第3章 かもめたちはうたう 8

 むせかえるような血臭の中にライアンは立っている。彼の足下に転がる、ほんのさっきまで人間だったものは既に動かない。僅かにあがった呼吸は疲労のためではなく、ねっとり汗ばむような歓喜のためだ。息を深く整えながら、その度にむら立ち上る血液の残り香の中、ライアンは今、うっすらと笑っていた。
 呼吸ごとに鼻腔から全身に回る血の生臭さが自分を今、満たしている。握りしめた細刃刀が痙攣している。たった今殺したこの相手の最期の悲鳴や彼をにらんだ目つきや、そんな記憶を目の裏に呼び戻そうとライアンは目を閉じ、僅かに身を震わせた。
 それは彼にとって快楽であった。他人の前に命を奪うために立つ、その瞬間の憎悪さえ悦楽だ。背中を駆けていく一瞬の戦慄も、時折は身体に加えられる痛みでさえも、ぎりぎりの相克のなかにあればライアンのための麻薬と変わった。
 陶然とした甘美を咀嚼するためにライアンは手袋をしたまま両手をじっと見やった。
 黒い皮の手袋にヒルのようにこびりついているのは相手の皮膚だ。最近は相手を苦しめるために一息には殺さず、苦しむ方法をまさぐりながらゆっくりと奪い尽くすことが多い。
 僅かに手袋についていたそれをライアンは指先でこそげとり、その場に捨てた。この相手には恨みどころか面識もなかったから、既に彼はこの快楽から醒めかけている。何の感情も持たなかった相手ではやはり現実へ戻ってくるのが早い。
 ライアンは手袋の先からのぞいている指先をちろりと舐めた。細刃刀は菱形のむきだしの両刃だから、使うときは指先のあいた手袋をする。
 血の匂いは陶酔の極みにあるときの甘さを既に失いつつあった。ライアンは舌打ちした。死を与える瞬間に自分を高い位置まで引き上げてくれる歓喜は、やはり何かの思い入れがある相手の方が強い。嫌悪程度でも数日は記憶からゆっくり引き出して楽しむことが出来るのに、真実憎んでいたり愛していたりすれば、自分はきっと気が狂うに違いない──脳髄ごと犯される、快楽や背中合わせの悲痛のために。
 ライアンはふっと吐息を漏らした。今でさえ、クインであれば彼を見て狂っているというだろうか。あれの中の天秤はまだ水平だ。水平を知って常にそこへ戻ろうとしているから均衡をとろうとして振り幅が大きい。
 ライアンは長々と嘆息した。僅かな時間彼を支配していた熱狂的な高ぶりは既に散り散りになり、残滓はかえって気分を悪くする。眉をひそめて細刃刀の刃尻から鋼糸を抜こうとした。
 鋼糸を残すのはライアンが自分の仕業だと宣言するための方法だ。誰の仕事であるのかを知らせる場合にはみな、自分なりの方法を持っている。
 だが興奮はまだ身体の方には残っているらしく、指先が僅かに痙攣していてなかなか糸をはずせない。苛立ちが次第に募ってくる頃、他人の気配が背後からした。
 ライアンは振り返らなかった。その気配の主が誰であるか最初の足音を聞いたときから分かっていて、それは自分の服従者だったからだ。
「どうした、チアロ」
 巧く動かない指先にじれながらライアンは言った。チアロが微かに溜息になったのが聞こえた。肩越しに視線を一度やると、チアロは顔をしかめて彼の足元を見ていた。
「見る度にひどくなる──ライアン、大丈夫なのかよ」
「何が」
「何がって……あんただよ。頭、大丈夫」
 さあな、とライアンは素っ気なく応じた。チアロの嫌悪も次第にひどくなる。無論それは自分が誰かを屠る仕業が次第にむごくなっていることに対応しているのだった。
 興味のなさそうな彼の返答にチアロはくしゃりと顔を歪めて、面白くないと表現した。ライアンに向かってこれほど明け透けにするのは今はチアロくらいのものだ。
 ライアンはそれにとうに気付いていて、だからチアロの不満も反抗も、不愉快ではなかった。それに配慮する気がないだけなのだ。
 チアロは大人びた仕草で肩をすくめ、ライアンに歩み寄った。誰かを手にかけてまだ完全に甘美な夢から戻っていない彼に向かって警戒心なく近寄ってくるのもまた、チアロだけだ。
 並ぶと背丈はほぼ同じだ。僅かにライアンが彼を見下ろす格好になる。それを意に介さないという風で、チアロはライアンの手にある細刃刀をつまみ上げた。今までほどけなかった綱糸を簡単にほどき、チアロが彼の手からそれを振り落とす。血溜まりの中にきらりと光りながら、綱糸が浮き上がった。
