1月6日午後11時

 新年会がやっとあけ、俺はほろ酔いでアパートに帰った。相変わらず景気は良くないし、上司とはそりが合わないし後輩は何考えてるか全然分からないのだが、少なくとも羊よりも会話が成立する相手に久しぶりに巡り会えたようで、俺はほっとした。世の中の普通さ加減に触れていると、俺を襲ったこの5日間の悲劇が本当に異常な事態であったことがひしひしと感じられる。
 ああ、二度と会いたくない羊。
 そして俺はニヤニヤと笑う。今頃羊はどんな暴れぶりだろうか。ミホとその彼氏のあわてふためきぶりを思うにつけて、俺は何となく楽しくなってくる。エンドウの気持ちが今ちょっとだけ分かった。それを世間様では『他人の不幸は密の味』というのである。
 あの中身が何であったのかとか、そんなことは今は考えても意味がないし、考えたくない。大体あのチャック開けた瞬間の、ぷ~~んと漂ってきた蒸れた髪と垢の臭い……おえぇー。
 俺は嫌なことを思い出して顔をしかめ、景気づけに家で飲み直すため、酒を売っているコンビニへ向かった。コンビニで適当につまみと酒を物色していると、視界の隅に何やらもわっとした固まりが空中を浮遊しているのが見えた。羊の首みたいなのが、宙に浮いているのだ! 俺は仰天してコンビニの前を通りすぎていく羊の首に視線をやった。
「……うっそぉ…………だろ」
 それは羊だった。首だけに見えたのは奴がいつも着ている……ええとミホの言うことが正しいならゴシックロリータ? の服が黒かったので、街灯の少ない夜中の町並みに体の線がとけ込んでしまっていただけなのだ。
 ひ、羊……ナゼカエッテキタノデスカ……
 俺が固まっていると、羊が急にぐるっと首を回した。ひいっ、と俺は喉で悲鳴を上げた。首は真後ろにぐるんと向き、がくっとうなだれたのだ。B級のホラー映画を見ているような光景に俺は後ずさりした。
 羊はおもむろに両手で自分の首をはさみ、更に同じ方向にぐるっと回して前に戻している。スゴイものを見てしまった……というか、何故ここにいる……
 と思っていた瞬間に、俺の携帯が鳴った。非通知。俺は電話を取るなり叫んだ。
「おい、羊! 羊が俺の家の近くにいるぞ!」
 コンビニの中の視線が一瞬俺に向く。俺は慌てて表からは見えない棚の影に入り込み、素早く続けた。
「あの羊はお前のだろう、お前が欲しいって言うから俺は3ヶ月間も焼きそば食ったんだぞ」
「いらないわよ、あんな羊!」
 電話向こうのミホも相当切れかけている。あの女がパニックになりながら怒る時の声だ。
「あの羊、昨日連れて帰る途中で彼のシボレーで吐いたのよ?! 彼のシボレーはね、限定カラーの高い革シート張ってんのよ?! それに何よ、象みたいに食べるし彼に迫るし! あたし、あの羊に角でつつき回されてアパートの階段から落ちて、足ねんざしたんだから!」
 ……俺はうっかり吹き出しそうになって、それを飲み込んだ。なるほど、羊はどこまでも羊味なのだ。
「だからって俺のところに返すことねーだろ。N食品に……」
 言いかけた時、ミホの金切り声が電話から怒鳴った。
「N食品に電話したらね、郵送はもう去年の10月に終わってますって言ったわよッ! あんな羊使って、あたしに何の嫌がらせ?! あたしが彼と結婚するから? あんたのそんなところが嫌で別れたのよーっ!!!」
