第5章 月の下で 12

 リュースはうんざりしながら唇を開いた。
「彼は私を助けてくれたのです。守護が遅れたのは私が両親と話があるために彼を遠ざけていたからで、彼が不首尾だったわけではない──同じ話を何度すれば彼を解放してくださるんです。彼は、私の大切な……」
 言いかけた先を、少し離れた高い位置に座っている魔導士が手を挙げて制した。
 リュースはむっと黙り込む。彼は他人に制御されることになれていなかった。
「殿下のご主張は最前からよくよく承知しておりますとも」
 話す魔導士の衣は通常の黒または暗灰色ではなく、長老会の一員であることを示すための鼠色だ。
 銀の仮面の額には魔導士たちの最高位を示す人面鳥の型どりがある。
「しかし、魔導士としての規範は必ず優先されるべきものです。殿下は彼の顔を見ていないと仰るが、それを我々がどう信じるかは別の話です」
「私が嘘をついていると言うのですか?」
 リュースは次第に不機嫌になるのを隠せない。苛立ちばかりが募る。
「私は本当に動けなかった。彼が私の瞼を閉じたらもう自分で開けることは出来なかったのです、毒性の判別にいつまでかけるつもりなのですか」
 つい強い口調になったことをリュースはすぐに自分で恥じ、俯いた。
 長老会の魔導士たちがゆるやかな吐息を漏らす。
「ともかくも殿下。彼が殿下をお守り申し上げるのは彼の義務です。絶対の服務です。なるほど刺客は取り押さえましたが殿下に構っている間に自決を許してしまった、それに殿下は見ておられなかったと仰いますが自室でない場所で仮面を外している。これは審議に値する重大なことなのです」
 そうですが、とリュースは頬を厳しくして溜息になった。
 薔薇の庭園で襲われた。刺客は一人であったようだが、よく覚えていない。
 首筋をかすった刃に何かが塗りつけてあったらしく、それでリュースは危うく命を落とすところだったのだ。
 マルエスの不首尾だ、という長老会の主張には理もある。マルエスが咄嗟に自決を阻止する手段をとらず、リュースの怪我に手を取られている間に呆気なくそれを許してしまった。
 何よりも高位の魔導士達が言うように、仮面を外すことは重要な違反だ。
 見られていたかどうかは考慮には入るが重要な項目ではない。マルエスが仮面を外したのは自分の首筋につけられた痕跡からの毒を吸い出すためで、その感触がうっすらそこにあったような記憶はある。確か四度までは数えたはずだ。
 けれど、それは重要では無いというのが長老会の見解であった。
 それに彼はリュースの護衛魔導士であったから、護衛が義務という言葉は正しい。
 本来は主人に退去を命じられても隠遁して同行するのだという内部服務はこの一件で初めて聞いたのだが、ではこれまでマルエスが下がってくれていたのはリュースの心を考慮してくれたという逆の証明であった。
 けれどマルエスがいないとどうにもならないことが多い。
 「彼」の捜索もそのうちの一つだが、日常や学問の全てに置いて、彼は良き相談者であった。実際の所殆どをリュースが一人で語っているのを聞かせている形ではあるが、それがいないのとはまるで違うのだ。
 服務規令違反であるという長老会の主張は間違ってはいない。けれどリュースにはマルエスが必要だったし、結局事なきを得たのも彼の功績であるのは本当だった。
 治癒の魔導は解毒であるならまず、その毒の種類から判定し、それによって化学式を書いた後に魔導言語に直してゆかなくてはいけない。
 つまり、その場では最も原始的な、傷口から吸い出すという行為がもっとも有効であった。
 マルエスは今すぐに処置をしないと間に合わないと踏んだ。事実リュースは身体の麻痺で呼吸さえ出来なくなりかけていたのだ。
 マルエスとて仮面のことを考えなかったとは思わない。
 けれど、それを捨てても自分を救おうとしてくれたことがリュースの心象の大きい部分を占めていた。
 ……と長老会には何度もマルエスの身柄を戻すように申請しているのだが、一向に許可が下りない。魔導士の審議には時間がかかると言われているが、半月も一人でいるのにはさすがに滅入りそうだった。