 ライアンはそれを一瞬みやり、そして肉塊をつま先でよりわけて左手であった部分を拾った。死してなおまだ握りしめている拳をむりやり開く。中に籠められていたのは1本の鍵だった。
 これだな、とライアンは呟いて新しい綱糸を鍵に通し、腰のベルトにくくりつけた。視線でそれが何かを問うているチアロには首を振った。
「お前はまだこちらのことに首を入れなくていい。チェインの方を固めておくんだな」
 チアロは唇を尖らせて分かってるよ、と言った。そうした表情はチアロがライアンの元に来た頃から変わらない。やんちゃ盛りの子供と同じ顔を今でも彼の弟分はする。
 そしてライアンはそれを甘いと苦笑しても、決して侮蔑や嫌悪にはならない自らの胸の作用を知っていた。
 チアロと話していると、いつも心のどこかが淡く弛む。それを自覚できる程度に血の色をした白昼夢から醒めてくると、やっとこの場に立ちこめる生臭さがむっと気分を悪くしたのが分かった。
「話があるなら歩きながら聞こう」
 ライアンは既に身長では彼に追い付きつつある部下の頭をぽんと軽く叩き、歩き始めた。
 僅かに遅れたチアロが彼に並ぶ。路地を一つ通り過ぎるまで性質に反してほとんど無言だったチアロは角を曲がるときに背後へ一瞬視線を与え、大きく呼吸をした。
「ああ、気分悪い。ライアンよくあんな中に立ってられるよね? おまけに見るたびになんか気味悪く一人でにやにや笑ってるしさ。ほんと、あれだけは頂けないよ」
 血の臭いが薄れたことで、やっと本来の気ままさのままにチアロがしゃべり出す。それを適当に耳に流れ込む側から捨てていると、ほら、と明るい声を立てて少年が笑い出した。
「ライアンは興味がないことは片っ端から聞き流すんだ。せめて聞いてますって顔でもして適当に真剣に頷いてればいいのにさ。興味がないので聞いてません、って思い切り顔に書いてある」
 チアロの言葉にライアンは唇を少しゆるめ、首を振った。チアロのように何事にもせわしなく反応するだけの、何かがこの世にあるとは感じられなかった。自分を取り巻く世界に色素は薄く、ほどんど無彩色の平板な視界だけが全てだ。
 そこに何らかの色が入るとしたら赤だ。それは血の色だ。命飛び交う血しぶきの中でだけ、自分が現実を生きているのだという強烈な実感を得ることが出来る。それに比べたら他のものはなんと薄く白けているのだろう。
 何もかも、黒白の点描のようにしか見えない。過去を追想しても、やはりそれは同じだ。そしてそこに入り込む色もまた同じく赤い。
 彼の永遠の主人であり、これからもあり続けるであろうリァン・ロゥの髪の色。
 ふと溜息になったライアンの腕を軽くつねり、チアロは声を上げて笑った。この少年がそんな仕草をするときは、自分の正気を咄嗟に引き戻そうとしているのだ。ライアンは大丈夫だと口にして、チアロの肩を軽く叩いた。
「……ライアン、ねえ、本当にさ。俺のことやチェインの他の連中のことはいいけど、クインの話だけはちゃんと聞いてやってよ。俺たちはあんたが王様だから、王様のなさることには関与せず、だけど。でもクインはあんたの臣下じゃないんだろ? あんたがそう扱うから、あいつもそう思ってる」
 ライアンは頷く代わりに長く嘆息した。
 クインの語った本来の出自とやらがどこまで真実であるか、今はまだ定かではない。だがリュース皇子との相似は尋常ではないことであるという認識はあった。クインが双子なのだというなら、それは信じてもいいだろう。
 兄弟順などは些細なことだ。要は大貴族と国家の中枢へつながる糸へ彼が変化する可能性があるということで、それが重要であった。
 だからこそクインのしたいことはさせてきたし、ある程度自分の感情などを押し込んでつき合ったこともある。正直、ライアンは性的な対象としての男には興味を感じない。女であっても少女と呼ぶような年齢にはあまり衝動が起こらなかった。少年となると尚更だ。
 クインのあの我が儘と呼んで一蹴すべきだった願いを聞き入れ、数度の関係を持ったことで、ライアンの中でクインとの契約は終了した。半ばは義務感でもあったのだが、けれど、クインの方はまだ終わっていないと考えているらしい。
