第5章 月の下で 10

 赤い格子の向こう側は、いつもと同じ雑踏だった。興味本位で覗き込んでくる男たち、からかうための言葉だけを投げつける男たち、みないつもと同じだ。そして自分がまったく不変の頑なさの中にいることも。
 リィザは格子のきわの腰台に所在なく座り、ぼんやりと通りを眺めやっている。誰かを誘うでも睨み据えるでもない弱い視線は誰の気も惹くことがない。それが楽なのだろう。何度叱られても叱られても、気付くと同じ事をしているのだ。
 自分は芯まで冷たいのだろうかとリィザは時折恐ろしくなる。ディーへ深い罪の意識を覚えてもそれは彼にまったく心が開かなかった言い訳で、彼がリィザの元に訪れなくなったことをどこかで安堵しているようなのだ。
 ディーは自分に十分優しかった。癇性で暴力の多い男に巡り会うリィザの性分には過ぎた相手ではあった。
 けれど、優しいことが辛い時もある。そして二人ともがそれを乗り越えてお互いを理解し合おうと思っていなかったことだけが分かる。だから駄目になってしまったのだということは分かるのに、これからどうしたらいいのかということは全く見えない。
 リィザは外を眺めながら、ディーと過ごしてきた百には足りない夜のことを思い出そうとする。酒は少し薄めの薄荷入り。煙草は吸わない。義手は重たくて目はまろく鈍い青。
 彼の性癖や口癖なども思い出せるのに、その一瞬一瞬切り取られた記憶の中に、自分の感情がまるで進入してこない。
 それを思うと自分の頑なで鉄のような心にうっすらとした絶望さえ抱く。その時は確かにディーを嫌いではなかったはずなのに、覚えていないというのはやはり薄情な証拠なのだ。
 リィザはそっと溜息になる。ディーを含めてチェイン地区の何人かを知っているが、その殆どは若い者特有の性急な粗野であった。ディーのように血の臭いを消し去る男は珍しい。まして女に丁寧に接するなど妓楼ではまさしく貴重な種類であったはずだ。
 けれど、結局は条件ではない。それを分かっていたからこそ、ディーは離れていった。チェイン王ライアンの宴席とやらがまたあるのなら、その時に一言謝らなくてはいけない。心を開けなかったことではなく、あれほど心をかけて貰ったのに、彼に何かを残してやることが出来なかったことを。
 謝ることではないかもしれないが、何かを残しておきたい気がしてたまらない。恐らく、彼が来なくなる以前よりもずっと彼のことを考えている。
 リィザはその矛盾にそっと苦笑し、また格子の向こうへ視線を漂わせた。
 ディーにあれだけ酷い仕打ちをしておいて、という自嘲をリィザは胸に聞いているが、それに構っている余裕はなかった。もう一度会わなくてはという信念に近い思いだけが、リィザを苦手であった腰台にずっと座らせている。
 ──初めて出会った時、自分は傷ついていた。
 酔った客に無理に抱き寄せられて、衣装の裾から潜り込ませた手が自分を勝手にまさぐり始めるのに恐怖さえ覚えて震えていた。止めて欲しいと何度も口にしたのに聞いて貰えなかった。惑乱と羞恥で泣き出してしまったことを責められて、済みませんとしか言えなかった。
 自分の謝罪は他人の心に届かないらしい。余りに豊かにありふれて流れてくるために、全く真実味が薄いようなのだ。
 平手で思い切り打たれ、喉を絞められて、一瞬これで死ねると思ったことを今この瞬間のことのように思い出す。
 死にたかったのかもしれない。客とのことはあまりに辛く、自分を取り巻く世界はあまりに冷ややかだった。あのまま虐め殺されたら自由になれるかもしれないとそんなことを思っていた。死に解放と救いを求めてはいけないと神様は言うらしいけれど、それを思わなくては生きていけない辛さはどうしたらいいのだろうか。
 けれど辛い辛いと呟くことは出来ない。この格子の町はみな、似たような境遇の女たちで溢れている。
 貴族荘園から引き離されたことをリィザはずっと悲しみ、未練を手放すのに長くかかってしまったが、そんなことはごく普通のことで、もっとひどいことを幾らでも聞くことが出来た。
 自分よりも哀れな人も沢山いる。例えばミアは家族が食い詰めて、冬を一家が乗り越える食料のためにここへ来た。シアナは娼婦だった母親が同棲していた男に追いやられて運河に身を投げた後、アパートの家賃の片に売られた。母親の遺産というべき金や宝石は同じ娼婦仲間が洗いざらい持っていってしまったのだという。
 だからあなたは恵まれているのだ、ということは誰も言わなかった。少しづつ不幸の根と種類は違うが、結局この妓楼にいるところで全ての帳尻はあうようになっている。
 この妓楼はタリアの中堅どころというあたりだが、女将がもっと格式高いところへあげたいらしく、日の売上のために無理な注文を取るということは殆ど無い。
 ──問題はリィザの頑迷な心なのだ。
 今でも自分の身に起こったことを理不尽だとなじり、悲鳴を上げ続けている。ディーもそれで失ってしまった。
 リィザはゆるく首を振る。ディーだけではなく、他の常連客にもリィザは顔向けできないことをしている自覚はあった。勤勉で怠慢な娼婦だと思ったことがあった。その感慨は強くなっても聞こえなくなることはない。
 いつもいつも、リィザの近くにいてリィザを非難し続けている。