 毒物の判定が出来ればリュースの身体が動かなかった、という証言にも裏付けが出来る。
 マルエスの拘束はなるべく早く解きたかった。
 この事件のことは父が非公開に指定したから既に解決の糸口は断たれている。
 非公開にしたのはリュースへ刺客の手が伸びたことで、もう一人の皇太子候補であるカルアへ意味のない侮蔑が向くのを怖れたためだ。それはリュースも構わない。
 随従の魔導士が頻繁に立ち替わる中、それが自分との適正の試験であることは察していた。だがマルエスほどに馴染めそうな者はいない。
 彼とは長いな、とリュースは改めて思った。
「では、審議はいつ頃終わるのです。私はあのことでそう打撃を受けなかった。これはマルエスがいたからこそだと考えています。今後の安全のためにもう一人か二人申請を出しますが、私のことは彼が一番良く知っている」
「無論、存じております、殿下」
 言葉だけでかわされてリュースは苛々としている。
 毒素の抜けたあとの反動で微熱が続く体調をおして魔導の塔にまで出向いてきたというのに、結局面会さえ許されないのだ。
 マルエスは必ず返してください、とリュースは強く言った。「彼」の捜索のこともあって、やはり彼でなくてはならないことが多いのだ。
 考慮いたしましょうと魔導士達が言って、席を立とうとした。リュースはそれを呼び止め、もう一つと切り出す。
 マルエスを最終的に取り戻すのは別にして、長老会に要請することがあったのだった。
「それと、新しい魔導士の申請なのですが、一人希望があります」
 魔導士たちが頷き、席に座り直した。
 誰をご所望ですかと促されてリュースはカノンを、と言った。それが長老会の議場にほわんと反射して消えた瞬間、高位の魔導士たちが一斉に何かに撲たれたように身を固め、そして身構えたのが分かった。
 リュースはその空気に僅かに眉根を寄せる。
 カノン、と呟いている長老会の魔導士たちは一様にひどく狼狽えているらしいのだ。
「カノンで不都合がありましょうか」
 長老会の仕業にすでに倦んでいたリュースは自分の声が尖っているのを自覚したがあまり訂正する気にもならなかった。
 魔導士たちが机の下でリュースから見えないように手の無音会話を行っている気配がする。リュースがその時間に再び焦れてくる頃に、ようやく一人が口を開いた。
「了解いたしました、殿下。では後日、魔導斑紋の判定を卜占版にて行いますので結果をふまえて回答をいたします」
 リュースはじっと魔導士たちを見る。この至極当然の回答がでるまでの時間の早さには何かが潜んでいるような気配だった。
 だからお待ちなさい、と声をあげる。
「卜占版の斑紋判定なら済んでいます──マルエスにさせました。非常によい結果が出ております、問題はありません」
 事実、斑紋の合致はマルエスよりもよく揃ったのだ。
 魔導士たちが微かに唸ったのが聞こえた。これは何か特別のことらしいとリュースは気付き、上段の魔導士たちを見据えた。
「魔導士カノンを私の護衛魔導士に申請します。本人と話も済んでおりますので、長老会の追認を頂ければそれで発効します」
 魔導士たちが困惑のうなりを発した。
 マルエスのことを散々引き延ばされてきたことの溜飲を僅かばかり下げ、リュースはよろしくどうぞと姿勢を正した。
 と、中央にいた最高位の魔導士が分かりました、と低く言った。
「ではこれより同志カノンの転任について長老会で決を採りましょう──同志レガデラからどうぞ」
 リュースははっとする。この先が読めたのだ。レガデラという魔導士が否、と言うのが聞こえた。
 つまり五人全員の総意をもって否決の結論に至るということになる。
 その通りに五回の否が聞こえた後、長老会の結論は否決ですので申請は却下いたしますという決まり文句が振った。
 何故、とリュースは声を荒げた。途端にまだ万全でない体調が眩暈を訴えてくる。
 それを押し殺してリュースは何故ですかと問い直した。
