1月1日 午前0時

 紅白歌合戦がどうやら紅組の勝利で終わる頃、俺は愛用の綿入れはんてんにジャージという20代男独身彼女なし、の身としてはごく普通の格好で年越しのビールを飲んでいた。こたつの上にはつまみのスナックと、コンビニで買ってきた弁当の食い残しが適度に散らかっている。彼女がいた去年の冬はこんなじゃなかったのだが、と思っても取り返しは今更付かないだろう。
(他に好きな人が出来たの、ごめんね~)
 などとあっさりふられた俺としては馬鹿女死んでしまえと言うのは簡単だが、淋しいのは確かだった。せめて大晦日くらいは友人達を呼んで鍋パーティーでもしようと思っていたのだが、今年は俺以外、みな彼女持ちなのだ。仕方なく、俺はこたつにもぐりながら紅白と裏番組だった野獣ボブ・サップを交互に眺めるという実につまらない、ごく普通の正月に突入しようとしていた。「行く年来る年」のどっかの寺の鐘が鳴り響いている。
 何とはなしに除夜の鐘に合わせてスナックをぽりぽり食べていると、何の感慨も湧かないまま新年が明けた。せめて彼女持ちのやつらの邪魔でもしてやるかと携帯にかけてみるが、年始の数時間はそういえば繋がりにくくて、結局誰も捕まらない。ますます面白くない、と俺はくしゃみを一つして、新しいビールを取りに台所へ向かった。
 玄関のブザーが鳴ったのはその時だった。チャイムというほど可愛くない、ひび割れた音が一度鳴り、一瞬おいて二度なり、そしてノックの音がする。
「はーい! はいはい、今開けます!」
 俺は怒鳴って玄関の脇にあるドアを開けた。
「はいどちらさ……」
 俺は言いかけて扉の前に立っていたモノに変なところで言葉を飲み込んだ。
 最初に目に入ったのは、できの悪いフランス人形が来ているような、変にぴらぴらしたレースのついたスカートのすそだった。こういう服はなんて言ったのか……とにかく、俺の知り合いにはいない。人違いだろうと俺は咄嗟に思った。夜中にまさか訪問販売じゃあるまい。あれは夜8時以降、違法なのだ。何せ俺の仕事はそのアポと販売員のコーディネイトなのだから、間違いない。
 俺はそれを言おうとして顔を上げ、相手の顔をまじまじと、正面から見つめることになった。たっぷり3秒くらいは放心していたような気がする。
 そこに立っていたのは真っ黒のレースぶりぶりのドレスを着込んだ羊だったのだ。
 毛が白くて顔が黒い、あの羊。
 大きな巻き角がついている、あの羊。
 それが後ろ足で普通に立ち上がり、変なドレスを着込んで、正月に、俺の家の前に、立っている。
 あの文節ごとに切った紙を組み合わせる遊びを俺はぼんやり思い出した。
「こ・ん・ば・ん・わ~!」
 突然キンキンした女の声がして、俺は羊を見つめた。そっか、スカートはいてるし、こいつメスなんだな……じゃなくて。何を言っていいのか分からないままぽかんと口を開いて玄関に立ちつくしている俺に、羊はぬっと顔をつきだした。思わず俺はのけぞるようにしてそれをよけた。
「こっんっばっんっわ~!」
 羊はさっきよりも更にキンキンした声で怒鳴った。
「こ、こんばんわ……」
 気圧されて俺は思わず挨拶をした。そうすると羊はうふっと吐息で笑った。
「こんばんわっ、イトウ・アキラさん、ですよ、ね~~っ?」
 俺は首を振る。とんでもないことに巻き込まれる予感がビンビンする。正直にイトウ・アキラは俺ですがなどと言ったらこのまま羊ペースで話が進みそうだ。だが、羊はぬふふふんと笑った。
「嘘ついちゃ駄目で~す。だって表札にイトウって書いてありま~す!」
 不覚……というよりも、誰がこんな事態を想定して表札を外す? 俺はおもむろにドアを閉めた。夢だな、と呟く。そうだ、これは夢だ。悪い夢……と思いこもうとしたその側から、ブザー連打とドア爆撃が始まった。俺は慌ててドアにチェーンをかけ、一度諦めて放り出してあったままの携帯を掴んだ。必死でメモリーからかけていると、20回目でやっと友人エンドウに繋がる。7コールをおいて陽気な声が聞こえてきた。
「はぁ~い、アキラちゃ~ん! ハッピーニューイヤー!」
 エンドウは上機嫌だった。そういやこいつはこの前のクリスマスが初デートだとほざいていたから、まだまだ甘い気分でいるのだろう。携帯の向こうでエンドウの彼女がアキラ一人~? などと吠えて二人で笑っているのが聞こえる。いつもの俺ならここでブチギレで電話を切るのだが、今日はそんなわがままを言っている時ではなかった。可及的速やかに、どうしても、誰かに聞いて欲しい話があるのだ。
「エンドウ、羊がいるんだ」
「羊? 何の羊?」
