第3章 かもめたちはうたう 9

 タリア王屋敷にはいつものように王側近の数名がてんでに好きな部屋にたむろしている。彼らにはそれぞれ手持ちの領域があって、それをお互いに侵し合わないことで表面上の結託をしているが、末端では時折境界区域の支配や利権を巡っての抗争がある。
 それはライアンの総括するチェインでも全く同じで、この町の少年達は大人達の鏡でもあった。
 2階の奥にあるいつもの居間へ入ると、魔導士を相手にアルード王はなにやら話をしているようであった。あの魔導士は国からアルードが借り受けているもので、タリアの抗争自体には関わらせないものの、情報収集などには重宝するようだ。
 クインが魔導を使うのを見ているから初めて人外の力を見たときよりは衝撃は薄まっているが、今でもそれは十分に気味が悪く、そして得体の知れない脅威だった。
 アルードはライアンにすぐ気付き、こちらへくるように手振りで指示をした。そっと近寄っていくと、魔導士が振り向きもせず、ライアンに位置を譲る。
 彼らは銀の仮面を付けているから実際の目で物を見ない。にもかかわらず盲目であるようなぎこちなさは動作にはなかったから、この場合もなにがしかの力でもって位置関係を把握しているのだろう。
「戻ったな、ライアン。首尾は良かったと見える」
 ライアンは首肯し、最前奪い取った鍵をアルードに手渡した。それを一瞥してアルードは微かに笑って側に控えている魔導士の肩を叩いた。退出を命じる仕草である。
 魔導士は無言のまま立ち上がった。仮面のせいで顔も何も分からないが、時折聞くその声で、どうやらこれが少年であることは分かる。背丈はクインとさほど変わらないが、カノンという魔導士名を持つ彼に関して、知りうるのはそれくらいだ。
 魔導士がアルードへ会釈して立ち去ってのち、アルードは手振りで自分の前の椅子を示した。座れということであった。アルードの前で腰を下ろすことが出来るのは、幹部だけだ。チェインにおいてもそれはほとんど変わらない習慣である。
「……これで全員のはずです」
 ライアンは低く言った。アルードは曖昧に頷いて、彼の手に渡った鍵をちらちらと硝子越しの日射しにきらめかせている。
 その鍵が境界地区の利権の源へたどり着くための最初だと、ライアンは知っている。新興派閥が今までの境界主の権利を侵害して勢力を伸ばしつつあるあたりであった。アルードの判断はその新興の派閥への援助だった。おそらくそちらのほうが彼にとって実入りがあったのだろう。
 旧閥の連中が仕切っていた町の権利証明に債権の証書、それに薬や武器の裏の流れを管理していた帳簿がある。部屋の鍵はすぐに開くが、複雑な仕掛けと魔導斑紋の入った錠前は専用の鍵でないと無理なのだ。
 ここ半月ほどは旧閥の連中のうち、抵抗を選択した者を一人づつ食い荒らしていくことにライアンは使っている。チェインの王として少年達の上に君臨している身であることで、ライアンはタリアの複雑に張り巡らされた境界権利に絡んでいない。
 彼だけがどの派閥とも利害関係を持たない、無派閥であった。
 そのせいで、こうした境界権利の絡む抗争の始末にライアンはよく顔を出した。逆にほぼ関係しないのが魔導の力をほどこした禁制品に関わる全てであるが、これは得手の者がいるのだから、均衡は取れているというべきであろう。
 アルードはご苦労だったなと薄く笑い、既に用意してあったのだろう懐から小さな袋を取り出した。中は小指の爪ほどの碧玉と紅玉の裸石だった。これが今回のこの件全てを決算する報酬であった。
 ライアンはそれを手の中に入れて、アルードに軽く会釈した。次の話を切り出さないから、どうやらこの場を出ていいらしい。
 そう結論して立ち去ろうとしたライアンを、アルードは待てと呼び止めた。
「……そろそろお前にも、こちらの中に本格的に入ってもらわなくてはならない。分かっているだろう──お前の身内をこちらへ寄越せ、あの……何とかいったか、お前の可愛がっている小僧でも構わんさ」
