第5章 月の下で 3

 遠い国の音楽のように、淡々と朗読が続いている。先ほどからカルアは隣で瞼の重さと必死で闘っているが、あまり抑制できないようだ。時々目を見開いたり大仰に頷いたり、眠ってはいけないという意識があるだけましなのだろう。
 本文の論旨がまとめに入ったのを聞き留めながら、リュースはそっとカルアの膝を揺する。はっと顔を上げた弟が慌てて口元のゆるい涎滴を拭い、照れ笑いになった。
 し、とリュースは唇に指を当てた。それと殆ど同じくして教授が朗読を終える。
 どうかねと問われてリュースは大変感銘を受けました、と取り澄まして返答した。それに倣ったカルアが同じ事を同じような口調で言う。皇子たちの様子に気付かず、老教授は頬をほころばせて今日はここまで、と宣言した。
 ようやく講師がいなくなった部屋でカルアが大きく伸びをして笑った。
「ああ眠かった……兄上は良くあれで眠くなりませんね」
「魔導も同じくらい古典音楽じみているから慣れているんだろうね。カルア、思うのは良いけどあまり眠っては駄目だよ」
 簡単にたしなめると、弟はやんちゃな仕草で肩をすくめる。立太子のための資質を見るという題目で二人が並んで講義を受けるようになってから一月ほどになるが、カルアの気楽さばかりが評点に負として書き込まれているのは察している。リュースの場合は大抵当たり障りがないために、あまり印象にも残らないのだ。
 評点が全てならいずれ自分が皇太子となるだろう。カルアもそれを望んでいる。
 他の人たちには内緒なんですけど、とこっそり耳打ちしてくれたのは
「だって俺が即位して兄上に補佐をお願いするとなると、結局兄上が全部国政をみるってことになりません?」
という他人任せの気楽な意見であった。
 それにリュースはつい苦笑してしまったから、カルアの方は彼の了承が取れたと思ったらしい。以来ますます適当な受講ぶりとなっている。
 それも構うまいとリュースは思う。結局のところこの帝王学とやらの学問所などは形式だ。皇太子は貴族間の派閥の力点が左右することになるだろう。カルアに決まれば学問所の評定などは不真面目で浅慮、から明るくて行動的、へと書き換えられるのだから。
 昼食のために二人でイリーナ皇妃の居宮へ戻りながら、カルアは朗らかな声でリュースの袖を引く。
「午後からエリザとルーミエが来るんです。イリーナ様の夏薔薇庭園が丁度いいから遊びに来るみたい。兄上も一緒にどうですか?」
「うん……そうだね……」
 リュースは曖昧に返答する。カルアがね、と明るく念を押したのに結局頷いたのは、エリザに会うのが久しぶりであるからかも知れない。
 元々幼馴染みという気安い間柄で行き来があったが、中等学院に通い始めてからはあまり顔を合わせなかった。
 エリザは恋人と上手く行ってるのだろうかとリュースはふと思い出し、唇だけで苦笑になる。
 そんなことまで自分が気にかける必要はなかったし、婚約ということになればいずれ慣例に従ってアルカナかアイリュスのどちらかから正妻を取ることになるだから、自分があれこれ気を揉むことでもないのだ。エリザに対してあるのは穏やかで温かな友好であって、何かの激しさではあり得なかった。
 ……それは少しづつ分かり始めている。
 夏薔薇庭園は母イリーナの自慢の庭だ。残夏の気配が漂い始める頃に一番爛熟する季節を迎える。
 ……夏の初めにその庭で、イリーナからの拒絶を受けたはずなのに、いつの間にか二人は同じ場所にいて、身体を添わせていた。
 それまで母と上手く接点が見つけられなかったとしても激しい喧嘩や反抗もしたことがなく、それは母の方も事情が同じだ。
 ラインのことは叱りつけもするし甘やかしもするが、リュースに対してはその必要もなくて美貌や優秀を誉めているうちにその他のことを忘れてしまったような節がある。
 お互いに怒り慣れていない者同士の感情の行き違いが激しく決裂すると、どうなるかは火を見るより明らかだ。あれから芝居じみた暖かさが自分たちの間に流れているが、結局自分たちという母子は決定的な時間というものをまだ味わいたくはないのだろう。
 それが分かっていてもリュースは良かった。とにかく母を傷つけることはしたくないし、非難することなどは出来るはずがない。
 元々感情の揺れ幅のある女性だし、と結論つけて一人で納得している。あれは言葉のあやで、単に勢いで口走ってしまっただけなのだと。マリアという、遠い昔に母の友人だった女性の話を聞いたのが良くなかったのだろう。
(その友達はもう死にました)