 そんな中で、彼と出会った。あれは確かに何かの劇的な瞬間だった。彼は客に打たれた時に髪から落ちた造花を拾ってくれた。多分自分を見て哀れんだのだろう、そんな声を出していたはずだ。
 けれど格子の向こう側に彼を見つけた瞬間に、僅かな負い目は吹き飛んでしまったようだった。
 彼は美しかった。目を奪われるという意味を初めて知った気がする。彼は何かを口走るように喘いでいた。リィザは声も出せなかった。ただ、何かの予感か雷鳴のようなひらめきに撲たれて茫然と、目の前の奇跡に見入っていたのだ。
 あの時、確かに何かが起こっていた。自分も彼も震えていた。格子という籠のあちらとこちらでお互いを引き合うように凝視めあっていたのだ。
 それは天啓とよく似ていて、例えば農園にいた頃に小糠雨を見つめてやがて空が明るくなってくると、リィザはじっと予感をまっていた。何か美しいものに出逢うかもしれないと思うと胸が膨らむような期待があった。虹や蝶やそんなものでも嬉しかったのに、彼の面差しに溢れてくるような存在感が眩しかった。
 だから、二度目に逢った時、彼に何かが起こったことははっきりと分かった。夏の初めにリィザを見つめていた瞳の色は同じなのに、そこにあった零れるような命の火が揺らぎ明滅していて、全く力無い、ただあるだけのようなものになっていたからだ。
 魂が抜けてしまったようなぼんやりした、殆ど無気力というべき表情が胸に鋭く突き刺すように痛かった。
 顔立ちはあの時と変わらないはずなのに、そこに激しく強い光がないだけでまるで別人のようだ。
 礼を言わなくてはとリィザは思っていた。
 造花はあの時、ディーから貰った大切なものだった。その彼ももう自分の所には来ないと言ったきり、その言葉を守り通しているけれど、あの瞬間にはリィザにとって、数少ない安心して身にまとうことの出来るものだったのは真実だったから。
 けれど、礼だとか彼の名前を知りたいとか、そんなことは吹き飛んで、ただ傷ついた顔つきで不機嫌に部屋にいた彼を、自分はどうしたら良かったのだろう。
 話せと言われても咄嗟に思いつかない愚かさが自分で苛立たしかったが、彼の方はそれで更に機嫌を損ねてリィザに構わず一人だけの世界に籠もってしまった。
 悲しいと思い、今謝りたいと思うのはそのことだ。
 彼が何かによってひどく打ちのめされて傷から血を流しながらのたうち回っているのは分かる。それは既に理屈などで納得するようなことではないのだ。
 だから尚更悲しい。彼が一人で自分を慰撫しようとしたこと、自分の中の世界とその幻想の中に引きこもり、その幻想に現実を無理矢理合わせようとしたこと。
 何よりも、彼がリィザを側に置きながら孤独に易々と身を委ねてしまったことが、とてつもなく悲しいのだ。
 一人でいる孤独よりも、他人を側に置いた孤独の方が、数段悲しく、辛く、切なく苦しい。
 それは誰にも頼るよすがが無いということだ。外で傷ついた身体を癒すようにして女に依存して一時の安息を得ることをリィザは決して否定しない。
 誰かのために自分が頼りない糸のようなものにでもなれるなら、肉体的な苦痛はじっと甘受しながらでもいいと思う。
 けれど彼はそれさえしなかった。何か話せ、という言葉が自分と世界を切り離そうとする言葉で、もういいと苛々と呟いたのはリィザのことをその場所にさえ認めなかったという意味だ。
 あるいは、彼が寝転がっているときにふと手を伸ばした、あの指先を掴まえれば良かったのかもしれない。その仕草が何かを必死で探しているように見えて、余りに痛々しくて動けなかった。
 その後の急な衝動も、乱暴で唐突な手管も、ただ辛い。俺を見ろと言った時、彼の表情があまりにも静かで何も浮かんでいなかったことが。ひどく辛くて辛くて死にそうだというような目をしているのに、表情は凍ったように薄かったことが。
 その辛さが彼を見つめる仕草で自分の中に雪崩れ込んできそうだったから少しでも何かに触れればと手を伸ばしたリィザを振り払ったことが。
 ──彼の美しく華やかな光を放っていたような面差しが、無惨なまでに輝きを失っていることが。
 彼に何をしてあげたら良かっただろうとリィザは考えている。少なくとも、単純な性的接触でないことははっきりしている。彼が欲しがっているのはもっと違うものだ。
 何を求め探していたのか、宙を攪拌するように伸ばしていた手が遂に何も掴めないのだと彼が知ってしまう前に、あの指を掴まれば良かった。私がここにいますと言ってあげれば良かった。怪我をした獣は慣れないと知っていても、強く胸に抱いて大丈夫と言ってあげれば良かった。
 大丈夫。大丈夫。
 今は辛くても、きっといつかいい未来がくるから、大丈夫よ──と。
 リィザは視線を格子の町の外へ流し、そして待っていた機会に近いものを見つけて声を上げた。彼の名前は知らない。けれど、確かに彼はこの妓楼の常連といえたから、顔は知っていた。
「待って、待ってお願いです! お願い、待って!」
 大きな声を出すことなど滅多になくて、それだけで心臓が破裂しそうだ。雑踏の人々が一瞬何事かと足を止める。その中にその少年の姿もある。一所懸命にそちらへ視線をやってどうにかかち合わせると、少年が意外そうな表情で俺? と自分を指した。
 リィザが頷くと、少し首を傾げたままで格子の前に立つ。彼はすらりと背が高く、手足がほっそり長い。笑顔がほどよく明るくて、嫌味がなかった。