 客にひどくむごたらしく扱われて寝付いた時でさえ、流石に様子を見に顔を出したライアンに向かって手を差し伸べたではないか。
(ライアン、来てくれたんだ? なんか、久しぶりに見るね……)
  他愛のない言葉とは裏腹に、彼を見る視線の縋り付くような光は強かった。それにどうしたのか竦んだように怯んでしまい、彼に近づくことさえ躊躇われた。
 クインが時折発する、飢えて泣く猫のような声音に絡め取られてしまってはいけない。あれに耳を貸してはいけない。誰かに深く荷担し手を伸べるということはライアンにとって、彼の全てをそれに賭けるということと同じだった。
 クインを自分の特別の位置に置くことは断じて、してはならない。クインは彼の契約の相手であって、過去の感謝の印を渡しているのであり、それ以外でも以上でもないのだ──ということを自分に言い聞かせ続けている。
「……あれはまだ何か言っているのか」
 クインのことを考えると否応なしに気が滅入る。元来感情の隆没が少な目のライアンにとって、それだけでも特別ではあるのだ。
 その問いにチアロはふふんと鼻を鳴らし、自分で聞けばいいじゃない、と言った。これはチアロなりの当てこすりというものであった。ライアンは吐息をぬるめて笑い、首を振った。
「奴のことは放っておけ。いつまでも誰かに甘えていればすむ年じゃないだろう」
「誰もいないのもどうかと思うけど? だからライアン、あいつと話し合ったんだけどさ、今度から女の客もつけてみようと思って」
「……女か……」
 ライアンは曖昧な返答をした。女客を取らせて彼の感情の均衡をとるというチアロの提案は実はかなり前に聞いた。
 そのときは甘えさせるなと簡単に退けたものの、同じことをチアロが蒸し返したならば、クインは相当煮詰まっているのだろう。
 だが、気が向かないのは確かだった。
「……俺はそれには賛成しないと言ったはずだなチアロ?」
「でもライアンはその代価を支払わないじゃないか」
 クインの放置をきっぱりと非難し、チアロはライアンにきつい目線をくれた。一瞬それに目を合わせ、ライアンはやがて溜息と共に頷いた。
「……分かった、好きにしろ。但し、一人の女に深入りさせるな」
 クインが快楽の供給者として自分を買う女に興味を抱くとは思えなかったが、男と女の間には突然何が起こっても不思議ではない。クインが突然それまでの主張や過去を放り出して女との生活を選ぶなどということはさせてはならなかった。
 クインの顔を実際に見たことがある者は限られてくるが、チェインの幹部たちには存在自体は教えざるを得なかった。
 彼がライアンと密接な関係にあること、チアロが彼のために時間を大量につぎ込んでいることを幹部達に提示したことで、ライアンはクインへの手出し無用を宣言している。そんなことでもしてやらなければ、クインはチェインの中を歩くだけで身の危険を考えなくてはならないだろうから。
 だがそれはクインがライアンの持ち物だというのと同じ意味であった。少なくともチェインの中ではそうだ。チェイン王ライアンの所有物だから保証される。
 だからクインがライアンの庇護を蹴って遁走するなどということは、ライアンの体面に深い傷を付けることと同じだ。タリアもチェインも、最後は力だけが支配を正当化する。そんな場所において、現実はただ一つであった。
 ──舐められたら終わり。
 チェインの子供達の上に立つ身として、タリア王の幹部の中に座る身として、そんなことは断じて許すべきではなかった。実際問題としてその不安は薄いが、可能性はないわけではない。勝手はさせるなよと付け加えると、チアロは頷いた。この少年もまた、彼の系譜に連なり彼の思考を理解し手を貸す者であるのだ。
 同じ客は二度と取らせないこと、保険のためにこちらは写真を密かに撮っておくことをチアロは口に出し、ライアンに視線で許可を問うた。ライアンは頷いた。クインに関わるのはこれ以上は余分だという自身の中の警鐘を鑑みるに、それは渋々でも同意すべきだった。これを拒否すればチアロはクインへの時間をもっと割くようにと言うだろう。
 次の路地をすぎようとしたとき、チアロが足を止めた。ここで、という少年にライアンは苦笑気味に頷く。チアロはタリア王屋敷とそこにたむろしている大人連中が苦手なのだ。ライアンに連絡をつける以外では滅多に近寄ろうとさえしない。