 チアロのことだろう。ライアンは苦く笑い、あれはここのしきたりを守れるほど大人ではありませんから、と言った。アルードもまた似たような笑みになった。
 数度ではあるが、チアロをつれてきたこともある。その性質が大人達の内に潜む駆け引きに向く者では到底ないことを、彼も知っているのだ。
 もしくは、とアルードは続ける。
「7地区の妓楼に馴染みの女でもいるのなら……」
「いえ──あそこの女将と多少、縁がありまして」
 その縁とやらの内容を目線で問われ、ライアンはアルードに向き直った。
「俺の母親の妓姐なのです。ずっと昔、母に連れられて数度、会ったことが。あちらもそれを覚えているので多少気安くて……それに俺は同じ女とは続けない、知っているでしょう」
 それは確かにライアンの習性だった。妓楼はタリアの派閥に関与しないために自らの組合において自治を行っているが、それはすなわち特定の者の意志の働く妓楼はないと言うことと同じだった。無論、タリアの奥に進めばそんな規範さえ関係のないもぐりの女部屋はあるが、誰が関与しているか分からないような場所でライアンは女を求めない。
 それに表妓楼の彼女たちは客の秘密を守るという一点において徹底した教育を受けているので、比較的ぬるくしだらかに神経を休ませてやることが出来る。
 だがそれも馴染んでくれば分からない。だからライアンは、どこかの妓楼に通い詰めて一人の女に入れ込むということはしない。
 ──それはあの女だけなのだ。
 一瞬でも、彼に血のつながりのある家族という夢を見せてくれた少女。クインとよく似た感情の激しさと心根の弱さが、ひどく哀れで愛しいような気もして、つい突き放すことも出来ずにずるずると年月を重ねている、あの少女。
 けれどシャラを事実上の人質として差し出すことは、やはり躊躇われた。それはいずれ見捨てなくてはならなくなる彼の手駒でなければならないのだから。
 同じ女とは関係を持たないというライアンの言葉に、アルードはそうだったなと苦笑気味に応じた。
「だがいずれ、それに代わるものでも差し出してもらわなくてはならない。他の連中にもそうさせているからな──が、まあいい。今度の件で一本、麻薬の筋があいている。お前にやろう」
 ライアンは僅かに姿勢を直し、深く頷いた。先に手にした宝玉よりも、こちらの方が破格によい報酬であった。
 チェインからあがってくる収入などとは比較にならない。あちらは人数の増減や抗争の有無で多少変動があるが、麻薬は一度網を張り巡らせればあとは勝手に満ち、手にこぼれ落ちてくる。
 どんな場合でも金は要る。これから先、さらに重要になってくるに違いないのだ。
 ライアンは僅かに時間をおいた後、ありがとうございますと言った。アルードは小さく頷き、誰かを王屋敷に伺候させることを忘れるなと付け加えて手を払った。
 タリア王の元から退出して、ライアンは回廊を戻りながら長く嘆息した。
 タリアの内側にいることで、次第に足下であるチェインの支配からは縁遠くなっている。それもアルードの狙いの一つであることは確かだ。アルードに目をかけられているのだという幻想など抱いたことはないが、ライアンの働きに応じて報酬を与えなければ他の者達への示しがつかないとアルードが踏んだのだろう──つまり、現状は満足すべきであった。
 タリア王屋敷をすぐに辞して、ライアンはゆっくりタリアの表通りの方へ歩いた。王屋敷は彼にとって居心地の良い場所ではなかった。アルードと同じ場所の空気にあると思うだけで、肺の中が濁る気がする。
 それに身体の奥底には殺人の快楽に身を委ねた後の、気怠い疲労がたゆっている。血を見た後は命の根元に触れたせいなのか、ひどく気が荒ぶって鎮めるのに手間がかかった。