 母の今にも崩れそうなほどの硬い声が呟いている。知らなかったとはいえ辛いことを思い出させてしまったとリュースは思い、二度とそのことは口にすまいと誓った。つまりは母に辛いことはさせたくないのだ。
 庭園が近くなると、白い帆布が庭園の一角に張られているのが見えた。湿度の高くない昼にはああして庭に日よけをつくって食事にすることがある。
 薔薇園の食事は花の香りと外の涼やかな空気のせいで、普段よりはリュースも食が進む。だから母は時々こんな風にして彼を歓待してくれるのだ。
 そんなことを考えているとカルアがあ、声を上げた。
「母上……」
 リュースは顔を上げる。カルアが母と呼ぶならば、それはアイリュス系の正妃ユーデリカに違いない。
 リュースの母とも従姉妹同士で、やはりここも幼馴染みという関係だ。穏やかでおっとりした、深窓の令嬢という風情がまだ残っている。
 こちらに気付いたのだろう、ユーデリカ妃がゆったりと手を振っているのが見える。カルアがついというように手をあげたあと、慌ててそれを下ろして赤面した。
 母親に甘えるのに羞恥を覚える年齢になってきたらしい。
 異母弟は母親とここしばらく離れて暮らしている。淋しくないことはないだろうとリュースは思い、カルアの背中をとんと押す。照れ笑いになったカルアがそれでも少し足を速めて母親の元へ歩み寄り、頬ずりを交わした。
 即席の天蓋の下には他にも父やアイリュス大公、それにアルカナ大公までもが揃っていた。無論母イリーナの姿もある。
 エリザたちが来るとカルアが言っていたのはあながち間違いではない。
 エリザはアイリュス大公の一人娘であるし、ルーミエはいずれ一人しかいない嗣子の不都合を埋めるために、アイリュス本家へ養女に入るだろうという予測が既にあった。
 つまりこれは立太子の口頭試験なのだとリュースは悟った。皇太子の決定については専任の討議会を経るという手続きになっているが、その前に主だった大人たちであらかたを決めておくつもりなのだろう。
 今上帝である父、その二人の正妃、そしてこの国の権力機構をほぼ分割掌握する大貴族の両大公。
 リュースはアルカナ系でありカルアはアイリュス系であるが、父がアイリュス系の皇子であったことを考えるに、ことはやはり資質や意欲の問題ではないようだった。
 リュースは大人たちに軽く会釈して給仕の侍従に教書を渡した。カルアがそれでやっと本の所在をどうしたらいいのかを悟ったのか、同じ事をする。
 父を中心にそれぞれの母と挟まれるようにして席に着いたあと、食事は台本があるように明るく過ぎていった。
 エリザの中等学院での話、ラインの剣術の上達。子供たちの話に相づちを打つ大人たちの表情にはあまり気負ったところがなく、あるいは素養をみるだけであまり重要な試験ではないのかも知れないなとリュースは思う。
 横目でカルアをみれば異母弟のほうは刻まれた野菜の中から嫌いなものをさりげなくよけるので必死だ。
 リュースはそれに苦笑し、彼の前の皿から肉を拾い出した。
 肉や脂といったものはひどく胸に悪くて元から余り好きではなかった。そうでなくてもここ最近、暑気あたりなのか食事をしても吐いてしまうことが多い。
 ラインはこんなものが好きだから、と弟の皿にいつものように入れてやろうとすると、母がぴしゃりと駄目よ、と遮った。
「リュース、ちゃんと食べなさい。ラインもそんな物欲しそうな顔をしないのよ」
 普段はこうしたことにあまりうるさい母でなかったから、他の大人たちの反応を気にしているのだろう。リュースはすみませんと簡単に頷き、捨てるわけにもいかないと良く煮えた肉を口の中へ押し込んだ。
 何か変な臭いがすると思ったのはその時だ。腐っているということではないが、普段口にしているものと何かが決定的に違う。
 口の中でいつまでも噛み続けているわけにもいかないと急いで水で押し込むと、やっと喉を塊が通りすぎていってリュースはほっと溜息になった。
 食事が進むとやがて最後の菓子が出る。果物よりもこの季節は氷菓が多く、それがまだ胃に何かが燻っているような感覚には良かった。
 早めに食べ終わったラインが椅子から滑り降り、大人たちに向かって簡単に礼をすると庭へ向かっていく。それをエリザとルーミエが追って、カルアが自分もと立ち上がりかけたとき、父帝がそれを制した。
「カルア、まだ最後の茶が出ていないよ」
 カルアはきょとんとした顔で立ち止まった。食後の茶などは重要なことではない。何故それを待てと自分だけが言われるのかを理解できていない顔つきだ。
 自分に困惑したままの視線が向けられて、リュースは弟に首を振った。
