第5章 月の下で 1

 しゅっという空気の音にカノンは背後へ跳躍した。
 銀の線が一瞬後に自分の残像を斬る。
 微かにあがってきた相手の呼吸を聞きながら、カノンは繰り出された切っ先を待ってぎりぎりのところで身をかわし、行き過ぎて僅かにたたらを踏む子供のうなじを指で軽く突いた。
「これで15回目のご薨去です、殿下」
 ふっと振り返った子供は照れくさそうに笑い、カノンから離れて大きく深呼吸をした。
「やっぱり駄目だね、まだ全然足りない」
 そんな事を言う口調に淡い悔しさや苦笑めいたものは浮かんでいても、激しさはない。自分の力量の不足についてこの皇子はよく知っているようだし、今の時点でまったくカノンにかなわないことを当然と受け止めているようだった。
「どうなさいます、もう少しお相手いたしましょうか」
 カノンが言うと、皇子は多少考えるような時間をおいてから首をかしげた。
「お前は? 僕はいいけど、お前の方は仕事はいいの?」
「これも仕事でございますよ」
 カノンは仮面の下で淡く微笑みながら言った。軽く咳払いする。
 この1月ほど、カノンはタリアから離れて魔導の塔にあった。変声期という時機に相当する魔導士はあまり仕事には従事しない。魔導が結局人の声を媒介として力を引き出し効果を組み合わせるものである以上、声変わりする頃には何もかもが辛いのだ。
 その期間は役目を特免されて魔導の塔に籠もり、師匠の魔導士について研究の助手などを務めるのが普通である。カノンも例外ではなく、こうして塔に戻って声が落ち着くまでは待機ということになろう。
 カノンの返答に皇子は軽く声を立てて笑った。第1正妃イリーナとよく似た面差しは愛らしく整っていて、やや紫のかかった深い青の髪と同色の瞳が朗らかに人なつこい。それがシタルキア皇国のライン・アミネス第4皇子であった。
 母妃が溺愛するという話は小半時ほどですぐに納得が出来た。
 第1皇子であるリュース・クインはおとなしく控えめで万事ひっそりしているが、こちらは明朗さと嫌味ない甘え方を持っている。これほど素直になつかれると、なるほど愛しいものなのだ。
 ライン皇子にどうやら剣士としての類い希な才能があることは2、3年前から次第に明らかになってきており、既に成人前の子供たちは相手にならない。近衛騎士と混ぜてみても遜色がなかった。
 無論体力や腕力の問題があるからまったく対等というわけにはいかないが、あと3年もすれば公式の剣試合で実はかなりよいところまでゆけるのではないだろうかと言われている。
 公式試合は色を付けた剣を使う得点制だから、技術をより試されるのだ。
 息子の才能を誰よりも喜んでいるのは母親であるイリーナ皇妃で、近衛に預け、そこでも頭角を現す気配を知ると、今度は更なる鍛錬の為に魔導士を要請した。魔導士は魔導の力を借りて時間をより多くの区切りとして掴むことが出来る故に、一般の人間からみえば驚異的な身の軽さを誇っている。
 その役目がカノンに回ってきたのは彼が現在待機期間中であることも理由の端に噛んでいるが、何よりもその第1皇子の護衛魔導士マルエスの推薦が大きい。
 カノンが以前からタリアの赴任に心浮かないことを知っていて、未だに護衛魔導士を持っていない皇子の相手役ということで相性を見るようにと魔導士の管理をひきうけている塔の長老会に進言してくれたのだ。
 その言葉のおかげで、とりあえず変声期の待機期間はライン皇子の側にいる事が出来そうであった。塔や魔導の研究会で会えたら一言礼を言いたかったが、マルエスはリュース皇子の用事とやらで多忙を極めており、対面する機会が未だに無かった。
 ではあと少し、とライン皇子が言った。この冬に11歳になるはずの少年であったが、皆が口を揃えて言うように確かに筋がよく、本人も熱心だ。強くなること自体が面白いのだろう。
 皇子が剣を構えて最初の距離を取る。カノンはどうぞ、と言った。
