たようだった。
「――深く吸い込まないで、回廊の真ん中を歩きなさい」
 皇子は微笑んで自分の父を仰ぎ見る。
 すぐ下の異母弟カルア皇子は父に生き写しだと今更ながらに思う。しっかりした健康な体つきと精悍を感じる面差しは、あの明るい異母弟にそっくりだ。
 皇子の視線に父帝はゆっくり微笑んだ。明るい夜空の色をした瞳の奥に、自分に対する情愛と慈しみを簡単に見つけることが出来て、皇子は胸の底が静かになるような安堵を感じた。
 両親からの情という意味において、皇子は父からより多くのものを受け取っている。
 父の言葉に皇子は頷き、父が先へ行くようにと半歩引いて道を譲った。皇子の訳知りの仕草に父は苦笑し、彼の肩を抱いて共に後宮への道を戻り始めた。
「……あまり根を詰めるんじゃないぞ、リュース。お前は何でも徹底的にやろうとしすぎる」
 父の言葉に皇子はええ、と軽い相づちを打った。父上が何でも適当になさりすぎるのです、という返答は心の中にしまい込む。
 父は鷹揚な登極者であり、実に大らかに執政の長として過ごしているように皇子には見える。気概や意欲というものをさほど感じたことがないが、それが現代の皇帝に求められている資質なのだろう。
 既に時代は移り変わり、皇帝が権威と権力の掌握者であった時間は去った。今はその二つの象徴という意味が正しい。
だが、皇子はそれには僅かな疑問を覚えている。政治であれ軍事であれ、まれにそのどちらかの見識の深い皇帝は存在した。彼らはそれ故に失脚し帝位を去らねばならなかった。定まった権力の機構に口を入れる支配者など、貴族達は欲しくないのだ。
 リュースはそれには疑問と不服を覚える。皇帝はこの国の最高権力者では既にないが、敬意を払われても不思議ではないはずだ。なのに頂点にいるその人が国政というものに真剣に関わることを望んでいる者など、誰もいない。
 父は周囲の期待に実に良く添った皇帝であるかもしれなかった。それを面と向かって非難は出来ないのだが、リュースは何か釈然としない。
「お前の考えていることは分かるよ、リュース」
 父が優しく言った。リュースは今日はほぼ一日父や廷臣達と共に在った。殆ど父が発言をしないことにも驚いたし、臣下もそれに慣れているように全く勝手に議事を進めていくやり方にも仰天した。
 それが顔に出ていたのだろうかと皇子は思い、曖昧に微笑みながら父上、と言った。
「父上はご自分で国政をご指導なさろうと思ったことはないのですか? 彼らの議論と来たら同じ場所を行ったり来たりで……」
「歯痒いかね?」
 父の穏やかな言葉に性急さを諭されているようで、リュースはやや赤面して俯いた。父帝は喉を鳴らすようにして笑った。
「お前にはそうかもしれんな。だが、実際登極してみれば違うものだと分かろう。それに議論はされないよりも尽くされるほうがより正しいと、私は信じているからね」
 それは立憲君主制という機構の心臓でもあった。
 リュースは曖昧に頷いて、ゆっくり歩を進めた。
 この国では昔から官僚と政治の絡み合う機構が複雑に、だがしっかりと構築されている。それは初代の皇帝があまりに早く逝去したせいであろう。即位時の2世皇帝は僅かに6才、国家とその周辺の廷臣達が生き残っていくためにはそれしかなかったのだ。
 皇帝は富と名誉と権力の象徴とし、実際の為政を官僚が担当し、官僚を法務で縛るというやり方をさまざまな規制と法令でほぼ完全な形で組み上げた太祖皇帝の遺臣ケイ・ルーシェンの呼吸が未だに法令の底辺には潜んでいる。
「私たちは祖先から受け継いできた遺産をまた次世代に伝えていくことを考えなくてはいけないのだよ、リュース。分かるね?」
 穏やかに諭されて、皇子は頷く。それはそれで正しかろう。
 それに父は立太子されて皇帝になったわけではない。16年前に当時の皇帝であった同母兄が結婚問題のもつれから失踪し後継者がいなかったため、暫定の継承順が一位であった父が急遽即位することになったのだ。
 父にとっては予期せぬ即位であったはずだし、帝位を望んでいたかどうかはすこぶる怪しい。情熱というものを持って望めと父に号令するのは酷というものかも知れなかった。
 それを理解していても、皇子は自分の心の奥底に父の言葉への違和感があることを否めない。何がどう、とはっきり指摘することは出来ないにしても、納得しているというわけには行かなかった。
 皇子は固く唇を結んだ。
 資質や皇帝の意欲の増減で簡単に翻弄される国政というのも良くないが、いずれ自分が帝位につくことを思うと暗澹とした気持ちになる。現在まで彼が学び築いてきた知識も理論も全く役に立たないということなのだ。
 努力すれば結果は出せる。それを厭うたことはない。
だが、結果を出すことを求められていない時はどうすればいいのか、皇子は更に暗い気分になった。
 無理矢理それを貫こうとするならば、それを試みた歴代の皇帝達と同じように臣下を相手に泥沼のような権力闘争に明け暮れなくてはならないだろう。
 勝つか負けるかも分からない争いに身を投じなくてはならないことを思うと、傀儡でも静謐な一生を送りたいと願った皇帝たちの心情も理解できなくはなかった。
 それは父の願いであるのかも知れなかった。父帝は実権を掌握することを望んでいない。父の望みは恐らく、家族に囲まれて温かに一生を終えることであるのだろう。他人の価値観を理解し納得するには、リュース皇子は未だに若いという年齢であった。
 彼の表情を見て取ったらしい父帝は鷹揚に微笑んだ。
