第5章 月の下で 2

 リィザは黒く広がる自分の髪の海からのろのろと身を起こした。
 百合の造花の花弁が撲たれた拍子に散ってしまったらしい。白い布地の破片が黒髪の中の小舟のように落ちている。折角の花だったのに──
 ふと浮かんできた涙を指で押さえ、リィザはぴくりと肩をひきつらせる。指の触れた箇所が鈍く痛んだ。
「ごめんね……」
 誰へ向かうでもない謝罪を呟きながらばらばらに解かれてしまった花をかき集める。
 うてなの辺りへ縫いつければ元に戻らないだろうかとしばらく花弁をあれこれあててみるが、途中からちぎれてしまったものはともかく、根から外れてしまったものはどうにもなりそうになかった。
 リィザは掌に安い綿地の花を握りしめる。爪の裏が淡く痺れて、その痛みで涙がまた上がってくる。唇をきゅっと結んでしばらく耐えていたものの、やがて唇の方から弛んで嗚咽になった。
 何故殴る男に出会うのか、ということについては自分のせいだ。怯えがちな性格や臆病な気質はそれを煽るためのものであって、原因ではない。
 女将も、そして他の姐妓たちも口を揃えて言うことは、殴る男はどの遊女にも同じような確率で潜んでいて、ただその札を表にしやすい相手としにくい相手がいるということだ。
 狩られる子鹿、あるいはか弱い雛鳥。保護欲をそれで見いだす男もいる替わり、弱いというだけで荒く翻弄したいと舌なめずりする男もいる。そういうことなのだろう。
 でも、だったら、どうしたらいいの……どうしたら、どうしたらどうしたら!
 ふっと胸の中に湧いてきた一瞬の激しさにリィザは自分で怯えた。
 そんなことを思ってはいけない。自分以外の全てのせいにしてはいけない。この妓楼で一番実入りが少なくて、時折強かに顔を打たれてはしばらく店に出られないなどということを繰り返しているのだから、原因は必ず自分の中にある。
 客が殴る理由は様々だ。曰く、歓待が悪い。もっとはっきりものを言え。苛々する──けれど一番辛いのはそんな罵倒ではなく、暴力でもない。笑え、という言葉が一番胸を痛くする。
 それが特に、命令ではない、優しい声であったりした時は。
(少しは笑ってくれないか)
 自分の頬に片手をおいて額同士を触れ合わせながら彼が言った時、どうして微笑むくらいが出来なかったのだろう。優しくされて、丁寧に扱われて、なのに何故、唇をほころばせることくらいが出来なかったのか。
 一所懸命にそうしようと頬を動かしていると、遂に彼は苦笑した。
 いいんだと言われた瞬間、絶望のような薄い黒雲が胸の中に広がっていくのが分かった。それがひどく安堵と似ていたことが更に沈鬱な気持ちにさせる。
 リィザはゆるく首を振り、造花を掴んで立ち上がった。まだ打たれた側の耳奥がにぶく反響を繰り返しているような気がするが、部屋の片づけなどもしなくてはいけない。
 天窓を見上げればそこには半分に足りないほどの月とゆるゆる流れていく雲、そして仄かに赤く光る硝子板があった。
 タリアの闇は妓楼が表に焚いていた篝火を一斉に落とすため、意外なほど青い。だからまだ早い時間といえた。
 リィザは造花を自分の衣装棚の奥へしまい、化粧台の鏡を見やった。
 殴られた箇所は少し赤くなっているが、痕跡が残るほど酷い物ではなさそうだった。少し冷やせばすぐに元のような肌に戻るだろう。ぼってりした腫れはあるが、口の中に血の臭いはしなかった。
 散らかった割れ物を拾っていると、女将からの呼び出しがあった。どうやら先ほどの客は女将にひとしきりの苦情を言ったらしい。いつも女将がぼんやりと煙草をしている応接間へ行くと、来たね、と苦い顔をした。
「さて、同じ事を何度言ったらいいのやらだね、お前には」
 呆れ半分の言葉には、明らかに次第に加算されていく苛立ちが滲んでいる。
 リィザは身を縮め、項垂れた。謝罪は既にその度に呟き続けていて、口にすることさえ躊躇われるほどだ。だから殆ど言うべき事はない。じっと俯いて、女将の諭すような声音を聞いている。
「怖がっていても仕方ないのは分かるだろう? 何がそんなに怖いんだ、暴力、それとも他人? 何だっていいけどお前だけがこんなにしょっちゅう酷い目に遭うんだから、もう少し何とかおし」
 リィザは黙ったままでこくりとする。女将の言うことは尤もで、反論など出来る余地がなかった。
 女将はやれやれと呟きながら煙草に火を入れ、深く一服している。女将の胸内を完全に知っているわけではないが、リィザばかりが酷く手痛い目に遭うことを商売ぬきで案じてくれていることは分かっている。──少なくとも、そんな気配がする。