 皇子が軽く呼吸を切って低く駆け出す。皇子が横に払った模擬剣をふわりと飛んでかわすと着点を見定めていたように彼の胴を狙い、正確に剣がはしった。
 カノンは模擬剣の中程を押さえるように足で蹴り、皇子の脇へ回る。
 均衡を崩した皇子がそれでも受け身をとりながら鮮やかに回転し、勢いのまま素早く立ち上がった。
 カノンは彼の突きを軽くかわし、するりと皇子の背後に回る。
 と、皇子はそれに会わせるようにかかとでくるりと体を入れ替えた。軸にならなかった右足で剣練所の石床を蹴り、カノンの羽織る魔導士の長衣めがけて突っ込んでくる。
 絹一枚というあたりでそれを避けながら、カノンは人々の言う皇子の才能というものをつくづくと思い知った気分だった。
 本気かと問われると微妙だが、決していい加減に相手をしているわけではない。なのにほんの1刻前にはまるで届く気配さえなかった皇子の剣が、次第に自分に近いところをかすめるようになってきている。
 飲み込みの早さと勘の良さ、そして殆ど驚異的というべきはその反射神経なのだろう。
 魔導士とまともに戦うことが出来るならば国内一級の戦士であると結論してもいいが、カノンはそんな相手を数人しか知らない。
 ……そしてそのうちの一人が現タリア王アルードであることは決して偶然などではないのだった。
 斜めに切り下ろした剣の軌跡をくぐってカノンは皇子の正面へ潜り込む。皇子はほぼ真横に飛んでそれをさけ、着地の反動を利用して逆にカノンの胴横に剣を滑らせた。
 鋭い一撃をカノンは軽く飛びかわし、皇子の背中側へ降りる。皇子の反転は早い。その動作の機敏さだけでも、恐らく本当にこの子供は強くなると確信が出来た。
「殿下、こちらへ!」
 カノンは軽く手を挙げる。もっと打ち込んでこいという言葉に皇子は小さく頷き、剣を繰り出した。
 剣を振り回すというような大味さは微塵もない。手首も強そうだ。腕から肩にかけての筋肉を使う基礎の部分と、手首の角度で剣を操る小手先の技術の両方を、皇子は均衡良く使っている。
 皇子の一撃をひらりとくぐって体を返したとき、別の魔導の匂いがした。魔導を身に帯びる者が近くにいると、身体能力の補助や向上のために自らに施している魔導の波長が空気を歪めて伝わってくるからすぐに分かる。
 魔導の塔には現在120名ほどの魔導士がいるが個々によって波長は違うから、知人であるなら判別が出来た。
 カノンは打ち込まれてきた皇子の剣にすれ違い、その首筋を軽く叩いた。
「──16回目です、殿下」
 勝敗を宣言するとライン皇子はそうだね、と屈託無く笑った。
「やっぱりまだ追いつけないなあ……カノン、だっけね。もうしばらくは来てくれるんでしょう?」
 この相手役が暫定であることは知らされているのだろう、ライン皇子はそんなことを言った。カノンは頷き、でも本当に筋がおよろしくて驚きましたと付け加えた。
「……いずれ私の方も自分を鍛錬しておきましょう。が、殿下、お迎えですよ」
 ライン皇子の手から練習用の模擬剣を受け取りながら、カノンは魔導の気配の方を振り返った。あ、と皇子が明るい声になる。
 手を挙げて勢いよく振りながら、兄上と叫んだ。
「兄上! 兄上、いらしてたんですか?」
 剣練所を見下ろす観覧席の中程にぽつんと座っていた人影が立ち上がり、ゆっくりした歩調で階段を降りた。簡単に観覧席と剣練所を区切る鉄格子の腰高柵越しに、ラインと呼ぶ。
 兄の元へ走り出す、跳ねるような歩調の軽やかさにカノンはそっと仮面の下で微笑み、模擬剣をその場において歩き始めた。
 同母の兄弟は頬を寄せ合うようにして密やかに何かを言い合ったり笑いあったりしていた。その様子は少女たちがじゃれつくような、甘やかな秘匿を描く一枚絵のようによく空間に収まっている。二人とも繊細な面差しと高貴を感じる空気を、皮膚の一部のようにごく自然に身に帯びていた。
 カノンはそっと近づき、ライン皇子の背後へ膝をついた。リュース皇子がちらりとカノンを見た気配がした。大仰にならぬようにしながら頭を下げる。