 だからライアンはあの少女に会いに行く。シャラの顔をみて他愛ない話に気を紛らわせていれば過ぎ去っていく倦怠があった。それはほぼ唯一、過去の呪縛から逃れてしどけなく他愛ない戯れに興じていられる時間であったかもしれなかった。
 あの少女は自分の中に殆ど唯一残っている庇護すべき花だ。摘み取るのは簡単で、それを待っていることも知っているが、けれど一度折った花は二度と土に根付かない。
 彼女が特別であるのは寝ていないからで、それ故にずっと自分の中にあるだろう聖域といえた。それを自分の手でわざわざ壊すようなまねなど、すべきではない。
 それにどうしてもライアンは彼女を自分の愛人にしようと思えなかった。まだ水揚げ前の、白い衣を着た無垢の痛々しさを見知っているからだろう。
 けれど、胸が渇く日は彼女に会いたい。何の血縁もなくても、彼にとってシャラはただ一人の妹だった。父を元より知らず、母には売り飛ばされてのち他人の手を転々として生きてきた彼の、血の証明のような気がするのだ。
 全くの他人であることは知っている。自分が母に売られたときの状況やお互いの顔立ちの相似からライアンは当初、異父妹であろうかと考えていたがそれはすぐに否定された。あの妓楼の女将はシャラの母と親しかったせいで、ライアンという名であったというシャラの兄を見たことがある。瞳の色が違うなら、それは状況が似ているだけの他人であろう。
 だが、それとライアンの心の中の作用とは全く関連がなかった。
 妓楼はようやく始まる時間を迎えて、階下に降りている遊女達が多かった。他の女達には視線を殆どやらず、ライアンはいつもの場所に座る女将に目礼する。女将は簡単に頷いてこちらへとライアンを手招きした。
 前と同じ金額を彼女の前に置くと、女将は苦笑する。
「揚げ代、あがったんだよ。部屋も一つ良くなっている。今日はいいよ、まけておくさ。あんたには大分注ぎ込んでもらっているからね」
 差額のおごりは女将の厚意であったから、ライアンはありがたく頷いた。金に困っているわけではないが、こうしたささやかな貢ぎ物を断るのもおかしな話だろう。
 小間使いの少女が彼を案内していった先は、確かにそれまでよりも一段上の階級に属する部屋だった。年数や揚げ代の多少によってやはり遊女にも格がある。
 次第に上へあがっていくシャラの身なりを、ライアンは微妙な困惑で眺めている。それに自分が相当関わっているのは確かだったが、実際二人の間に何かがあるわけでもなかった。
 ただ、シャラの方は上機嫌だった。この少女は一面現金で、生活の環境が上向けばそれで虚栄心を満足させるところがある。アルードからもらった宝玉を並べてどちらが欲しいかと聞くと、紅玉をさして指輪にして欲しいとねだった。
「で、こっちはライアンがお揃いの指輪にして持っていて。ね、いいでしょう?」
 ライアンは曖昧に喉を鳴らした。シャラがどちらか好きな方を選んだ後は換金しようと考えていたのだ。
 彼の思惑を悟ったのかシャラは冷たく整った面差しを、暗く俯けた。その表情に差し込む気鬱と悲しみが濃い。揃いの指輪などという児戯のような記号を欲しがる裏に、不意に彼女の深い苛立ちと懊悩が揺らめくように見えた気がした。
 シャラは黙って唇を尖らせたまま、彼の煙管をいじっている。ライアンもまた黙り込んで煙管を撫でるシャラの指先を見つめている。シャラの思いが次第に蓄積されていくことを感じないことはなかった。
 彼女の目線がただひたすらに自分に向けられていることを理解し、それに当惑とぼんやりした畏れを覚えながらも突き放せない。
 縁を切るなら簡単だ。二度とこの妓楼に足を向けなければいい。
  それを彼女も分かっていて、ライアンが不機嫌やその淡い怯みのために沈黙するとき、その先をなじる言葉を絶対に口にしない。彼から見捨てられてしまうことを、何よりも恐れているのだ。
