第3章 かもめたちはうたう 5

 海から上がってくる風が枝をゆらした。盛夏に茂った濃い緑がざわめくと、耳に遠く巻いているような潮騒と混ざって不思議な音になる。
 療養所の庭は患者達を宥めるために広く作られていて、木陰とその下のベンチが存在するが、広さ故に他の患者と出会うことが珍しいのも気楽で、最近は尋ねてくると庭に出ることが多い。
 ベンチに腰を落として自分の肩を枕に眠る母にちらりと目をやり、クインは自分のスカートの皺を丁寧に伸ばした。
 顔色は確かに良くなった。感染値も下がって療養所の中であれば条件付で歩くことが出来るようになった。頬の血色もいいし、薬も効いている。
 その薬のせいで母親は先ほどから目を覚ます気配がないが、それでもクインは良かった。
 月に一度顔を見にミシュアまで空間転移してくるが、その都度母は身体を回復させていくように見えた。この療養所に母を置いて最初の数ヶ月、自分が半信半疑であったことは否定しない。
 本当に薬は効くのだろうか。本当に母は助かるのだろうか。母には言えない身の切り売りをしてまで稼いだ金は有効に、自分を救う柔らかな腕の持ち主を現世につなぎ止めてくれるだろうか。
 そうでなかった時、自分はどうしたらいいのだろう。
 最後の疑問が浮かんだ時、クインは恐怖のあまりにそれから目を逸らした。そんなことは考えたくなかった。
 彼の中にある不安という根は雑草のように頑迷で、幾ら千切っても千切っても次々に芽を出しては彼を苛立たせる。
 けれど母の様子を見ている限り、薬は良く効いているようだった。療養所に連れ込んだ時は既に美しかった爪の色が奇妙に黒くなり、左の小指と薬指は麻痺が進行していた。
 指先の色はもう戻らない。黒死に罹患した患者がよくするように、母もまた、色の変わった指先を隠す為に手袋をしている。
 無造作に膝に置かれている手を、包み隠す布地の上からクインは撫でた。この手の熱さが彼をひたすらに導き、守り、愛してくれていたのだ。離れていても、それは変わらない。
 自分は母を愛しているし、母も自分を愛している。
 ――でも。クインはそっと溜息になった。
 離れている時間は彼と母の間に遮蔽幕のように薄く、何かをかけてしまった。手袋のごく薄い遮断でも決して素肌に触れられないように、自分とこの優しい人の間に、何かが横たわっている。
 離れて過ごしているせいなのか、それとも母に話せないことばかりが増えていくからなのか、クインはそれを考える度に自分の胸の中を烈しい苛立ちや屈折した怒りが荒れ回ることを自覚している。
 自分は何かのせいにしたいのだ。クインは他人からは表情が見えないように俯き、ぎゅっと唇を噛んだ。
 憎いというなら全てが憎い。
 何故俺ばかりがこんな怒りを抱えなくてはいけない。生まれた瞬間の星の配置のせいか、それとも宮廷内の事情ってやつか、どれにしたって俺を放り出してもう片方だけを大事に暖めている理不尽のつけを、払わせてやりたい。
 理不尽、理不尽、理不尽。呟く口調に潜む切羽詰まった苛立ち。
 クインは表情に出ないようにゆっくりと奥歯を噛み合わせた。
 納得なんか、出来るものか。俺が母さんに話せない秘密で苦しい時に、あっちは大切に絹の衣装にくるまれて微笑んでいればいいなんて、どうして決まったんだろう……
 そしてクインはいや、と自分を宥める為に首を振った。皇子は彼に優しくあろうとした。何かの共感をその瞳に見ることが出来た。ほんの一瞬の交感でも分かることもある。皇子は自分の正体を知らない。けれど、自分と話をしたいに違いない。ほんの僅かに目を見交わした瞬間も、曇りのない明るい、嬉しそうな笑顔だった。
 ――皇子になど、会いたくない。皇子の優しい笑みも素直な視線も、事情の内実を知らないなりに気遣うだろう態度も、全てが自分を鞭打つのが分かっている。それは自分の持ち物であったかも知れないのに、自分の可能性の影と現実を突きつけられれば痛い。