「魔導士カノンはとても優秀な若手の魔導士である旨を聞いております。事実論文も良く書けておりましたし、術式も構成も非常に才能豊かです。私は私の今後の魔導学の研鑽のためにも彼を側に置いて相談を……」
「殿下、魔導士は殿下の玩具でも、魔導学の顧問でも、実験台でもありません」
 リュースはそれは、と言ったきり絶句した。
 最後の一言は魔導士たちの彼に対する怒りの代弁なのかもしれなかった。
 ──時間生成理論。
 あの「彼」がひねり出した新機軸の魔導理論。
 理屈としては確かに面白かった。最初にそれを懸賞論文として王宮内で読んだ時にはそれを書いた少女の指先と想念が作り出す、新しい世界の姿を見た気がしたのだ。
 けれどそれはまさに机上論であった。
 それに気付かずに「彼」も自分も、まったく危機感などなくそれと戯れていた。紙の上でならどんな想像も体系化できるのだということに気付かなかったのだ。
 リュースは項垂れ、あれは本当に申し訳ないことをしました、と呟いた。
 実験の失敗はそれが新理論の検証実験である時には起こりやすい。元々最後に発動の起爆を置く構成が多いために、失敗した時には通常何も起こらない。
 だが、時間生成理論は違っていた。魔導理論に他からいじりまわした数字を入れて一見意味のある数値にすることなど、何故しようと思ったのかさえ、今となっては分かりたくない。
 生成理論の実験は失敗した。
 引き歪んだ空間に実験に参加した魔導士を飲み込み、引き裂いてまったく違う場所へそれぞれ放り出したのだ。死体の回収には結局二ヶ月を要し、まだどこへ行ってしまったのか分からない部分が多い。
 結局それは人の身体では負担に耐えられないということだけが示された。
 あの実験に従事してくれた魔導士は長老会の予備要員を務めていた優秀な者であったと後で聞いた。今現在の長老会にもしかしたら入っていたかもしれない。
 魔導士は人ではありませんので生命に関してはお気になさらないでくださいと彼らは口を揃えて言ったが、それが本心だと思ったことはなかった。
 そしてそれは今証明されたような形になる。
 実験が停止され、理論の発展が凍結扱いになってもリュースはその論文を書いていた。
 致命的な欠点が何であったのかを解明すれば再びそれは新理論としての輝きを取り戻すはずで、そうなった時にまるで初期から考察が進んでいないことなど耐えられなかったのだ。
 同じ事を考えるのはやはり研究者で、魔導学の研鑽を積んだものは一様にこの新理論に興味を示した。
 実験の何がいけなかったのか、原因は何だったのか、そしてその他の予備事項の小さな実験からの開始。それがいつか重大な部分が解明されていく過程で役に立つはずだと信じている。
 けれどそれに対する非難は曖昧に提示された。
 リュースは分かりました、と顔を上げて長老会の魔導士たちを見つめた。
「魔導士カノンの申請と、私の護衛魔導士マルエスをお返し下さるなら、時間生成理論についての追求は私個人として放棄します」
 この理論の旗手が今や自分であることは承知している。つまり理論の発展の頓挫だ。
 けれどこれは新しく誰かがこれからも書くだろう論文を眺めることで宥めてゆくことも出来る。魔導学と縁を切るわけでもない。
 それよりもマルエスの返還とカノンの着任が優先だ。
 刺客などということも護衛魔導士が複数つくことで殆ど無に近いところまで可能性を下げることになる。両親の意向で皇太子の候補を降りるかどうかはともかく、将来にはこの国を支えるための要人となることは決まっているのだ。
 魔導士たちは彼にゆるゆると首を振り、多少哀れむような声を出した。
「残念ながら殿下、同志カノンの件についてはそれでも承認いたしかねます。何故か、ということについては我々の禁忌に触れるためお答えできません」
「……禁忌」
 リュースは呟いた。魔導士の禁忌は三つしかない。
 個人情報の秘匿、主命への絶対服従、長老会決定への絶対服従。主命と長老会決定の服従の内容が相反する時には長老会が優先される。
 これ皆全て、魔導の塔という特殊な組織が誕生した時から受け継がれている規則である。