 それに深い哀切を感じないではいられない。それにシャラはどうしたところで自分の妹だと思い続け、本人にもそれを言い続けてきた。態度を今更翻すことは出来そうにない。
 このままでは永遠にシャラを傷つけるだろうことも分かっているのに。
 ……ふと、ライアンはシャラを見た。彼女のすすり泣く声が聞こえたのだ。
 シャラ、と呼ぶと少女は自分の口元を手でしっかり押さえたまま首を振った。ぱらりと後れ毛がおちて、首筋を軽く叩く。肩との付け根に一葉咲いている、赤い斑紋にライアンは気付いた。昨晩の客がつけていったのだろうか。シャラは遊女なのだ。それを今までも知っていたくせに、今初めて目にしたような気持ちになる。そして巻き起こってくる大量の感情はやはり、憐憫なのだった。
 ライアンはもう一度シャラの名前を呼んだ。シャラはやはり首を振った。
「……ライアン、いいでしょ? 少しくらい、あたしに、希望くらい、くれったって、いいじゃない……ちょっとくらい、いいじゃない……」
 呟く言葉は甘く弱い、非難と言うほどもない繰り言であった。彼女に言えるこれが限界なのだ。
 ライアンは微かに呼吸をふさがれたように喘いだ。何かを言ってやることも、抱き寄せてやることも、しようと思えば出来るだろう。けれどそれが一瞬の慰めでしかないことを、ライアンは分かっている。そんなありきたりのものに引き替えてしまえば、この少女はただの年若い遊女でしかなくなる。それを押してまでシャラを自分のものにしたいかと問えば、彼の中の判断はいつでも首を振った。
 シャラ、とライアンは3度目を言った。
「分かった、宝玉はそうしよう……」
 これが逃げなのか妥協なのか、ライアンには判別が出来なかった。シャラはやっと頷き、少しだけ笑った。ライアンは僅かな安堵のために溜息になった。
 その吐息をすくうようにシャラは彼の口元に手を伸ばし、それはだめだと言うようにか、指先をライアンの唇に押し当てた。
 同じ色の瞳が絡み合うようにぴたりと合わされる。涙のせいで僅かに潤んでいるシャラの目がじっと彼を見つめ、そしてゆっくり近づいてきたのが分かった。
 ライアンは腕を伸ばし、シャラの首を巻き取るようにして抱き寄せた。自分の肩に埋めるようにシャラの頭を押しつける。シャラが微かに震えた気配がした。遊女の貞操は唇にある。それをどうしても彼女はライアンに与えたいようだった。
 回避するための抱擁にシャラは震えていたが、やがてライアンの背に微かに爪を立て、ばか……と耳元で囁いた。
 ライアンは返答をしない。シャラはしばらくそうしていたが、やがてすすり泣き始めた。張りつめていた彼女の身体から力が抜ける。それに合わせて腕をゆるめてやると、子供が親の腕に収まるようにするするとシャラはライアンの胸に収まり、顔を当てて嗚咽を始めた。
 しがみついている指先は、それでも服をゆるくつかんでいるだけで決定権をライアンに与えている。それに気付かないようにして少女の頭をゆっくり撫でてやると、シャラは不意に泣き崩れた。たくらみをはぐらかされたのを分かったのだろう。
 ばか、と呟く口調はそれでも切なく訴えるもので、彼を責めるものではなかった。泣き続ける少女の身体を包む赤い人工絹の薄さは遊女特有のものだ。手で触れるとすぐに体温が伝わってくる。
 シャラの身体に籠もる熱が厭わしいのか、哀しいのか、ライアンにはよく分からない。けれど今、この少女を宥めてやれるのが自分の沈黙であることは知っていた。
 連綿と続く嗚咽が収まったのは結局シャラが寝付いてしまったからとなった。泣き疲れて眠ってしまうところ、やはりまだ子供なのだとライアンは意味もなく安堵する。
 遊女の部屋であるから寝台は一つきり、その上に抱き上げてそっと横たえてやると、シャラは一瞬目を開いたが、ライアンがその瞼を閉じるように手で押さえてやると、すぐにまた眠りへ戻っていった。
