神経麻痺


 左の指に細かに違和感が当たった。。僕は思わずしまったと呟き、それから慌てて指を放して血が出ているかどうか確かめてみる。痛くはない。針はぶっすりと指先に刺さって5ミリほど埋まっているが、それは日常のことだからそれほどでもないのだ。
 指先の神経はとっくの昔に焼き切れていて、今では針を刺そうが熱したヤカンに触れようが痛くもなければ熱くもない。もちろんそれは針を支える左手の人指し指と中指だけだから、他の指は普通だけど。そういえば僕がこの工房に入った時に先輩のカシマさんが
「秘技、熱湯消毒」
と言いながら人指し指をお湯割り用にポットに入っていた熱湯に突っ込んでいたのを僕は驚嘆して眺めていたものだが、何のことはない、次に新人がきたら僕が見せてやろうと思っている。
 とにかく指が痛いの何のということは大したことじゃない。ただ、血がつくと商品にならないので僕たちはそっちの方が大事になる。僕はこの工房に入ってから5年になるが、本当に真実痛かったのは、針が爪の裏までいってしまった時だけだ。
 間一髪だった。血は少し滲んできている。僕はほっと一息ついて、止血の間の休憩に立った。休憩室は自然の光がたくさん入るように出来ていて、とても落ち着く。仕事場は白く立ちくらんでしまいそうなほど白熱灯の明かりが眩しいから、こういう目に優しい光に安心するのだ。
 僕は指先を手でぎゅうぎゅう押しながらある程度血を出してしまう。噛んでいると、指先の感覚はかなり死んでいるので噛みちぎりそうになってしまうと気付いてからは僕は指をかまない。左手の指の感覚は死んでいるが右手は健在だからいいのだ。それにある意味右手(というより利き手)が命なのだから。
 僕がぼんやりしていると、カシマさんがうっす、と言いながら僕の隣に座って煙草を吸いはじめた。
「休憩ですか?」
僕が聞くとカシマさんはにやりと笑って煙草の煙を吐いた。
「納期が迫っとるからのぉ。あんまり休憩ばかりでも仕方ないとは思うが、頭の高さが揃わんことにはどうしようもないしな。それに、適当にしよったら工業規格品のあの100円ショップとかで売りよるのよりもひどくなっちまうからの」
 カシマさんの言葉はいちいちもっともで、僕は大きく頷いた。安さを求めるという意味では100円ショップは間違いではないが、僕たちのこの職人魂のこもった作品と比べられるのは悔しい。僕なんかまだ5年の新米だけど、親方はこの道45年の無形文化財級だ。
「それでもお前の腕もまあまあになってきたじゃねえかよ、タカ。今だったら100円ショップよりはましだろうが」
カシマさんに言われて僕は照れくさくなって頭をかく。最初の頃といえば僕は正しく素人同然で、針使いどころかその前段階の糸のほぐしさえまともに出来ず、その段階でまだ弱かった皮膚が破れて糸を血に染め、親方から何度もゲンコをくらった。
「あの頃のことはもう勘弁して下さいよう。カシマさんだって最低だったって、親方言ってましたよお」
くくく、とカシマさんは僕のささやかな反撃に笑う。誰だって最初は最低よ、と言って大体、と付け加えた。
「あれに手作業の高級品があるとは思っとらんかったろ?」
「そーですね。でも、親方の作品使った時にすげえ目が覚めたっていうか、ぱあーっと目の前が開けたっていうか、これだ!って思ったっていうか、とにかく感動したんです、僕」
 あれはまさしくカルチャーショックという奴だったのだと、今なら思う。とにかく親方の作品の使いごこちときたら、今まで僕が知っていたあの工業製品たちがもう痛くて痛くて仕方がないくらいのふわふわ感、浮遊感と言っていいほどの最高さだ。一昨年位からやっと針うちをさせてもらえるようになった。糸ほぐしは指の皮が剥けてきつい。
 気づくと血は止まっていたので僕は工房に戻った。途端に射るような光が目に尽き刺さってくる。それをこらえて席に座ると、親方が僕のそばへ膝をついて、やりかけの一枚の最後のあたりを指した。僕が針を刺してやめたあたりだ。
「この辺、頭の高さが違う。大した量じゃないから調整し直しとけよ、タカシ」
 いわれてみるとその通りだった。僕ははい、と素直に返事をして糸の端を引きながら高さを調整する。全ての糸はつながっているので少しづつずらして調節すれば何とか形は整うのだ。特に親方の指摘した箇所は、発注先の名前の入った一番大事なところだったから気を使う。
 今回の発注先は北陸の温泉旅館で、サービスだとかアメニティだとかに気を払うというので有名なところだった。僕は正直なところ、それは宣伝で真実がどうだか分からないと思っていたのだが、僕たちの工房に発注がきたことで確信した。あの温泉旅館は日本一だ。
 僕は色の違うロゴの部分の調整を終えて親方のところへ持っていく。これでOKがでれば僕の一枚は完成だ。親方は僕のそれをためつすがめつみていたが、やがて
「ま、いいだろう」
と言ってくれた。いつの間に戻ってきたのか、カシマさんが後ろでやったなタカ、と言葉をかけてくれた。嬉しくて涙が出そうだ。何しろこれは僕の最初の作品になるはずだからだ。
 僕は何度も何度もうなずきながら「能登半島 K屋旅館」のロゴと電話番号の入った、僕が一本一本植毛したタオルを握り締めて涙をこらえるのだった。

《神経麻痺 終》