腱鞘炎

 僕はずっと痙攣している右手の筋を押さえてため息をついた。ミレニアムなんかくそくらえだ。普段でもいわゆる「げろ忙しい」ってのに、それ以上の仕事を振り分けられて死にそうだ。目もちかちかする。地模様だからなぁ。
「タカ、適当に休めよ」
僕の正面の作業台に座って、僕と同じように右腕を押さえながらカシマさんが言った。僕は頷いて窓の外へ視線をやった。
 日没はとうに過ぎ、既に夜の闇の向こうに明かりがちかちか瞬いている。夜景というには若干御粗末だけど、ま、ネオンがきらきらしているよりは目に優しいだろう。ボスが向こうで黒いインクのついたペン先を洗っている。僕やカシマさんの仕事は失敗してもかなり誤魔化しがきくが、ボスの仕事は失敗が許されない。ペンを動かす範囲は僕たちの方がずっと広いのだが、実はボスの方がずっと重要な仕事をしているのだった。
 もちろん僕たちもいずれ、ボスのしている仕事の方へ手を染めることになるだろう。だけどそれはまだ大分先で、僕なんかはまだまだその地模様さえきちんと書けないんだから仕方がない。ボスのように、書く面積が少なければ楽っていう単純なものでもない。ボスの失敗というのは、僕たちの仕事のやり直しを意味するから、逆に僕たちは気楽だ。
「カシマさん、スプレーします?」
僕は筋肉疲労快復用のコールドスプレーを自分の腕にぶっかけながら言った。おう、とカシマさんは嬉しそうに頷いて腕を差し出してきたから、僕はそこへぶしゅぶしゅとスプレーをかけた。
「今年は忙しいの、タカ。11月も最悪だったがな」
カシマさんは苦笑している。そうですね、と僕も併せて仕方なさそうに笑った。
「しょうがないっすよ。ミレニアムですし、うちの新型も出るし、記念に買うっていう例のファン以外のパンピーの多いことっていったら。日本人って本当、記念が好きですよね」
あの妙にコアな彼らの数は思っているよりは少なくて、彼らだけなら僕たちはそれほど恐くない。実は、不特定多数の一般人の方がどれだけ押し寄せてくるか解らないから恐いのだった。僕たちの苦労して作り上げたアレ(カラー部分は流石に会社が刷りあげてくるけど)が売り切れるならともかく、余らせてしまったら捨てるしかない。それはとても切なくて、予測を違えた上司にむっとするだけでなく、ひどい脱力感に襲われるのだった。
「テル、タカ、仕事せんか」
ボスに言われて僕たちははーいと疲れの滲んだ声で返事をして、作業台へ戻った。僕は自分のペンをとる。ペンダコは既に中指を変形させている。ずっとペンを握っているとタコの表面も柔らかくなってきてひりひりする。そこへカシマさんが例の
「かーさんがよなべをしててぶく~ろ編んでくれた~」
という、「手袋の歌」を歌いながら軟膏を擦り込んでくれるのが僕たちの固定ギャグだ。ただ、最近の状況としては夜なべ、が冗談ではなくなりつつある。なにしろミレニアム、だ。
 僕はペン先にオレンジ色のインクをつけた。地模様だよな、本当に。僕は何時もの通りに無心に「JRJRJR……」とひたすら書き続ける。続き文字になって細かく地模様で続いていくそのJRの書き込みが、斜めにおりてびっしりと僕の手元の台紙へ書き込まれていく。普段書いているものはもっと大きな厚紙だけど、これは記念品だからそのカラー口絵の端にちょこんと入っている、やや小さめのところだけだ。楽か、といわれるとそうでもない。実は、大きな台紙の方が手を動かしやすくてずっと楽なのである。
 僕は出来上がった50枚をまとめてボスのところへ持っていった。ボスはその時書いていた一枚を終えてから、僕の作った台帳をぱらぱらとめくった。
「ここと、ここと……それからこれ、3枚不合格」
つっかえされた台紙をごみ箱へすてて、僕はまた椅子へ座った。本当はもっと駄目なものもあるんだろうが、それはボスが上から入れる文字の部分にかかるから誤魔化しきれるんだろう。そしてボスも、印刷のずれを装って僕やカシマさんの手の滑りをフォローしてくれるのだ。
 僕はボスの手つきを眺めてため息になる。早くボスのしている仕事へ僕も登りつきたいものだとおもった。そうすれば、夜中に右腕の筋肉が引き釣ってずっと痙攣しているということも無くなるだろうに。
 ボスが「2000/1/1」の日付と「幸福駅」の駅名ロゴ、そして初乗りの「210円」を書いている。ミレニアムまであとわずか。僕たちは今年もまた、除夜の鐘を聞きながら、この工房で記念切符の地模様と切符の額面を書くのに追われるのだろう。

《腱鞘炎 終》