 最後は絶叫だった。ミホ、相当テンパっている。俺は電話を切った。羊のしたことは俺の責任じゃない。あのシボレーカマロのシートにはいたのは災難だったなとしか言いようがないが、しかし羊パワー恐るべし。
 そして俺は怪情報に溜息をついた。
 N食品は10月に当選の等身大メリーの郵送は終わっていると言ったようだ。しかも「郵送」である。つまりそれは普通の等身大ぬいぐるみじゃないのだろうか。
 ……じゃ、俺の正月をめちゃくちゃにしてミホの彼氏の大切な大切な限定カラーの皮シートにはいたあの羊は……一体何なのだ。
 いやそれよりも、あの羊が俺の懸賞葉書を何故持っている。そしてどうして俺のところに来た。今まで何となく納得は出来ないが分かってはいた事が全部嘘だったとしたら。
 突然ホラーのようになってきた展開に俺は羊が夜の闇に消えていくのを見送りながら唸ってしまった。大体こんな気味の悪い話、まんま都市伝説じゃないか。そんなのは学校のトイレの花子さんのように噂の中の怖い話だと思っていたのに……
 そして俺ははっとした。
 羊は多分、俺の家に向かっている。あの方向は間違いがない。ミホたちは俺のアパートまで連れて行ったのかも知れないが、俺はたまたま新年会とその後の3次会までつき合ったせいで遅かった。しばらくぶりにあったスナックのエリちゃんが、別に今まで大して美人だとか話が面白いとか思ったことがなかったのにやけに素晴らしく見えたのは羊のせいなのか、これはおかげというべきなのか。
 い、いやそんなことはどうでもいい。羊は……俺の家の前で待ち伏せているのか……? だとしたら、家は危険だ。危険つーか、それは帰ったらとんでもないことになりそうだ。
 俺は少し考えてから、エンドウにかけた。
「よっすアキラ、どうしたー? 羊ちゃん、まだ家にいんの? ねぇねぇ、中身はどんな可愛い~~い子羊ちゃんだった?」
 俺は一瞬でもこいつにラーメンをおごってやろうと思った自分を本当に馬鹿な奴だと思った。だがある意味、羊の生態と行動論理を読めるのはエンドウしかいない。羊は常に俺の思考の斜め上をアクロバットで飛んでいる。
 俺は手短に昨晩のことからを説明した。ふーんとエンドウは頷いて言った。
「いや~、そりゃあアレだ、さっさと警察に電話した方がいいよ。お前のGショックコレクション、今度こそ危ないと見たね」
「いや、家にはちゃんと鍵をかけてきてるけど?」
「馬っ鹿だなー、お前を置いて買い物に行った時に俺なら合い鍵を作るね」
「あああああ合い鍵ィ?」
 俺は文字通り飛び上がった。そうだエンドウの言うとおりだ。コピーなどという邪悪なことを簡単に思いつく羊……ああ、俺のGショック!
 俺はエンドウに簡単に礼を言い、警察に電話した。
「あのっ、もしもし、羊が俺の家に入ってGショックを漁ってます!」
 ……切られた……俺の馬鹿。馬鹿馬鹿。なんで毎度同じ過ちを繰り返すのだ。だから「知らない人が俺の家の前で張ってます」とか「鍵を渡した覚えのない知らない人が俺の部屋に入っていきました」とか言えばいいんだよ!
 俺は悔やみながらざっとコンビニの中を見渡した。殺虫剤をぶっかけるという手もあるが、相手は着ぐるみ(しかもかなり分厚そうだ)である。チャッカマンもあるが、マジで燃やしてしまったら今度は俺が犯罪者だ。あの羊の為に人生を棒に振るのは……イヤだーーーーー!! 絶対に、絶対、い・や・だ!
