1月4日午後3時

 俺は思いきりくしゃみをした。その途端、ぶるっと毛布の中で体が震えた。
「あらあら~アキラ君、カ~ワイイ~~」
 相変わらず羊は自分勝手なことを言い、自分の言葉にむふむふ口の中で興奮していた。やっと買い物に追い出してから誰のせいだよと俺は口の中で呟いたが、声には出さない。風邪を引いたせいで力は出ないし、下手なことをうっかり言えば弱っている今だから抵抗する術もなく俺は羊のものになっちまう。
 そもそも羊が俺のものになるという話だったはずなのだが、最初から羊のペースで全てが進んでいる。何がメリー・ラブ・アタックだ。羊は異様という程重く、そのせいで腰を傷めたのか、微妙に痛い。破壊力という意味に置いてアタックの名称は適切かとは思うが、それ以外は全く認めたくない。
 夕べは我が人生最悪の時間だった。羊は暴れたり怒鳴ったりはしなかったのだが、一晩中風呂場の扉の向こう側で
「ア・キ・ラくぅ~~ん、メリーのこと嫌いなのぉ?」
 といった調子のことをほざいており、その甘ったるい声からして、出ていったらこっぴどく犯られると分かったのだ。いや、分かるって普通。
 それで俺は風呂場で貫徹したのだが、何せ寒い。暖房の入らない冬の風呂場で夜明かしなどするもんじゃない。結局あの女から電話はかかってこなかったし、羊に襲われるし、寒さに負けて風邪は引くし、本当に最低だ。
 朝、どうやら風邪らしいと見当をつけて風呂場から出た俺に貫徹あけの真っ赤な目で羊は突進してきたのだが、俺が風邪だと知ってそれ以上襲わなかった。
「じゃあ~メリーが看病してあげるっ! そうよね~、やっぱ愛は少しずつ育むものなのでぇ~っす! メリー間違ってたの、ごめんねアキラ君」
 そんなことを実に楽しそうに宣言して俺を布団に押しこんだ羊。
 突っ込むところはたくさんあり過ぎていちいち指摘するのも汚らわしいが、俺のこの受難は6日の月曜日には解消されるんだろうなぁ……? あの会社がとてつもなく融通が利かなかったりしたら、『当選の権利は譲渡できません』の一言で終わらされる可能性が──……
 俺はそんなことを一瞬想像し、ぶるっと震えた。冗談じゃない。羊にこの三日間以上の災いをもたらされてたまるものか。今だって散々な目に遭っている。
 俺が布団の中で長い溜息をついたとき、羊が買い物から戻ってきた。非常にナチュラルに俺の財布を持っていきやがったのだが、怒る気力さえ尽きかけているのはやっぱり風邪のせいだろう。何せ、熱が38度6分もあるのだ。
「アキラ君ただいまぁ~! メリーがいなくて淋しかったぁ?」
「うるさい、喋るな」
 こいつのアニメ声は本当に頭に響く。俺は布団を頭まで被って羊に背を向け、テレビをつけた。もう三が日が明けたせいで番組も次第に元通りになりつつあるが、それをぼんやり眺めていると、羊がねぇ~んと甘えた声で俺の肩を揺すった。
「これこれ、これ買っちゃったの! ねぇ似合う~~ん?」
 俺は羊に目をやらず、はいはい似合うねぇと呟いた。羊は甘ったれた鼻息をぬふぅんと鳴らし、寝転がる俺の首に前足を巻き付けた。角が俺の頬をごりごりこすって痛い。
 やめろ、と俺は羊を押しのけ、そして羊の格好に気付いてうぇっと言った。
 羊はいつものあの妙な服ではなく、薄いピンクのナース服を着ていたのである。
「ど、ど、どうしたんだ、ソレ」
「あらぁ、似合う~~~ぅ?」
 羊は例によって上半身をよじるようにクネクネした。その仕草とこの格好は一体どういう了見……というところまで来て、俺は頭を抱えた。こいつ、俺の財布持って出ていったんだったな……ということは、俺はこの羊にコスプレ衣装を買ってやったことになる。
「おい、その服代、返せ」
 俺は凄んで見せたが羊は全く気にしていないどころか、
「えっ、やだぁアキラ君ったら、そんな遠慮しなくたって~~」
 遠慮って言葉の意味知ってんのかコイツは。
 俺は布団の上に起きあがり、ナース服の胸ぐらを掴んだ。
「おい羊、お前いい加減にしろ、出てけ!」
「いやだぁ、アキラ君ったらエッチぃ!」
 羊の言葉に俺はきゃつの胸元から慌てて手を離した。羊は相変わらず鼻息で何か気味の悪い笑い方をしている。しかも目が動物の目そのものでまったく表情が変わらないのがなんだか怖い。
 ……昨晩襲われたことがしっかりトラウマになっているのかもしれん。ああ、どうして俺がこんな目に遭わなくちゃならんのだろう。こんな目に遭っているべきは元彼女のあの女であるはずだったのに!
 俺は出ていけ、と怒鳴って布団に潜り込んだ。と、それを見計らっていたように布団越しに、俺の携帯の着メロ「地上の星」が流れ始めた。俺が布団から顔を出すのと、羊が俺の携帯に出るのと同時だった。
「はいは~い、イトウですけどー!!」
 キンキンした声が俺の頭痛を直撃して、俺は思いきり顔をしかめる。何で人の携帯に勝手に出るんだ、羊!