 痛いことは分かっているから自分がどうするかも知っている気がするのだ。
 会いたくない。自分を何の条件も見返りも期待せずに優しくしようとしてくれる人を、この手で、言葉で、蹂躙するようなことはしたくない。
 会いたくない。会えばきっと自分は彼を傷つける。そうしてしまいたくて仕方がないのだ。
 この煮えるような黒い気持ちを憎悪と呼ぶのかも知れない。自分の上を通り過ぎていく男たちの仕打ちなど、憎しむのにも値しない。あんなものはただの仕事だ。流れていく時間を、滑稽で奇妙な仕草を、目を閉じるなり天井を見上げるなりで潰していればその内に終わる。
 最初の頃に感じていた生理的な嫌悪感も、精神的な負荷感も、全ては消えた。その方が自分にとって楽であることを承知して享受しているはずなのに、何故それがこんなに気に食わないのだろう。
 そして思考は皇子の元へ戻る。自分と同じ血を持つ、彼の幸福について。
 死んでしまえばいい。ちらりと湧いたそんな言葉にクインは溜息をついた。皇子のことを思うたびに、憎悪だけが募った。間違っていることは知っていても。クインはじっと目に鮮やかに映える芝生を睨み、唇をひき結んだ。
 ――もうすぐ、15になる。
 母はあの約束を覚えているだろうか。黒猫の小さな友人を置き捨てていった夜、全てを話してくれると言ったその言葉を。
(15になったらね。そうしたら教えてあげる……)
 その声の暗さを記憶から呼び戻し、クインはぞっと目を閉じた。何かに押し潰されそうな、母の声音の重さと暗さがひたすら耳元でうなっている。掠れた蜂の羽音のように、それは彼の心に煩わしく寄ってくるのだ。
(お前の母親は私よ。私一人よ。お前は私の子よ、私の子なのよ……――)
 私の子。母親は私。愛してるわ。
 繰り返される呪文のような呟きに、自分はいつだって頷き、微笑み、母の温かな身体に抱きついて頬をすり寄せて受け入れてきた。それをしなくなったのは母が発症し、療養所へ入ってからだ。
 肌が直接触れなくなったからなのか、それとも自分が次第に沢山のことを知り得たせいなのか、同じ事を言われて以前と変わらず頷いていても、胸の奥では別のことを考えている――何故。
 何故自分だけが王宮を出されて市井にいるのか、母が自分を連れているのか。
 答えは既に輪郭を掴めるような位置にある気がして、クインはそこから顔を背けることしかできない。
 それは自分を今まで愛してくれたこの女の、暗い部分を知ることと同じ意味だからだ。
 マリア・エディアルという名前は恐らく虚偽だ。どういう事情であれ、母が皇子を皇城から連れ出すことが出来たとするならば、自分とリュース皇子の出生時に皇城に出入りできる立場にいたということに他ならないが、現在行方不明となっている貴族の名前の一覧にはなかった。
 貴族の俸禄も収支も、租税や諸権利が密接に国庫と絡む為に戸籍に付随する形で公開されている。帝都の台帳管理事務所へ行けば、誰でも閲覧が出来るのだ。
 母の実家と正体さえ、分からない。闇に紛れた根の部分に向かって進むことは出来るはずなのに、怖い。
 だって……
 浮かんできたまがまがしい言葉の毒気を抜いて鎮める為だけにクインは深く呼吸をした。
 皇城から皇子を一人連れ出してその後連れて歩いているとなるなら、それは誘拐というものではないのだろうか? その証拠に一度は迎えが来たのではないか?
 そしてそれを母は振りきって逃げた。クインを少女に擬態させ、母娘の記載の戸籍まで探し、殆どの財産をなげうって安全を買った。
 中央中等学院に入学することをあれほど恐れていたのは、貴族の子弟の多さや何よりも皇族の教育機関としての役割を知っていたからで、いずれ自分がリュース皇子と再会することも理解していたのではないだろうか。
 リュース皇子と自分が真向かえば、そこから何かが零れてしまうと思ったから?