 ライアンは溜息になった。シャラの視線の強さはいつでも変わらずにまっすぐに彼を射抜いている。それが気鬱な圧迫と思えるときもあるし、憐憫の哀しみに見えるときもある。
 どんなときでも変わらないのは、シャラが彼の庇護対象者であって、決して愛を紡ぐ相手ではないということだった。
 それだけ分かっていれば十分だとライアンは自分に言い聞かせ、部屋の明かりを落とした。
 遊女の部屋には天窓が一つきり、そこからはタリアの炎の色が月光と共に差し込んできて、ほんのりと赤い。しんと静まりかえればどこからか、はぐれた羊が鳴くような声がとぎれとぎれに聞こえる。
 それが何であるかは考えるべくもなかった。この妓楼は決して安普請ではなかったが、よほど好きな客の相手でも誰かがしているのだろう。甘えるようなもの悲しさが、声のどこかに潜んでいるようであった。
 ライアンは服を脱ぎ、簡単な夜衣に袖を通した。泊まる客のために、大抵こうした服がどの妓楼にもおいてある。煙草入れと煙管をつかんで寝台にあがり、眠ってしまったシャラを真横においてライアンは天窓に移る月を眺めあげた。
 誰かを手にかけた興奮と苛立ちと歓喜と倦怠は、彼女を傍らにして次第に流されていくものだった。そういう意味において、シャラは確かに特別な女だった。
 愛しかったし、大切だった。恋情と愛欲は彼の中では切り離されて別々のものとして成立しつつあるが、その二つを繋ぐ可能性があるとしたら、今はシャラであるとしか考えられない。無論これから先自分にも命をかけるほどの女が現れるかもしれなかったが、だがその女は決して自分の妹ではないのだ。
 ライアンは煙草の一服を長く吸った。物事をじっと考えるときにはそれは手放せない癖になっている。
 ふっと煙草の香りが消えて苦みだけになった。種草が尽きたのだ。
 それでライアンは煙草をやめて、寝台の脇の灰皿にそれをことりと置いた。
 ──抱こうか。
 陶器が鳴る冷たい音と共に腹の底に転がりでてきた新しい考えにじっと目を凝らす。このままではいずれ、どのような形であっても破綻するだろう。
 失いたくないという思いは確かにある。シャラのために死ぬことは出来ないが、だが出来うる限りのことはしてやりたいと思っている。シャラの一番の望みが自分と関係を持つことであるなら、そうしてやってもいいかもしれない。
 ……何より、自分にも何かが起こるかもしれなかったから。
 あるいはそれを知りたいのかもしれない。リァンがいなくなってのち、色素が薄まって濃淡でしか見えない世界に、劇的なものが紛れ込むならそれが何であるかを自分も知りたいのだ。
 ライアンは溜息をついて、そっと手を伸ばした。シャラはよく眠っている。
 遊女の衣装は大抵簡単に脱がせることが出来るように、前の袷を何カ所か紐で結んだだけの作りになっているのが普通だ。首元の大きなリボンをするりとほどき、そして肩から胸にかけての袷目をほどく。腰の横の紐を解き、何か大切な包みを開くように丁寧に左右に開く。
 ──そしてライアンは、僅かに呻いた。
 淡い赤に染まる月光に照らし出された肌はあわあわと白く、その中で呼吸のためにゆっくり上下する裸の胸はこちらが怯むほどに頼りなく小さい。右の腋横に僅かに残っている痕跡の赤い色が目に痛くて見ていることさえ辛かった。ライアンは開いたときと同じような手つきで、シャラの肌を隠すように衣装を着せた。紐を最初より丁寧に結んでやる。ひどい罪悪感だけが残った。
 駄目だ、とライアンは呟いた。彼女は駄目だ。一生駄目だ。まだ幼さを片隅に残したままの身体が記憶の端をよぎる。ライアンは首を振ってそれを追い出そうとした。 
 自分はきっと、見てはならないものを見てしまった。シャラと関係を結ぶことは出来ない。無理だ。この同情と哀憫とが胸にある以上、彼女を抱こうとすることさえ罪悪であるような気がして居たたまれない。自分にとっての快楽は既に女などではなく、人を狩る獣としての衝動へ変化しているのかもしれなかった。