 父の大きな手が自分の額の髪を払いのけ、愛しく輪郭に触れてくる。その手の温もりのように愛されている実感はあった。細められた目の奥にも、優しい声音の静かさにも、それは暗闇の蝋燭のように灯っている。
「私には私のやり方もあるし、お前にもそれがあるだろう。しばらくは勉強がてら私の側にいるといい。それにまだお前になると決まったわけではないからね」
 立太子の条件に実は出生順はさほど関係がない。
 皇室の権威の失墜と共に有力な皇子の暗殺や失踪が相次いだ時代を経たために、年長の皇子3~4名の資質が大まか明らかになった時点での合議によって継承権順を決定するのがこの500年ほどの慣例である。
 現在一番近いと目されているのはリュース皇子でありそれを自分で自負してもいるが、異母弟カルアにもさほど欠損はなく、その下の異母弟エセルは自分と似た思考型のおとなしい人格だ。末弟ラインは勉学より剣術の才能が飛び抜けて光っているが、実は座学とて悪くなかった。
 誰が立太子されてもおかしいわけでない。カルア・エセルの両異母弟にあまり意欲がなく実弟ラインに至っては尻込みするような素振りがあることを考えるに自分だろうという未来観があるだけのことだ。
「……でも、父上。私は皇太子になりたいのです」
 皇子は低く、父にだけ聞こえるようにそっと呟いた。
 父は頷き、不意に立ち止まって彼の肩を抱き、額に軽くキスをした。
「――私もイリーナも、お前を愛しているよ。私たちの大切な皇子」
 囁きが耳元でした。リュースは微笑み、はい、と明るい声を出して頷いた。
 母イリーナ妃の住む小宮は夏薔薇庭園の中にある。丁度季節は夏をゆっくりと過ぎていく頃で、まだ咲き残っている色とりどりの薔薇が見事に美しい。侍女が摘んでいた花を受け取って、皇子は父と共に母の元へと歩いた。
 窓辺に母の姿が見える。皇子の視線が向いたのを気付いたのか、軽く手を振ってくれる仕草に皇子はほっと息を付いた。
 最近どうにも母が余所余所しいと感じていたから、皇子にとっては何気ないことでも宝石のような事実に変わる。
 最近という言葉が一体どの辺りからを指すのか、皇子は始まりの地点をはっきりと示すことは出来ないが、それが暫く続いていることは確かだった。
 だから尚更、立太子への道を選ぼうと決めているのは意固地なのだろう。それでも何か一つでも気を惹くことが出来て喜んでくれるなら――と、皇子は考え続けている。
 母は窓辺でレース編みの途中だった。弟のライン皇子はいない。日が完全に落ちるまでは剣の稽古であるのだろう。
 ラインの不在に皇子はあからさまに安堵し、安堵したことに気付いて自己嫌悪で頬を厳しくした。弟を決して嫌いではない。明るい上に他人をよく気遣う優しさを持っており、彼にも良く懐いている。それは一種彼の理想の人格であった。
 皇子が呼吸を整えている隙間に、両親は軽い挨拶のキスを頬に交わしていた。
 父帝と母妃の間には烈しく燃えるような情熱や甘い空気はないが、年月と共に培われてきたらしい信頼がある。それも愛情の一種の形であるだろう。父の愛というなら明らかにもう一人の皇妃ユーデリカに注がれているが、母はそれにはさほど頓着した様子を見せなかった。
 来月の誕生日で15才になるリュースと3ヶ月ほど前に13になったカルアの両皇子に皇太子候補としての諸処の知識や学問を教える特設の学問所が後宮内に開く。
 それがどんな立場に基づき土台に根ざしているのかを知らしめるために今日は父の側に一日おいて貰っていたが、候補となるのは彼一人ではない。
 アルカナ大公系の母を持つ自分に対してアイリュス大公系の母から生まれた異母弟のカルア皇子が共に席に着くことになる。
 父が異母弟を現在ユーデリカ妃が暮らすロリス湖畔の離宮からこの後宮へ連れてくることに際し、母親替わりに面倒を見てやるよう母妃に頼んでいるのはその為だ。
「あちらは大分やんちゃだが」
 父の声は苦笑している。カルアは良く言うなら闊達、悪く言うなら落ち着きがない。半刻もじっとしているのが苦手だが、体を動かすことならば大概好きだった。彼とその実弟エセルが遊びに来ると連れ回されて疲労で熱を出すのがリュースの現状だ。
「ええ、ラインも遊び相手が来ると喜びますし」
 母の返答に父が刹那、目配せした。それに籠もる厳しさが何であるのか分からずにリュースは持ってきた花を渡すための侍女を呼ぼうと硝子の呼び鈴を取った。
 ちりちりなる甲高い音の隙間から、母の声がするりと抜けて届いた。
「――勿論、リュースにだっていいことです。……言葉のあやですわ」
 自分の耳が一瞬引きつったように動いた気がした。
 父の一瞬の所作の意味がやっと彼にも分かったのだ。母の言葉から綺麗に自分の存在だけが抜き取られていたことに。
 皇子は僅かに身を固くしかけ、それをどうにか押しとどめた。自分が気付いたことを、両親に悟られたくない。二人ともが今皇子に気を遣っていることを分かっているから尚更だった。
 現れた侍女に皇子は夏薔薇を手渡す。先ほどの両親の会話など聞いていなかったように微笑んで、今年の薔薇は白が多いですねと他愛ないことを言った。
「母上のお名前を戴いた薔薇でしょう? 香りも強くて綺麗な品種です」
 母イリーナは淡く笑んで頷いた。彼と似た繊細な顔立ちが美しく曇りないことを注意深く観察し、皇子はようやく内心で安堵した。
 どんな形であれ、皇子は母に負担を強いることはしたくないのだった。