 兄の視線に気付いたのだろう、ライン皇子はカノンというんです、と朗らかな声音で彼を紹介した。
「魔導の塔から来てくれて。……ええ、そう、全然かないません。剣、当たりそうで当たらないんだもの」
 自分の言葉にくすくすライン皇子は笑った。カノンが皇子の集中力を持続させる為に、わざと回避の瞬間をぎりぎりまで待っていることは分かっていたらしい。
 弟の言葉に淡く微笑んだリュース皇子は相変わらず、確かに辺りを圧倒し気配を染め変えるほどの美貌の主であった。
 嫌味なく明朗で素直という美徳に恵まれたライン皇子の持つ、温かで人なつこい空気とは違い、この兄皇子の方にはひんやりと他人を距離をとる、夜の空気がある。
 類い希な美貌であることは確かだったが、それは線の細い人形のような脆さと繊細さから無縁ではなかった。
「カノンと言ったね。ラインを宜しく頼むよ」
 弟の頬を軽く指で撫でてやりながら、リュース皇子が言った。御意のままに、とカノンは更に頭を下げる。リュース皇子は頷き、弟皇子に向かって切り上げを促した。
 太陽の熱が既に弱い。黄昏が近いのだろう。
 皇子二人が何事かを話しながら遠くなっていく。カノンは膝をついたままで十分に遠ざかるのを待ち、立ち上がった。模擬剣を詰め所へ返してから魔導の塔へ戻らなくてはならない。タリアにいない時にはそこが彼の戻る巣であった。
 魔導の塔の魔導士たちには基本的には個室が与えられる。魔導士となるまではその師匠の部屋住となって資格を取るまでは出ることを許されないが、魔導士の試験に通ればあとは比較的、個人の生活は自由だ。
 カノンは自室に入って鍵をまわす。そして大きく呼吸をして仮面を取り、束ねて頭巾へ押し込んである髪の戒めを解いた。
 黒い髪がふくらむように流れ落ちてくる。カノンは首を振ってそれを軽く払いのけ、仮面を机においた。瞼の上から目を押さえる。
 魔導士の仮面は個人情報の秘匿を目的にして作られていて、魔導士の試験に通った時に師匠から贈られるものだ。
 大抵は師匠が周辺の気配や風景を直接脳髄に送り込むための魔導を施しているから、目で物は見なくとも直視しているのと同じ程度に現実を知覚することが出来た。白銀のなめらかな表面の額には階級を示す紋様が描かれ、内側にはカノンという名が彫られている。
 カノンか、と少年は苦笑した。
 その名は魔導士としての名前であって、本名は別に存在しているはずであった。けれど、カノンはもうそれを思い出せない。
 鏡をちらりと見れば、あの第一皇子にうり二つとはいえないが十分に似通ったものを見いだせる、端正で美しい面輪がそこにある。
 父親と一緒にいた頃、父が自分を連れ歩く先々で少女と間違えられたり、近所の女たちが自分を可愛いとほめそやしたり、そんなことがたくさんあった。
 年齢は確か、──確か、今、15か6だったはずだ。この魔導の塔に連れてこられた時が6歳だった気がする。
 但し、カノンの記憶は既に涙の向こうの景色のように歪んでぼんやりした色彩の塊になりはてている。自分の本名も、年齢も、住んでいた場所も、何もかもを生活に追われていく内に忘れてしまった。
 これは子供の頃に塔に連れてこられた魔導士にはさほど珍しい現象ではないらしいから、気に病んだことはない。
 それに、ほんのいくつか覚えていることもあった。
 たとえば、自分に母親がいなかったこと。確か……多分、最初から、いなかった。
 父親がいて、とても優しくて背の高い人で、その父に連れられて色々な土地へ行った気がする。父は時折何かに怯えたように自分を抱いて、自分の名前を呼んでいた──もう忘れてしまった、その名前を。
 お前には大変な運命を与えてしまった。けれど自分に正しく、人に優しく、そして世界に正直に生きていきなさい。いつかお前に私とお前の母親のことを話さなくてはならない。それは私と彼女の罪の話でもあるが、けれど、お前をこの世に生み出した真実を私はきっと話すはずだから──