 明日、とライアンは言った。翌日はチェインの幹部達から地場の様子を聞くためにライアンがチェインの煉瓦屋敷に必ず戻る日だ。チアロの煙草を買っておくよという声に頷き、軽く手をうち振って王屋敷へ歩き出す。
「ライアン」
 その背にチアロの声がかかって、ライアンは振り返った。彼の部下の表情は光源の向きのせいで淡い陰になり、よく見えない。けれど、いつものように朗らかに明るく笑っていないことは、空気だけで分かった。
「──リァンはもう還ってこないよ」
 その瞬間に、自分の肌が凍るように震えたのが分かった。
 その名は今でもライアンの支配を握っている。死してなお、ライアンの胸に呪縛を加える男。ライアンを拾い、彼にふんだんに笑顔と視線を与え、利害づくでライアンの心を自分に縛った男。その狡さを計算を、ライアンは既に知っている。だが、それでもどうしようもない。リァンは彼にとって父性の代弁者であり、神でもあった。その死から、4年を経過した今でも。
 ライアンは何かを言おうとし、そして沈黙した。リァンの死は既に乗り越えた。4年前の継承戦争時に、そうすることで彼はチェインの王となった。
 けれど、その後に心に残った甘い追憶と思慕だけは、捨て去ることが出来ない。彼の残像を追い、面影を踏み、その奇跡のような生が辿るはずだった道のりを自分の手で作り上げることに躍起になっている。
 チアロの言葉はあるいは非難の続きであった。けれど、それになんと返していいのかさえ、見当がつかない。クインが彼をなじるときの引き合いにリァンを出すのは許せなかったが、チアロの言葉にはそんな揶揄がないだけに困惑する。
 ライアンが黙っていると、チアロは吐息で笑ったようだった。
「リァンは戻ってこない。俺はでも、リァンよりはライアンが好きだよ」
「……チアロ」
「いいよ、無理しなくたってさ。でも、クインよりも俺はライアンを見てる方がきついときがあるってことを、覚えといてよ──また、明日ね」
 それ以上をライアンに言わせず、チアロは素早く身を返して立ち去った。ライアンはチアロの消えた路地をしばらくじっと見つめて立ちつくした。
 分かっている、と呟く。
 分かっている。リァンの死も、彼が俺にかけた打算の魔術も、それに気付きながら自分がまだ囚われていることも、リァンの出来なかったことを実現するために生きていることでさえ、自覚している。けれど、彼の代わりなど見つからない。そうしなくてはいけないのだということは理解しているが、理性の部分よりも深く暗い淵の中に感情は沈み込んでいて、乖離したままであった。
 ライアンはゆっくりかぶりを振った。過去の日々が眩しかったというなら間違いではなく、今でも自分を一度は通り過ぎていった真夏のような日々を恋うているなら正しい。それが二度と自分には戻ってこないであろうことも分かっている。誰かに指摘される以前に、死者は蘇りはしないのだから。
 だから、それから先はライアンの勝手な夢想と追憶の仕業だった。けれどリァンがいなくなって自分のために生きていく人生を結局タリアの中に求めたときに気付いたこともある。
 リァンの面影と追想はいつでもライアンの胸の内にあって、誰にも邪魔をされず勝手に連れ去られないものなのだ。自分律というものの中にリァンの行動規範が深く刻まれている以上それを切り離すのは至難であるし意味がないが、そんなことをしなくてもいいのだ。
 リァンはその死によって、ライアンの中に永遠に根を下ろした。その木が枯れないように、彼自身が注意深く見守っていればいいのだ。そしてそれは永久にライアンだけのものだ。今度こそ、誰にも邪魔はさせない。
 クインはそれを敏に感じ取って、それがいかに無意味な仕業であるかを彼に教えようとしているのだろう。
 けれど、そんな言葉など、聞きたくない。自分の中にあるものを他人が触ろうとしているのだと思うだけで反射的に怒りさえ覚えた。
 ライアンは僅かに舌打ちをし、歩き出した。タリア王屋敷へたどり着く前に、この自分の中の不愉快をせめて表情からはうち消しておかなくてはいけない。
 タリア王アルードとその周辺に巣食う側近達が今のライアンの相対しない、だからこそ恐ろしい敵なのだった。