V字傷


 つうっと手が滑った。慌てて僕は三角刀の軌道をそらすが間に合わない。指先にぶっすりとささって痛てぇ、と声をあげる。とたん、親方の怒鳴り声がとんできた。
「タカシ、いいかげんにしろっ! 何枚無駄にしたら気が済むんだッ」
「す、すみません、親方」
僕は慌てて謝るが、薄い手袋が破けて血がかかってしまったからには、もう商品にならない。
 止血しなくては次のも彫れないから、僕は席をたつ。血止めの薬を指先にぺたぺた塗っているとカシマさんがのっそりと姿を見せた。
「おう、タカ、お前も慣れん奴よなぁ」
言いながらカシマさんはくくっと笑う。僕は恥ずかしくなってうつむく。ここへ弟子入させてもらってもう一年になるのに、僕ときたらまだ完ぺきな一枚を彫ることが出来ないでいる。
「いつか絶対親方のよりいいのを彫って見せますよ」
それでもこんなことが言えるのは、最初の頃よりは遥かにましになったからだ。最初はもう、縦横は揃わないし、深さもまちまちだし、だいたい直線さえ出来なかった。親方曰く、
「こんなもんは猫も食わん」
というほどの、自分でもため息になるくらいの酷さだったが、最近はそこそこ出せるものになりつつある。この工房の前では僕やカシマさんの失敗作を格安で販売している。以前はそこにも並べるのをためらうほどだったが、ここ二ヶ月ほどに限っていうなら僕とカシマさんの差はほとんどない。但しその代償に、僕の左の指は三角刀のV字傷だらけだ。
「タカ、血ぃ止まったか? そろそろ窯あげの時間だからいくべや」
カシマさんに促されて僕は立ち上がる。一度親方の所へ戻って釜上げに行くことを伝えると、親方の声がぶっきらぼうに怪我は大丈夫か、ときいてくれた。僕は嬉しくなってはいっ、と大きな声で返事をする。
 釜場はいつも暑い。でも汗なんかかけないからこれが一番気を使う瞬間なのかも知れない。お疲れっす、と声をかけて入っていくと、釜場のエイさんはおうよ、と笑っていいタイミングだ、と言った。
 まだ何も彫り込まれていないそれを受け取って僕らは彫り場へと戻る。甘い匂いが鼻をくすぐる。僕は男としてはちょっと情けないかも知れないが甘いものが大好きで、そしてうちの親方の味に巡り合ったのだ。
 戻って血が止まっているのを親方に確認してもらうと、僕は再び薄い手袋をはめて作業台に向かった。焼きあがったばかりの一枚に最初の一刀を下ろす瞬間が好きだ。
 サクッとした手触りが伝わってくる。いいなぁ、やっぱり。僕はついうっとりしてしまう。直線と直線、縦と横の目うちをしっかりと最初にしておかなくては駄目だ。わずかについた焦げ目が目印になりそうだと僕は見当をつけて、一気に彫りはじめた。
「で、出来た!」
僕は思わず声をあげた。カシマさんが僕の後ろからのぞき込んでへえ、と言ってくれる。親方に差し出すと、親方は裏っ返したり透かしていたりしていたが、やがて言った。
「まだ少し角が甘いが、十分普通に金をとれるやなぁ、テルよぅ」
カシマさんがそうですね、とうなずいてくれた。僕は嬉しくなってやったぁ、と万歳をする。持っていた三角刀を親方があわてて避けて、タカ、とまた叱られてしまった。
「どうだ、嬉しいもんだろう」
親方の言葉に僕は頷く。瞬く間に涙が出てきた。これを作りあげるまでに、どれだけ指先にV字型の傷をつけたかわからない。今までの苦労とかが一気に出てくる。
「これ、真空パックにして親に送りますっ」
散々反対されて、それでも自分が結果を出せたことがうれしくてたまらない。
 正直、まだまだ親方にはかなわないけど、絶対にあの規格がちがちの工業製品よりも、僕の彫った方がうまいに決まってる! 僕はうきうきしながら手紙をかいて親に送った。
 返事は、こうだった。
「おいしいけど、スーパーで売ってるのとどう違うのかは分からん」
僕はちょっと気落ちしたけど、時折自分でも満足できるのが彫れるようになってきて(それはちょっとしたコツなのだ)、親のことなんか忘れかけていた。
 ある日工房見学にきた女子中学生が、お土産屋をのぞいてこう言った。
「えっ、これ全部手彫りなの? やだぁ、気持ち悪~い!」
「うるさ~~い!!」
僕は思わず叫んでいた。親も含めてなんて皆無理解なんだ!だいたいなぁ、こっちの方が絶対バターの溶けも蜂蜜ののせもよくて、味に馴染むんだからなっ!!
「ワッフル彫るのは大変なんだぞ!」

《V字傷 終》