「いや、品種は分からないけどとにかく羊。変なびらびらした服着て、俺の家のドアを壊しそうな勢いで叩いてる」
「ははは、アキラ面白いぞ!」
「違う面白い話じゃない! いやマジ、マジだって。マジに俺の家の前に変なワンピース着た羊がいて……」
 言いながら俺は、その眩暈のしそうな事実がどんなにネタくさいかを思い知ったような気持ちになった。
 逆に俺に問おう。エンドウから電話がかかってきて、『変な服を着た羊が俺の家に万歳アタックをかまそうとしている』と言われたら俺はなんと言うだろうか。
 ……新年明けましておめでとう、そのネタはもっと練っておけよ……か……な……
「アっキ~ラちゃ~ん、ハッピーニューイヤー! そのネタ、もっと練れたら聞かせてくれよな! じゃ!」
 エンドウのその声を最後に電波がぶつりと切れた。俺は10秒ほど携帯を見つめ、訳の分からない雄叫びをあげてこたつに突っ伏した。ブザー連打とドアアタックは交互に30秒ずつくらいの周期で繰り返されている。俺は携帯をもう一度取り上げて、警察に電話した。流石にここだけは回線がどうとかいうこともなく、すんなりつながる。
「はい110番です。どうしました?」
 オペレーターの平坦な声に向かい、俺は叫んだ。
「すみません、羊が、羊が俺の家に攻めてきました!」
 思わずそう怒鳴ってから、俺は攻めてきたという言葉に自分で身震いした。あの勢いは、まさしく攻めの姿勢だった。翌朝のニュースで俺の死亡と荒らされた部屋に残る謎の蹄跡について報道される……というような幻覚まで浮かんでくる。
「羊ですか?」
 オペレーターの声が聞き返してくる。エンドウのような浮ついた調子でなかったことで俺は多少落ち着いて、そうです、と出来る限り重々しく聞こえるように言った。
「羊です。羊なんです。ちゃんと角があります」
「あのですね、警察も忙しいので悪戯電話は止めてくださいね」
 そして不通音。携帯を見つめて俺はしまったと呟いた。だからさ、羊じゃなくて誰か知らない人が暴れてますって言えば良かったんじゃ……
 もう一度かけ直すと、同じオペレーターが出た。あのう、と言った瞬間に切られた。
 ブザー連呼とドアたたきはまだ続いている。俺は覚悟を決めてドアを内側から叩き返した。
「お前、とにかく帰れ! 帰れったら帰れ!」
 俺が怒鳴ると、外から聞こえてきたのはあの羊の突き抜けるような高い声ではなかった。
「イトウさーん、大家ですけど~」
 この騒ぎを聞きつけて、誰かが近所に住んでいる大家に電話でもしたのだろう。俺はチェーンを外してドアを開け、顔をしかめた。大家の後ろにいるのはあの羊だった。俺が出てきたのがそんなに嬉しいのか、にまっと笑う。俺は怖気だって思わず余所を向いてしまった。
「あのねぇ、イトウさんねぇ、この羊ねえ、なんかあんたの知り合いだって言ってるんだけど」
 違います、と俺ははっきり言った。こんな羊、知るわけがない。というか、羊という時点でアウトだ。
 羊はええ~っ、と相変わらず甲高い声を出した。
「だってぇ、お正月は一人だからぁ、お手伝いに来いってアキラ君言いました~」
「言ってねぇよ」
「言ったもん!」
「知り合いなら俺の携帯ならしてみやがれざまーみろ」
 正月開けて早々ということで電波の状態が悪いことは承知している。この羊がそもそも俺の携帯を知っているわけがないのだが。
 ───と、思っていたら手に握りしめていた携帯が中島みゆきの「地上の星」を歌い始めた。……おそるおそる取ってみると、目の前の羊と携帯越しの音声が、まったく同時に同じ声で
「アキラ君、ハッピーニューイヤー!」
と叫ぶのが聞こえた。
「じゃ、知り合いって事で。ああそうそうイトウさんねぇ、うち、ペット禁止だから、そこのところをよろしくね」
 大家がそれだけ言って去っていく。
 ペットって問題じゃないでしょ?! と叫ぶ俺を羊毛ごとで押し込むように家に入れて、羊はうふっと鼻息で笑った。
「あたしの名前は、メリーでぇっす! アキラ君のために派遣されてきました! あたしはアキラ君の奴隷なの。あたしを好きにしてね」
「じゃあ帰れ」
「いやぁ~~ん」
 羊はくねくねと奇妙な腰つきで身体をよじった。
「じゃチェンジ」
「い・や・あ・あ・ぁ~~ん」
 むふむふと変な鼻息で含み笑う羊。玄関先で対峙しながら俺は何となく、つけっぱなしになっていたテレビにあゆが映っているのに気付き、このままこたつに戻って何事もなかったようにテレビを続ける衝動と戦っていた。
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