「いいからここにいなさい、カルア。皆さんは私たちに話があるようだから」
 大人たちが目配せをしあっている気配がした。父がふと目を細め、リュースの髪を撫でた。それに少しばかり微笑んで、リュースは自分の前に置かれた茶を含んだ。僅かに残るのは甘い香り。薔薇園で母が摘んだ花の匂いだ。
「さて、今回の仕儀ですが」
 口火を切ったのはアイリュス公であった。中年の、ややふっくりした体格は首をすくめた梟と似ている。目尻はいつも何かのために微笑んでいて、そのため細かな皺が沢山そこにあった。
「両殿下には学問所は如何でしょうか」
 問われてリュースはカルアと視線を合わせ、先に口を開く。
「座学が中心なので単調ではありますが、興味深く拝聴しています」
「難しくて分からない事が多いですけど、兄上によくして貰ってます」
 カルアの返答に大人たちが一斉に苦笑になる。自分の返答もあまりにそつなく出来すぎていたが、カルアも本当に適当だとリュースはゆるく笑い、そうでもないよと軽く口を入れた。
 父がカルアの額を撫でて、リュースに負担をかけるなよと一応の釘を刺し、二人とも、と言った。
「二人とも、もっとよく国の姿を知っておきなさい、特にカルア。お前はずっとロリスだったから、宮廷のことは良く分からないはずだ。リュースには何度か議会などを見学させているが……」
 父帝の視線にリュースは頷く。
「お前も同じ事を経験した方がいい。お前はもっと知るべきだ──それとリュース」
 父は今度は彼に向き直り、淡く笑ってみせた。
「お前は勉強は良くできるし思慮も深いけれど、カルアが知識を積むべきなのと同じように、お前も他人との経験を積むべきだ。いいね、人は一人では生きてゆけない、それはとても当たり前のことなのだから」
 父の言葉は優しいが、頑としてもいる。リュースはやや俯いた後で頷いた。
 父の言葉はきちんと分かる気もしたし、具体的には何も分からない気もした。
 リュースが俯くと、そっと母が彼の手を握った。目線は優しく笑っていて、リュースはそれでやっと安堵する。
 自分の至らないところは自分では掴みづらい。けれど父がそんな風に考えているとすれば、やはり反省した方がいいのだろう。
 父帝がリュースに欠点ではないのだよと優しく言って、さてと語調を整えた。
「カルアの養育もきちんとした形では終えていないし、これの皇族としての教育をきちんと施すことで審議会の時期を少し先へずらしたいと考えているが、両大公のお考えは」
 父の物言いは穏やかで、根底に気遣いが流れている。
 威圧的でないのは父の性格からくるものだが、それ以前に両大公の意志を無視しては何事も進まないのも現実であった。
「異存はありませんな」
 真っ先に返答したのはアイリュス公で、これは至極尤もであった。父帝もアイリュス系であるが、やはり自閥系から次の帝位を出すことは大きいものだ。
 ついでアルカナ公が頷く。イリーナの実兄であるが、こちらは痩躯といってよい男だ。
「時間を延ばしてじっくり審議した方がよろしいな、こういうことは……次代の君を決める重要なことです」
 こちらは余裕とも取れる言葉であった。
 父はそれにも頷き、では来年の冬を過ぎてからに、と決着する。もういいよと言われてカルアは早速というように席を立ち、夏薔薇の誇る庭園の、噴水のあたりへ走っていく。そちらからエリザたちの笑い声が聞こえていた。
 エリザに少し近況でも聞こうかと思いながら、リュースは茶を飲んだ。
 夏は食欲が落ちるかわりに水ものが多い。その彼をアイリュス公が呼んだ。
「殿下、うちの娘をどうかよく思ってやってください。あれは私に似ず、思いがけず美しい娘になりまして」
 ええ、とリュースは曖昧に頷いた。エリザはくっきりした面差しの美しい少女であった。さすがに大人たちの席ではおとなしく礼儀に乗っ取って食事をしていたが、本来は闊達で明るい。
「いずれ、もっと大切なことをお願いに上がりたいものですが、殿下があれを厭わしく思っていなければと心配しておりますので」
 リュースは苦笑になった。
 最近自分とエリザが疎遠なように思えて気を回しているのだろう。彼女とは確かに会わない日々が続いているが、それはリュースにとってさほど重要なことも変化もない証拠であった。エリザの方も普段と変わりない。
 中等学院の講師陣の手伝いに時折卒業生として顔を出すが、そんな時には軽い挨拶程度は交わしている。
 エリザとの婚約は誰もが暗黙に想定していたが、はっきりとした形で示されたことはなかった。自分か彼女か、もしくはどちらかの親が激しく拒絶したら撤回が出来る。それをほんの僅かに先んじる言葉でもあった。