「全ての男が優しくて人格者だったらこんな商売はあがったりだけどね、しかし全員が酷い男でもない。大体は、人の中に割合の多少で両方あるもんさ」
 リィザはまた頷く。女将の言葉は分かりやすく、よく胸に通った。通るゆえに重いこともある。
 頷きこそすれ、返答は出来なかった。
「好きな男を作れ……と無理には言わないけど」
 じいっとリィザの様子を見ていたらしい女将は煙草の煙を溜息に混ぜて吐き出した。
「でもね、もうちょっと客に愛想良くして気に入って貰わなきゃ、本当のところはお前が一番辛いはずだよ」
 それも良く理解できる言葉ではあった。リィザは小さくはいと答えた。誰も苦痛を代理にすることは出来ない。リィザの苦役を解消するのはリィザ本人しかいないのだ。
 だのに、それをどうしていいのかが分からない。今のままでは良くないことだけが分かる。
 それ以上をリィザが返答しないことに女将はゆるゆると首を振り、煙管の火を小皿で切った。
「……あんまり気を張りすぎても良くはないんだろうけど。そうだね、もうちょっとゆったり構えてご覧。それだけで大分違うはずだから」
「はい……あの、努力します」
 女将はその言葉に何故か哀れんだような笑みを浮かべ、そうねと曖昧に頷いた。どうしたのだろうとリィザが口を開こうとした時、部屋の扉が叩かれて小間使いが顔を出した。
「母さん、あの、リーナ姉さんにお客さんが」
 ぴくっと肩が動いたのが自分で分かった。今諭されたばかりなのに、反射的に竦んでしまう。怖いのだ。
 結局のところ、殴る男でなくたって、全ては暴力なのだから。
 リィザの様子をちらっと見た女将が、煙管を勢いよく灰切り皿に打って立ち上がった。顎をつまんでさっと顔立ちの様子を確認し、大丈夫だねと頷く。
「部屋は大丈夫? そう、ならいいね。……旦那様をリーナの部屋へご案内」
 小間使いに指示をして、女将はリィザに自分の化粧箱を取ってくるように言った。女将の部屋からそれを持って帰ってくると、リィザを隣に座らせて化粧を手早く始める。
 慣れた手つきの確かな魔法はあっという間に鏡の中の少女を一段美しくしていく。
「お前の馴染みの旦那様はそれでもまだ少しはましだ、せめて機嫌良く可愛くして、優しくして貰いな」
 丁度その時リィザは瞼を薄く掃き始めた色粉筆のために目を閉じる。頷くことも首を振ることもしなくていい仕草に逃げ込んでいるのだ、という胸の中の呟きは小さくない。
 けれどそれに耳を貸してしまえば溜め込んできた澱みのような黒い物が流れ出してしまう気がして、それを無視している。
 やがて女将の手が紅筆をとって唇に色を差し始めた。これで返答さえしなくていい。唇を這うむず痒さ、紅特有のぬらりとした匂い、芸術品を仕上げるかのような潜めた息づかいの女将の気配。
 それらが急に遠くなってリィザが目を開けると、女将は化粧小物を箱へしまいはじめていた。リィザはぺこりと頭を下げて部屋を出る。裏廊下を通って自室へ入る裏戸をくぐると、見慣れた背があった。
 振り返り、軽く頷く目線が柔らかに微笑んでいる。
 殴る客に接した後だからなのか、今日はそれが特別温かな安心感となって胸底から溢れてくるようだ。
 リィザは何かの予感の為に思わず目を伏せる。それはやはり正しくて、制御できない涙がその途端にぽろぽろと流れ落ちたのが分かった。
 狭い部屋の寝台にもたれていたディーは黙ってリィザの腕を掴み、ゆっくりひきよせる。彼の筋肉の厚みと温度にますますリィザは彼の肩に顔を押しつけ、ひたすらに啜り泣いた。
「大丈夫だ、大丈夫、大丈夫……」
 呟く彼の声音の低い落ち着きにリィザは何度も頷く。人肌の温度を残しているほうの手が何度も自分の髪を撫でつけてくれるのが、気力の抜けるような安堵に変わって、次第にリィザの体の中に根を張り始めるのが分かった。
「どうした、辛かったか」
 気遣ってくれる声にリィザは曖昧に首を振り、ようやく止まり始めていた涙を指先で払って顔を上げた。
「ごめんなさい、あの、大丈夫です……ごめんなさい……」
 他の客の話は禁忌であったから理由を口にすることは出来ないが、ディーの方は何があったのかを薄々は察していたらしい。いや、と苦笑してリィザの頭を軽く撫でた。
「俺のことなら気にするな。お前はいつも俺に謝ってばかりいる」
 リィザは俯く。彼の言うことは事実で、それが元からの自分の性格から来る習性に上乗せされた後ろめたさであることは明らかだった。
 ディーのことを決して厭うているのではない。けれど彼の姿をこの部屋に見れば悲しくて切なくて、いつも結局は謝罪になる。