 父の言葉の抑揚や優しい声音は見つかるのに、そこに語られているはずの自分の名前が良く聞こえない。
 カノンは鏡の中で気難しく眉根を寄せている自分と目を合わせながら、じっくりと胸の中の記憶をまさぐり出そうとした。
 途端、目の前に火花が見えた。はっとカノンは顔を上げる。
 これ以上はどうやら禁戒に触れるようだった。    
 魔導士に科せられた禁戒は、実はたった3つしかない。
 素顔を含む全ての個人情報は秘匿されること、たとえ何であっても主人の命令には従うこと、そして長老会の決定に服すること。
 この3つだけが魔導士を縛る。どこからどこまでを不服従とするのかの境界線は常に曖昧に推移しているが、禁戒に触れればそれはすなわち死であった。法文には「処分」と記される。魔導士は物と同じであるのだ。
 そして自分の過去はどうやら自分でも知ってはならないようだった。
 それに対する疑問は自分でも驚くほど小さかった。何がどうしたところで、自分の現実と未来が変化するわけではない。
 カノンは魔導というものに対して馴染みが早かった。魔導の塔に来てから4年で魔導士たる資格を得たが、これは魔導の塔の記録に残るほどのものだ。どんな呪文でも構成でも、泉が湧くようにどこかから彼の中にわき上がってきた。
 それが才能なのだと師は嬉しそうであったが、その師ももういない。カノンが資格を取った翌年に南大陸の雄であるフィアラーズ帝国へ出向を受け、出先で事変に巻き込まれて処分されたのだ。
 カノンを天才だと喜んでくれた師の死は辛かったが、その後に拝受した辞令はタリア王の側近としてのタリア出向であった。
 正直、カノンはタリア出向を喜んだことがない。魔導士を要請するのにも莫大な金額や資格や推薦がいるが、その代価を支払った主人には文字通り命をかけて忠節を尽くす義務がある。
 魔導士たちの間で一番希望が高いのは皇族の護衛だが、これが恐らく最も安寧に余命を保つことの出来る仕事であった。そしてタリア王の手足となるならば対極といってもいいだろう。
 タリアには抗争が多い。タリア王の交代のときはもちろんだが、そうでなくても各派閥や末端の支配領域の諍いなどは珍しくなく、自然沢山の危険を身近にしなくてはならなかった。
 主人の命を全うできないと魔導の塔に報告されれば処分、そして服命を拒否しても処分、だからおとなしくタリアへ行くしかなかった。
 タリア王アルードが今のところ子供である自分に多少気遣いを見せているのか、命じられる仕事が困難すぎることがないから助かっているが、もしタリア王の交代が囁かれるようになれば、今のように安穏としていることは出来ないだろう。
 将来的にタリア王を狙うことの出来る位置にあるのが、今はライアンという男一人だから暗殺でも命じてくれればいいのにと思わなくはない。
 正直、やり遂げる自信はある。接近戦では苦労するだろうが、そもそも魔導で身体の能力をそいでもいいし、炎で焼き払ってもいい。

 けれど、アルードは命じようとはしなかった。実際そのライアンを至極便利に使っているのだから、今はまだ価値があると思っているのだろう。
 主人の思惑に口を挟むことは禁戒ではなかったが歓迎はされなかった。だからカノンは黙っている。
 わざわざ仕事を作ってし損じることがあれば、それは自分の生命に直接関わる危機となる可能性があるからだ。
 カノンは微かに溜息をついた。魔導士として生命をまっとうしていくことは難しいことではなかった。彼は物事の飲み込みも理解も人より早かったし、魔導に関しては飛び抜けて優秀であることは自負している。
 多分、長らえれば史上最年少で長老会へ入るだろう。いくつか掛け持っている魔導の研究会のどこでも、彼は同志たちから感心と賞賛を受け取っている。