 リァン、とライアンは呟き、堅く目を閉じた。彼に人を手にかけることを快楽として教えたのはリァンだった。ライアンは彼のためにそうなるべきだという目論見を体現した存在だった。リァンの手腕は確かに見事だった。暗示をかけた主人がこの世から消えてもなお、呪縛はライアンの中に残っている。
 ぎりぎりの命のやりとりを交わしている時、微かに彼の耳には鈴の音が聞こえる。涼しく鳴り響くその音を聞いていると、全てのものを引き裂き、八つ裂き、奪い尽くしたいという衝動が呼び興る。相手によってその感情の多少はあったが、やはりそれは彼にとっては絶対快楽であった。
 自分は、どこかがおかしいのだ。リァンが握っていた彼の調律を、引き受けることの出来る者はいない。だから何かが狂ったまま、それでも生きている。生き続けていく。リァンが辿り着くはずだったその場所に、自分が座るその日まで。
 ライアンは顔を歪めた。リァンのいなくなった世界には、彼を縛るものはなくなった。
 けれど、人は何かのためにと自ら捕縛されることで生きていける生き物なのでないか。解き放たれた野生に打ちのめされて死ぬよりも、共生で繋がり作り上げた広大な籠の中で不自由を歌いながら自己憐憫で満足する鳥ではないのだろうか。世界はそんな構築に出来ている。
 だから一度その輪から外れてしまった者に戻る場所などないのだ。仄かに明るかった場所を振り返り振り返り、それでも待ち受けている闇へ飛び続けるしかない。そうするしか出来ないのだ。今は。
 リァンの呪術がまざまざと身に甦る日は、彼というライアンを繋いでいた籠の大きさと、それが今は既に失われていることを教える現実の狭間にあって疲弊が激しい。彼のいない世界に、今生きている、その不思議。
 リァンのために死にたかった4年前に、死んでいればこんなことを思うこともなかっただろう。それが一体自分にとって至福なのか悪意なのか、何故判別する必要がある。
 ──あなたが、いない。
 それだけが真実なのだ。
 ──この世界に、あなたが、いない。
 それだけが現実なのだ。
 身を取り巻く環境も人間も、全てが変わったところで起こったことは頑として動かない。時間は戻らず、人は甦らない。リァンのために生きていたことは恥じることではなかったが、それだけが全てであった時からは、自分は確かに大人になりつつあった。
 そしてそれを自分のために喜べないでいる。リァンはその死の前日まで、確かにライアンの全てだった。
 あなたのために生きて、あなたのために死ぬのが夢だった。その他の全てのことは色彩の薄い写真のように、現実味が薄かった。命の辿る道筋に落ちているものが、自分を責め苛むものばかりでないことを教えてくれた。だから自分にとってあなたは光であり、神であり、世界そのものだった。
 何も考えたくなかった、ただあなたの語る世界が正しいのだと闇雲に信じていればそれでよかったのだから。
 ライアンは閉じた瞼の裏で、リァンの面差しを呼び戻そうとする。彼の植え付けた種子が今ライアンを支配する絶対律ならば、そうでなかったはずの未来もまた存在したはずだった。
 そのとき自分はシャラを抱いてやることが出来たろうか。彼女に求めているのは渇きを潤すための僅かな弛緩の時間だが、命を奪い啜り尽くす快楽を知らなければあるいはごく自然に、関係を持っていただろうか。
 どんな仮定にも意味がないと知っていながら、ライアンはそれを何度も繰り返す。リァンを少しでも責難するための材料を探して記憶の海を彷徨いながら、しかし遂に感傷に負けて、それが遠く懐かしく、帰りたい日々であることを認めざるを得ない。
 この世界に、あなたがいない。
 もしもという言葉になんの意味もないことを知っているけれど──帰りたい。ただひたすらに、帰りたかった。




   帰してよ
   お前の姿が世界から 消えてしまったあの日まで