 いつか巡り逢うはずの魂の相手が、何故彼ではないのだろう。それは分かってしまうのだ、理屈ではない何かによって。
 閉じたままの身体も、硬く冷えたままの心も、そうなればいいというリィザの仄かな願いなど無視したように同じ所に居座り続けているのだ。
 ごめんなさいと呟くと、ディーは優しく、切なく笑った。
「いや、謝るな。謝らなくていい……今日はお前にいとまを言いに来たんだから」
 リィザは顔を上げ、ぽかんとディーを見つめた。男はリィザの頬に軽く触れ、あまり無理をするなよと言った。
 柔らかな笑みを浮かべた柔らかな声音には悪戯めいたものは何一つ無く、それが決別なのだと気付くのに一瞬以上の間があった。
 別離の言葉だと腑に落ちた瞬間に、リィザは小さく震えだした。
 どうしてとは思わない。自分のこの頑なで冷えた性質が結局、彼の忍耐の限界を超えてしまったのだ。
 それが申し訳なくて、ただディーに済まなくて、けれどそれを口にしたら尚更彼を傷つけるのではないだろうかという考えが言葉を奪ったようで声にならない。
 ディーの持っている空気はこの妓楼の生活の中で僅かにでも馴染めるものであったはずだった。それを失ってしまうのは恐ろしく、怖い。
 そう思う根が自分の心の安楽の為であることが、自分でひどく汚らわしくて厭わしかった。
「ごめ……ごめんなさい、私……私、ただ……ごめんなさい……」
 一度は収まったはずの涙がまた滲んでくる。ディーは少し笑って首を振った。
「俺といるとお前は辛そうだ──どんな時でも。お前はお前で辛いとは思うが、俺を心苦しく辛く思うなら、もう来ない」
 リィザは目を閉じ、瞳に積まれた涙が押し出されて落ちた。決定的な一言であった。
 ディーはリィザの心情を知っていて、見ぬ振りをしてくれていたのだろう。けれどもう来ない。リィザの痛みには2種類あるのを理解して、その一方を負担している自分を消してくれるのだ。
 ──それは、罪悪感という痛み。
 どんなに言葉も夜も重ねても、心だけは重ねられなかった罪へ向かう背徳の痛み。
 リィザは喉で呻き、両手で顔を覆った。
 日常は辛かったし、殴る客も酔って無理難題を押しつける客も、粘着に責め苛む客も辛かった。
 けれど、一番辛かったのは、確かに彼だ。
(笑ってくれないか)
 そんな容易いことさえ出来なかった。その罪が今、僅かな間だけでも心を安らけてくれたはずの男を遠ざけようとしている。
 何かを言おうとしてリィザはやめた。何を口にしても、今更の言い訳でしかないと分かっているはずだった。
「泣くな、お前が苦しく思うことはない……俺も、俺が本当にお前を好きかどうかなど、実はよく分からない」
 ディーは長い溜息をつき、苦い笑みになった。それは恐らく自嘲の為のものであった。
「俺は俺で、お前が絶対だと言うだけの材料がない。気に入っていたというなら本当だが、それ以上は分からない」
 淡々と告げる彼の表情に、翳りはなかった。リィザは頷いた。それは彼の真実なのだろう。嘘がないことは分かる。
「だから、もう来ない。……頑張れ、というのは妙な気分だが、息災でな」
 リィザはもう一度同じ仕草をした。ディーはやっと気持ちが落ちたように笑い、立ち上がった。義手はつけたままだった。
 彼は本当に、話だけしたら帰るつもりだったのだ。
 リィザは表廊下へ通じる扉を開けるディーの、がっしりした背を見る。この背にいくつかの傷があることは知っていた。
 傷、背骨の規則的なくぼみ、そして欠けた腕の痛々しさ。
 胸に巻き起こってくるのはやはり哀しみであって、狂おしい別離への拒絶ではない。
 それを彼も知っている。自分も理解している。
 最後に振り返ったディーの目はまだ優しくて、こんな場面に出くわしたことが殆ど無いゆえの困惑で、いっそ悲しく見えるほどだ。
 多分、自分も同じ顔をしているのだろう。ディーの表情を見ているとそう信じられた。自分たちは、同じ目をして同じ顔つきで相手を見ている。だから駄目だったのだ。
 ──同じ目つき。
 ぱたりと扉が閉まってディーの姿が見えなくなってから、リィザはぎゅっと唇を結んだ。
 優しさもいたわりも、相手への恋情とは関係がない。恋は全く別の炎だ。燻るだけでいっかな火のつかなかった気持ちを誤魔化すことなど出来そうになかった。
 ──同じ顔つき。
 リィザは化粧台の鏡を振り返る。
 そこにあったのは確かに優しく相手を思いやって慈しむ目であっても、全ての障害や困難を乗り越えても相手を巻き込み、さらっていく目ではなかった。