 とにかく武器だ。奴に対抗するにはもう物理攻撃しかない。俺は真剣な顔でコンビニ中の棚を物色し、そしてソレを買った。ビニール傘。これで突いて突いて突きまくれば結構痛そうだと俺はほくそ笑み、家路についた。
 羊はやっぱり俺の部屋の中にいるようだった。部屋の灯りがついている。俺はとりあえず、深呼吸する。何をしているのかは知らないが、とにかくあの羊を追い出さなくては俺に平和は訪れない。諸歌やら目的やらなどは、後でゆっくり考えてもいいことだ。
 何故新年早々から俺はこんなバイオレンスな生活をしてるんだ? そんなことを思うととてつもなく悔しくなってくる。自分に車とミホの住所のメモさえあれば、再びやつの家の前にでも捨ててくるものを。
 俺はビニール傘を握りしめ、玄関のドアに鍵を差し込んだ。鍵ががちゃりと回る。俺がそっとドアを開けると、奥から地鳴りのような音と共に羊が突進してきた。
「きゃぁあ~、アキラ君っ、お・か・え・りぃ~! メリー、待ちくたびれちゃったぞ、ぷんぷんっ」
 そんなことを絶叫しながら俺に飛びついてこようとする。俺はさっとビニール傘を構え、羊に突きだした。
「食らえ、俺の怒り!」
「ぬほほほほほ~!」
 羊は甲高いアニメ声で笑い、それをさっとよけた。俺は傘で羊を追い回した。羊はいつもの変な笑い声を立てながら、俺の攻撃をかわしていく。く、きょ、巨漢のくせに気持ち悪いくらい素早い……!
 俺が正真正銘パニックになりかけた時、ブザーチャイムが鳴った。丁度玄関の脇にいた俺はドアを開けた。ここに他人が介入してくださるならもう何でも良かったのだ。
 外に立っていたのは大家だった。俺と羊を交互に見て、イトウさんねぇ、といやみたらしい口調で言う。
「最近ずっとうるさいって苦情きてるよ。今日も夜中にばたばたやっちゃって。あ、それとうちはペット禁止だっていったよね」
「ペットじゃない! あんなの俺のペットじゃないです! 大体あれは着ぐるみで中に人が……」
 言いかけた時、羊がきゃーっと変な悲鳴を上げた。俺は振り返る。羊はへたへたとその場に座り込んで、ぶるぶる震えだした。
「……見た、……の? アキラ君、あたしの、中、見たの……?」
 低く呟いているのは普通の声だ。やっぱあのアニメ声は作り声なのだ。ああ、そんなものにさえ不愉快さがいやます。
「ペットじゃないの? じゃあさぁ、痴話げんか? 夜中に迷惑になること早めてよね、今度やったら警察呼んで、出てってもらうからね」
 大家は相変わらず言いたいことだけ言って帰っていった。俺はドアを閉める。今すぐ騒ぎを起こして警察呼んで貰ってこのアパートを出ていくというのも悪くないかも知れないと思うのは、俺がもうヤケになっているからだろう。
 羊はまだ俯いて震えている。俺は傘を持ち直し、オイ、と乱暴に言った。
「お前出ていけ。出ていくなら俺の家から金目のものを持ち出そうとしたことだけは許してやる」
 だが羊は聞いていないようだった。見たのねと繰り返している。それが段々不気味になってきた頃、羊はものすごい勢いで立ち上がった。
「見られてしまったのね……正体がばれると光の国に帰れません。あなたのお嫁さんになります」
「は……? オヨメサン……」
 俺はぽかんと羊の台詞を繰り返し、そしてごくりと息を飲んだ。俺が呆然と固まっていると、羊は喉の奥でむほほほほほと小さく笑った。
「だってぇ、あたしが光の国に帰れなくなったのはアキラ君のせいだしっ! だから責任とって結婚してねっ!」
 光の国って何だ! 結婚って誰とだ! ていうか、何故そうなる?!
 俺は羊を突き飛ばし、玄関の外へ走り出た。羊が追ってくるのを直前でドアを閉め、暴れる羊を閉じこめようとドアを外から押さえた。どすんどすんという手応えがする。ぶち破る気か、羊!
 俺は本気で怖くなってきた。いや、アパートの誰でもいいからこれを大家か警察に通報してくれ、頼む! 俺はドアを押さえながらそんなことを必死に願っていると、カツンというヒールの音が夜のアスファルトに響いた。俺はそっちを見た。
 そこにいたのは、俺の救世主だった。

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