 主命とは関係がないはずだ。彼は今変声期の預かりで魔導の塔へ多く身を置いているが、タリア王の元への出向になにか禁忌が絡むなど考えにくい。
 では個人情報と長老会決定のどちらかにカノンの何かが抵触するということだ。長老会決定はこの代だけでなく、大綱を練る意味での判例法のような使われ方もすることがある。
 その内容が極秘であるためにリュースでも見ることが出来ない。これを閲覧のために差し出せといえるのは、この国の皇帝だけであった。
 リュースが俯いているのに魔導士たちは殿下と言った。
「しかし、時間生成のことを諦めてくださると仰ることに我々は深く感銘いたしました。ゆえに殿下のそのお優しい御心に免じ、同志マルエスにはなるべく早い時期に殿下の安寧を保つ役割に戻すことをお約束いたしましょう、それでよろしいですね」
 取引にリュースは頷き、なるべく早く、と言った。
 外へ出ると夕方近い時間であった。長い間長老会の面々と話していたことになる。
 道理で疲労が濃いのだとリュースは溜息をつき、魔導の塔の正門まで歩き出した。そこからは近衛のついた馬車が用意されている。
 それに乗り込もうとした時、殿下という声が背後にうずくまったのを聞いた。
 リュースは振り返り、済まない、となるべく穏やかな声音で言った。
「お前の申請は撥ねられてしまった、済まないね、カノン。私にもっと力があれば良かったが……」
 リュースは言いながら苦い顔になった。
 皇子であるという身分は魔導士の組織の前、そして刺客の向ける現実の刃の前にひどく無力であった。私はもっと大人にならなくてはいけない、とリュースは強く思う。
 例えばマルエスを取り戻すのに取引にまでしなくてはならなかったり、カノンのことを命じる根拠が自分には何もなかったり、そんなことは一度経験すれば十分だ。
 聞こえておりました、とカノンは淡々と言った。
 それから何かを一瞬思案したような沈黙の後、実は、と申し訳なさそうな声を出した。
「私は何度か申請を長老会に出し、全てを却下されて参りました。ライン殿下のお相手役も、身長が一番近いという理由で選ばれはしましたが、待機期間での限定だと最初から申し渡されてもおります。私は恐らく、何かのために早く死んで欲しい者なのだと思われます」
「──そう。……でも、生きなくてはね。せめて自分が納得するほどまでには」
 リュースはカノンの手を取ってやる。
 カノンがありがたいことです、と彼の手を押し包むようにし、膝をついて叩頭した。
「いつか殿下に時機が参りましたら、私を呼んで頂きたいのです。長老会の決定に優先されるのは最後には皇帝陛下のご意志のみです。どうか殿下、お約束は結構ですが、これを私が申し上げたことをどうか、どうかお心の隅に置いていただけたら望外の幸福です」
 リュースは自分の足下に額をつける、少年魔導士を痛ましく見やった。
 彼は恐らく、自分とあまり年齢が変わらないはずだ。自分にも力が無く思い知ることばかりだが、彼の方が自分よりも沢山の制約がある中で生きている。魔導士の禁忌は破れば即ち死であることが多い。
 リュースはそれを慎重に避けながら懇願する少年に胸の痛むような憐憫を覚えた。
 これはいつか「彼」に感じた憐れみと同じ種類であるように思われた。
 カノンには才能があり、可能性がある。それが何らかの理由のために全てねじ曲げてゆかなければならないとしたら辛かったし、それを本人が辛いと思っているならば切なかった。
 ──彼は今、どうしているだろう。不意にリュースはそれを思い、カノンを見つめた。
 彼がカノンということはないはずだ……恐らく。けれど境遇や環境が似ている。彼に手を伸べるのと同じ気持ちで皇子はカノンを助けたかった。
 皇子は分かったよ、と優しく言った。カノンが殿下、と深く頭を下げた。
「論文、読んで下さってありがとうございました」
 リュースは曖昧に笑い、カノンの手を握った。
「また、その日に。それまで君も強くながらえておくれ」
 はい、とカノンの声が微かに潤む。
 リュースは遠い約束の為に微笑むと、近衛騎士が促すままに馬車に乗り込んだ。

《第5章 月の下で 了》