 いずれにしろ、どの仮定も母をおとしめることしか出来ない。彼女が今まで注いでくれた愛情を疑っている訳ではないが、基盤となる血縁関係を自分で否定してしまっている今、それは疑問と過去の真実への欲求に変化するしかないのだ。
 けれど怖い。母親の過ちを自分で暴きたいと願うことなど、どれだけ恐ろしいだろう。
 彼女の悲しむ顔など見たくない。恐怖で強ばる顔も、絶望に黒く塗りつぶされた顔も、何もかも見たくない。
 それを見なくてはならないとするなら、真実など要らない。
 母、マリア・エディアルと名乗る女の為に。
 クインが再び長い溜息になると、肩がふっと軽くなった。知らない内に身体が揺れていたのだろうか、母が長いまつげをゆっくりとあげていくのが見えた。その奥に濡れ輝く黒い瞳が夜空のように美しい。
 こんなに綺麗な人だったろうかとクインは不意に恐ろしくなる。病のせいで暫く沈んでいた肌の色はやや戻ってはいるが、血の気の薄い頬などは透けるような白さだ。
 けれどそれは母の美しさを少しも損ねない。却って空恐ろしくなるような肌の美しさにいつの間にかすり替わっている。
 一瞬のぼんやりを癒すように母は笑い、そして彼の背後へ向かって会釈した。
 クインが振り返ると、同じ療養所の患者であろう老婦人が杖を手にゆっくり歩いてくるのが見えた。患者と分かるのは母と同じように手袋をしているからだ。
 クインは立ち上がって椅子を譲ろうとするが、老婦人は穏やかな笑みのままに首を振った。
「一度座ってしまうとね、立つのが辛いのよ。こんなお婆さんになったら分かるわ」
 機嫌良く、小さく笑う声に悪意がないことを知り、クインはほっと微笑む。それでも座ってしまうには居心地が悪かったから、何となく、立ちつくした。
 母と老婦人は患者同士の気安さでひそひそと世間話をしている。他愛のない話に適当に付き合って微笑んでいると、老婦人は彼を見て目を細めた。
「でも本当にいいわねえ、こんなふうに娘さんがしょっちゅう会いに来てくれるんですもの、お幸せだわ」
 母は微かにくすぐったそうな表情をし、そしてゆったり頷いた。この子は、と彼の腕をそっと撫でる仕草に籠もる熱は以前と全く変わらない。手袋の薄い遮蔽が悲しいと思うのは自分の勝手なのだろう。
「この子は私しか家族がいなくって……父親はとうに亡くなりましたし、私の方は天涯孤独の身ですから……」
 老婦人が頷き、彼に向かって淋しいわねと微笑んだ。それに曖昧に笑って首を振り、母さんがいますからとクインは呟いた。
 社交辞令のようにでも口にすると、それが真実胸に沁みた。
 この母が居たからこれまでを過ごしてこられた。逃亡の理由も身分の詐称や秘匿の理由も、どうでもいい。母を守ることが自分に出来る限りそうし続けたいと願い、望み、帝都へ戻ったのだから。
 今更後悔などはしない。母を離れて見捨てることなど出来はしない。けれど、自分がこの世に生きていることの真実を知りたい。だがそれは、母を糾弾し追いつめることと同じ意味ではないのだろうか――
 クインはふっと母達から視線を外すことで、それを忘れようとした。
 彼の翳った表情に気付いたのか、老婦人は散歩の途中だと笑って立ち去った。
 木漏れ日の強い日差しに彼女の背が遠くなるのを見つめていると、母が消え入りそうな声で低く呟いた。
「――カース……」
 思わずクインは振り返った。その名前は彼の耳を通って心臓を凍りつかせる効果をもった、魔術であった。
 様々な疑心と惑乱が脳裏を通り過ぎていくのを呆然と見送って、何かを言おうと唇を動かしたが、そこからは言葉は遂に出てこない。
一瞬の強い嵐に全てをさらわれて惚けているようだ。
 すうっと脳天から血がひいていくような感覚がした。それでやっとクインは我に返る。何を言っていいのか未だに分からないまま、母さん、とだけ呻いた。
 母は視線をまっすぐに彼に与え、そして眩しそうに手をかざした。それが木漏れ日の強い光を遮ったのか、それとも母の胸内にある何かを直視しない為の仕草であるのか、クインは知りたいとも思わなかった。
「……覚えていたのね……もう子供の時のことだから、忘れてしまったのだと思っていたけど」
 母の声は何かを懐かしがる甘さを含んでいる。彼を攫いに来た男が彼の目の前に現れてから、10年がやっと経過しようとしていた。この秋でクインは15才になるのだ。
 微笑む母の面差しの影の薄さに、クインははっきりと戦慄を覚えた。何かを悟ったような表情は、人の命の薄さの証明のような強さをかいま見せられてどんな言葉よりも烈しく怖ろしい。自分を見て遠く懐かしいものを見るような顔になったことが、母の命数の少なさを叫んでいるようで、クインは怯えの為に視線を外した。
「私はお前に沢山の話を――」
「母さん」