 リュースは大丈夫ですよと笑ってから、付け加えた。
「でも、彼女には彼女の思いもあると思います。どんなお願いにしても、どうか彼女の言葉を一度聞いてやってください、公」
 選択はエリザに委ねるというリュースの言葉に、アイリュス公は不意に生真面目な顔になった。
「──魔導士までお使いになって、誰をお捜しです、殿下」
 リュースは僅かに身じろぎし、エリザの父に真向かいあった。それがエリザと彼とのことにどうつながるのだろう。それがまるで結びつかなくて、リュースは瞬きをした。
「……何の話です」
 中等で一緒だった「彼女」のことを表にするにはまだ確定的な何か、はなかった。
 それに「彼女」がひどく沢山のことに怯え、今でも怖れ逃げ続けていることは去年の夏の花火の日によく知ることが出来た。魔導によって痕跡を辿れないように結界罠を残していったならば、それは即ち二つのことを教えてくれる。
 彼がまだ逃亡者であること。
 そして彼を追う相手が魔導士をかり出せるほどの立場や地位を持っていること。
 だから迂闊には全てを肯定するわけにいかない。リュースは宥めるように笑って公、と言った。
「魔導士には色々なことを命じます。私の小さな証明問題の実証にも。ですから、誰かを捜しているということもよく似たそんな実証実験かもしれません。申し訳ないですが、誰を、と言うことに心当たりはなくて……」
 言いながらリュースはふとその場の空気が一転していることに気付いた。全員が呼吸を忘れたように黙り込み、父は愕然としていて、母は蒼白だ。
 そしてアルカナ公はじっとリュースを睨むように強く見つめている。何かを聞き漏らさないようにという表情にも見えた。
 リュースは奇妙な沈黙に慌てて笑い、本当に何でもありませんよ、と言った。その時になってやっとアイリュス公が聞いた意味が分かった。エリザのことを無視して誰か見かけただけの女性を必死で捜しているとでも思っているのだ。
 そんな下らない、という失望に似た怒りでリュースはやや不機嫌になり、その原因を作ったアイリュス公にまっすぐに視線を当てた。
「一体私が誰を捜していると問題なのです? エリザとのことは彼女が決めることだと申し上げましたし、私は私の信念と意志で魔導士に命を与えています。私にとって必要なことですので」
 強く言いきると、それではっとしたらしい父がリュース、と叱りつけた。
「そんな言い方があるか!」
 父帝の言葉が終わらない内に、軽く頬が張られた。
 リュースは乾音を立てた頬を押さえる。痛みは殆ど無かった。父が自分を庇ってくれたのだとその軽さで悟る。
 済みません、と呟くとその場の空気が張りつめたものから一段弛んだ。座ったままリュースはアイリュス公へ腰を折って謝罪の言葉を口にしようとした。
 ──その時のことだった。
 リュースは弾かれたように席を立ち、口元を押さえた。何かが胃の底から翻ったように、逆に駆け上がってくる。
 人々の驚いた声に構う余裕なく皇子は数歩駆け出し、眩暈で崩れ落ちた。身体を打った衝撃で吐き気が一気にこみ上げてくる。
 どうにか身体をずりあげようとすると、自分の上にふわりと影が出来た。
 マルエスの長衣の端だと思った瞬間に、皇子は身を折って胃の中のものを全て吐き戻した。喉の奥から上がってくる嘔吐が臓腑全体をえぐるようだ。
 喉に引っかかった細かな溶液をどうにか咳で飛ばしていると、殿下と囁きながらマルエスが背を撫でたのが分かった。
「どうかお休み下さい。……最近良くございませんね」
 呼吸を整えながらリュースは頷く。だが眩暈がさほど酷くないと気付き、リュースは怪訝に思った。
 奇妙なほど身体に変調はなかった。戻してしまったことで大体が解決してしまったらしい。多少の胸焼けは残っているが、あまり違和感がないのだ。
 さっきの肉だろうかとリュースは侍従が差し出す水で口を注ぎながらちらりと天蓋を振り返った。
 母イリーナが蒼白で駆け寄ってくるところであった。
「リュース、リュース! 大丈夫? 無理をしては駄目よ……──お前はこの子の護衛魔導士ですね? 最近は体調が悪いのかしら?」
 マルエスが暫くの体調の低い位置の推移を説明しているのをぼんやり聞き流しながら、リュースは口元を拭う。侍従が薄い綿布を日よけ代わりに彼にかけ、呼ばれてきたらしい近衛騎士が負担をかけないように抱き上げた。
 ちらりと振り返ると、マルエスが隠遁のために淡く消えるところだった。薔薇園の土に彼の吐瀉物が残っていないのならば、きっとマルエスの衣に戻したのだ。
 皇子は赤面し、長い吐息と共に目を閉じた。