 俺はうふうふと上機嫌に電話の相手と話している羊から携帯を奪い取り、もしもし、と不機嫌に言った。
「ようアキラ、新しい彼女おめでとう!」
「エンドウ……今のは忘れてくれ。彼女じゃない。まったくもって彼女なんかじゃ、絶対にない。頼むから後生だから今のは忘れてくれ」
 エンドウは電話の向こうでへえへえといい加減な返事をしている。お前なあ、と俺が苛々した声を出すと、エンドウはごめぇん、と変なアクセントで含み笑いした。
「今のが例の羊ちゃん? 可愛い声してんなぁ、あはははは」
「お前どういう耳してんだよ」
 反射的に返しながら、エンドウが何故電話してきたか、俺は分かったような気がした。コイツはおもしろがっているのだ。思えば新年早々電話が繋がったのがコイツしかいなかったせいで、突端の羊パニックに陥っている俺の電話を取ったのがエンドウなのだ。
「えー、だってさあ、なんかマニアックなアニメとか出てそうな声じゃん?」
 実を言うと俺はアニメが大嫌いで、特に女声優の変な声を聞くと反射的に虫酸が走るのだ。首の裏がぞわぞわする。俺は首をぐるぐる回してやめてくれよ、と言った。
「俺はアニメ声って嫌いなんだよ。きしょいよなぁ?」
 と、それに対するエンドウの返答よりも、背後での羊の絶叫が早かった。
「えーっ、アキラ君アニメ嫌いなのぉ?! どーしてぇ?! あたしの声ぇ、みんな可愛いって言ってくれるよー?!」
 みんなって誰だ。
 俺は一瞬そんなことを思ったが、話を始めると長そうなので言わなかった。この羊の作りまくったキンキンのアニメ声と長時間喋ることを考えただけでぞっとする。
「うるさいっ、ダチと喋ってんだから黙ってろ!」
「おおっ、亭主関白だねぇ」
 エンドウが電話の向こうでちゃかしている。俺は電話に向かってお前も黙ってろと叫び、途端咳き込んだ。興奮したせいなのか、くらくらする。
「あらあら~、ダメぇアキラ君、興奮しちゃ、ふほほん」
 羊の言葉に俺はもう一度うるさいと怒鳴り、愛用のはんてんを着込んでトイレへ入った。とりあえず換気窓があるから電波は入るのだ。
「何だよエンドウ、俺はあの羊のことで取り込み中なんだよ」
 俺が不機嫌に言うと、エンドウはいやぁ羊ちゃんどうしてるかなって思ってさ、と悪びれずに言った。完全にネタか面白小話だと思っていやがるのだ。
「どうじゃねぇよ、昨日なんか俺、奪われそうになったんだぞ?!」
 ここぞとばかりにまくしたてると、一通り聞き終わったエンドウはなぁんだ、と笑った。
「ダメだなぁ、アキラ。据え膳食わぬは男の恥だぞ!」
「据え膳とかいう問題じゃねぇんだよ! だから羊! 羊だって!」
「分かってる分かってる、俺もそんな子羊ちゃんにお目にかかりてぇなあ」
 分かってねぇよ、と俺は呟いた。エンドウはやっぱりへらへら笑いながら、刺激のある正月でいいよなぁと言った。
「俺なんか、彼女とまったりするくらいしかしてねーからな、むふふ」
「のろけるなら切るぞ」
 どいつもこいつも俺の災難をなんだと思ってるんだ。いや、「何」だと思われているかは何となく分かる。ネタだ。
「ネタじゃねーんだよ。エンドウ、お前今日遊びに来い。マジで羊だから」
「部屋中毛だらけとか?」
 毛? と俺は聞き返した。
「そう、毛。動物なら多少毛が抜けたりするからな。部屋中羊毛まみれ」
 いや、と俺は呟いた。そういえば家の中には羊毛一筋落ちてない。大体俺の髪だったりする。そんなことを言うと、エンドウはへへぇと笑った。
「じゃあ案外着ぐるみだったりしてな。中に人が入ってる。背中にチャックあったりして、ナハナハ~」
 エンドウの言うことはいつも訳わからん。だが、そうだ羊の傍若無人ぶりに全くその部分には目がいかなかったのだが、後ろ足で普通に直立二足歩行するし、足は意外と細いし、言語感覚は全く普通の日本人だ。あの羊が普通じゃないのは行動パターンの方である。
 エンドウが面白がるのを適当にかわして俺は電話を切り、部屋に戻った。風呂場といいトイレといい、やっぱ水場は寒い。
 羊はナース服のままで俺にいざりよってきたが、俺は激しく咳き込むふりで布団に入る。相変わらずの甲高いアニメ声で羊は何かを言っていたが、俺はそれを全部無視して呟いた。
「お前、中の人ってどうやって入ってんの」
「……えっ? や、やだ、アキラ君、メリーはメリーだもんっ。中の人なんかいないもんっ、変なこと言うのアキラ君、嫌いになっちゃうぞっ」
 嫌いになってくれたらどれだけいいか。
 だがしかし、明らかに声がおかしい。つうか、あのアニメ声ではなくて普通の声だ。こうなるとエンドウの『背中にチャック』説が急に素晴らしく見えてくる。すごいぞエンドウ! お前は羊の行動パターンをよく知ってる!
 ……まさか中にいるのがエンドウということはなかろうな……
 と一瞬思ったものの、そういえば最初の羊襲来の時には彼女と一緒だったはずだ。だが『背中にチャック』。もしかして中に本当に人が入ってるのか?
 何故かいそいそとその場を立って台所へ行く羊を見送り、俺は決意を固めた。
 俺は戦わねばならぬ。羊を追い出し、俺の部屋に平和を取り戻し、平穏で平凡な毎日を送る為に。
 俺は必死で闘争せねばならぬ。とにかくあの羊にこれ以上の無体を許してなるもんか。
 あの動揺ぶりはただごとじゃない。多分、いいところをついたのだ。奴を追い出すきっかけをつくるため、隙を見てチャックを探そうと俺は布団の中で深く深く頷いた。

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