 クインは反射的に母の言葉を遮った。声音を使うことさえ忘れていたのに気付いたのは一瞬おいてからだ。
 彼は真実震えていた。一番冷たく寒いものは、いつも身の内側からやってくる。
 母の語る真実を聞きたいだろうか。自分は何を一体知りたいのだろう。
 中核は既に知っているとクインは考えていた。自分はまず間違いなくリュース皇子の双子の兄弟だと、考えるまでもない。あの皇子を見た瞬間にそれは知り得た気がする。生まれた年や時期もほぼ同じ、まるで鏡の中から抜けてきたようにうり二つの自分たち、そして何よりも、あの幼いばかりだった夜に彼を迎えに来た男が言った言葉。
(それが身分というものであるからです)
(母君が悲しまれます)
 彼は自分に膝をついた。母のことはマリアと呼べと言った。それが身分だからとも。
 あの言葉や仕草の一つ一つが自分の推測に強い信憑を持たせている。だから母の口から語られる真実が何であるのか、そちらの方が今となっては怖かった。
 自分は臆病なのだとクインは唇をゆっくり噛んだ。夏のむせるような熱気の中にあって、そこは酷く渇いていた。
「母さん、いいの。大丈夫。私は、今のままで、本当にいいの」
 どうにか作り出した少女の声音は、それまで自然に使いこなしていたものとさほど音調が変わらない。それに気付いてクインはようやく掴まることの出来る安堵を見つけた。
 呼吸を僅かに整えて、それまで凍えているように固まっていた頬を弛め微笑んだ。
「……母さんが私のことを愛子だと言ってくれるから、私はそれだけでいいから。ね、私、お父さんのことなんか興味がないの。今までだって助けてくれなかったもの。お父さんが生きているにしても死んでいても、今の私には関係ない」
 関係ない、と強く言いきると、母は眉を僅かに寄せた。悲しげというにはあまりに淡く、切ないと呼ぶにはひどく穏やかな顔であった。
「……そう、ね。そうかもしれない……でも、私は私の罪の話をお前には聞いて貰わなくてはいけないわ……」
「罪」
 クインは低く繰り返した。その禍言に一度は落ち着いた胸があやしく騒ぎ始める。心臓が次第に痛みを訴え始める。波打つように耳音で鼓動が響いた。
 母の罪、が一体何であるかはもう知っている気がした。その罪ゆえに追われ続け、流れ続けなくてはならなかった。追っ手の影を感じるたびに暗くひきつった頬の歪み、怯えたような瞳の色、切羽詰まった声音が彼を抱きしめてお前は私の子だと囁き続けた。
 そこまでして自分に刷り込みたかった幻影を未だに共有しているのだと母には永遠に信じていて欲しい。自分がどうやら真実に近いものを知りつつあることも、真相を知ろうと思えば手段がない訳ではないことも、教えたくない。
 何故そんなことをして、彼女を悲しませなくてはいけないのだろう。自分を守り、導いてくれた優しく白い手を、拒絶することなど出来ない。そんなことが出来るはずがない。
 母が何故自分を連れているのかは知らないが、注がれてきた愛はこの世で唯一信じるものを選べと言われれば指さすものだ。
 彼女の微笑みを信じている、愛している、他に何も信じられなくても愛せなくてもいい。それだけが重要で絶対で唯一なのだ――
 躍起になってそれを自分に刷り込もうとしていることに、クインは薄々気付きながらも目を逸らした。罪と言われて騒ぎ始める血潮が喉を上がってきそうで苦しい。
 クインは微かに喘ぐように呼吸をし、母さん、と震える声で言った。
「母さんの言うことが何であっても、私は母さんの味方だから。罪なんて言わないで。そんなこと、聞きたくない。私は知りたくない。母さんの罪なんて、あるはずがない……」
「――私は聖女ではないわ、カース……」
「私、そんな名前じゃない。そんな人知らない、お願い、母さん、俺は母さんとずっと一緒にいるだけで、いいんだ……」
 言葉の輪郭が不意に少年のものへ揺らいだのにクインは遅れて気付き、自分を落ち着かせる為に首を振った。
 その仕草に弾かれたように澄んだ、甲高い音がした。腰のベルトから通した銀の懐中時計が指定した時刻を告げている。
 クインは明らかに安堵し、時間だわ、と呟いた。魔導による空間移転は身体への負担が少なくはない。今夜の客のために、もう移転座標まで戻らなくてはいけないだろう。
「仕事、忙しいのね」
「ええ、そう……ね。でも慣れてきたから平気よ。母さんは心配しないで。また、ね」
 マリアはクインを見上げてゆったり頷いた。
 彼女に微笑み返してクインは血縁のない、自分を皇城から拉致したはずの女の頬に、そっと唇を押し当てようとした。母がごく自然に、しかしいつものように決然と身を引いた。母は、彼に死の病が伝染することを心からおそれている。クインは母に淡く笑いかけ、そしてごく簡単な肌の触れる喜びを放棄して、彼の住処へ赤い色をした迷路の中へ戻るために背を向けた。