 けれど、その先に一体何があるのかカノンは上手く捕らえることが出来なかった。一体自分が何処から来て何処へ流れていくのか、うすぼやけた過去と不鮮明な未来しか思い描けないときには、そんなことをぼんやり思う。
 父や幼い頃の記憶が曖昧であることも、きっとそれに拍車をかけているのだろう。
 カノンがそんな根拠のない推論に一人頷いていると、自室の扉がこつこつと叩かれた。扉を開けずに返事をすると、外からの声が言った。
「魔導士カノン、在室か」
 聞き覚えのない声だが、呼び出しは魔導の塔専属の奴隷と決まっている。あちらが敬語を使わないのは、自分たちの方が奴隷よりも更に下層の身分に位するからだ。
「今、装束を解いています。何用ですか」
 扉に近く立って言うと、外の声が長老会の呼び出しを告げた。
 先日出しておいた転任の申請に対する回答が出たのだろう。辞令は同時期に申請をした魔導士たちとまとめて伝達が行われる。
 髪をまとめて色が見えないように頭巾へ押し込み、仮面をつけてカノンは外へ出た。外には既に呼び出しの奴隷はいなかった。伝令が済んだことで自分の他の仕事へ戻ったのだろう。
 呼び出された議事廷には既に長老会の構成員である上級魔導士たちは見あたらなかった。他の魔導士の影もまばらで、支度をしている間に終わってしまったらしい。人数が少ない時はそんなこともある。
 だが、カノンは自分を待っていたらしい年長の魔導士にすぐに気付いた。
 さきほどもリュース皇子の側に、姿は隠遁させていたものの随従していたことは分かっていた。魔導士ならば魔導士の気配をすぐに感じ取る。
「同志カノン、来たか」
 マルエスがゆらりと身体を彼に向けた。
「同志マルエス、お久しぶりです。先ほどは挨拶もせず」
 マルエスはうむ、と頷いた。彼の年齢はもちろん分からないが、階級としても魔導士としての経年もカノンの先達というべきであった。
 治癒に関わる魔導の研究会で同席する以外にはあまり見かけないが、マルエスの場合は主人であるリュース皇子自身が魔導に良く通じていることもあって、皇子の相談役としても努めているようだから忙しいのだろう。
「我も隠遁していたおりゆえ、構わない。それより、長老会からの裁定を預かっている」
 マルエスが差し出した文書を受け取り、カノンは巻き留められていた紐をほどく。
 たらりと下がった辞令書には、長老会全員の魔導印と長老会決定の朱印が押してあった。
『同志カノンの申請について長老会で検討した結論は以下である。却下』
 カノンは長い溜息になった。変声期の待機期間が終わり次第、再びタリアへ戻らなくてはならない。
 落胆したカノンの肩を、マルエスが慰めるように叩いた。
「気落ちするな、同志カノン。同志がタリアで暗殺と諜報だけをさせておくにはあまりにも惜しい人材である旨、いずれ折を見て我から殿下へ申しあげよう」
 マルエスの言う殿下というのは、彼の仕えるリュース皇子であろう。カノンは頷き、ありがとうございますと呟いた。マルエスはいや、と仮面の下でそっと笑ったようであった。
「それに、ライン皇子の護衛役は決定していない。……良い方だろう?」
「ええ、とても。何というのか、育ちがよいというのはああいうことなのですね」
 他人を疑ったり憎んだりすることを知らないような、明るい無邪気さが眩しい。人である以上は幼いながらも様々な感慨は胸にあるだろうが、他人にそれを気取らせないのが自然であった。
 マルエスは頷いたが、それ以上を口にしなかった。進言しても受け入れるかどうかはリュース皇子の判断一つであり、またリュース皇子からの要請があったとしても長老会が否決すればかなわないことである以上、これから先は不確定な事柄ばかりだ。
「まだしばらくはタリアへ行かなくてもよいだろう。ならば、ライン殿下のお相手をつつがなくやりとげることだ」
 マルエスの言葉に頷いて、カノンは辞令書をきゅっと握りしめた。
 あの赤い格子の迷路の奥に自分にとっての何かがあるとは、彼は到底信じることが出来なかった。