第5章 月の下で 5

 晩鐘が遠くから幾重にも、空気を震わせながら近寄ってくる。
 それを待っていたタリアの篝火が殆ど一斉に灯され始めて、通りは一呼吸する前に朱泥に浸ったように赤く染まった。
 チアロはこの瞬間が一番好きだ。これを女の化粧だとたとえる言葉を初めて聞いた時、深く頷いた記憶がある。とびきり華やかで贅を尽くした表通りの組合筆頭妓楼の格子が赤く照らされて燃えるような美しさを誇っている。
 小さな白い花火が尾を引く音を立ててぱちんと咲いた。火薬は砂金と同じ価値がある。筆頭妓楼で何か慶事があったのだろう。
「お、豪気だね、見に行こうか、水揚げか身請けの披露だよ」
 チアロは明るい声を出し、隣でぼんやりと突っ立っている友人の手を握る。
 彼はまるで子供に戻ってしまったようだ。昼間はいつ訪ねていってもまともに受け答えをしない。ぼんやりと、放心して弛緩しきった視線で外を見ている。
 ──窓の外の、鳥たちを。
 夕方を過ぎてこの時間になるとようやくぽつりぽつりと言葉が出るようになっていたから、連れ出すのはいつもこんな時間だ。
 クインの返答はないが拒否の様子は見せなかった。
 彼の様子に頓着ない風を装って、チアロはほら、と手を引いて歩き始める。少し足を引きずりながらもクインは大人しく連れられているが、彼の声は聞けなかった。
 エミリアとのことを壊して破算にしたとき、これほどまでに彼の異存が酷いと思っていなかった。
 ミシュアから地上街道の乗合馬車でチアロは帝都まで帰還したが、そこで待っていたのはライアンの激高のために全身を痛めたクインの姿だった。
(喧嘩だ、気にするな。ただリァンのことを引き合いに出したのは奴が悪い)
 ディーはそんな言い方をしていたが、それをしたくなる、クインにとってはせざるを得ない状況を作り込んでクインを追い詰めていったのはライアンではなかったろうか。
 最初に出逢った頃からクインはリァンのことをライアンが気にかけすぎると気に入らなかったが、それをなじらなくてはいけない方が、責難されるより辛くないなどということはない。
 ライアンは心なし青褪めていたから、それ以上を彼には言えなかった。
 けれど、とチアロはクインの手を引いてタリアの大通りをゆっくり巡りながら思う。
 クインは淋しかったのだ。
 誰でも良かったというのには語弊があるかも知れないが、優しく明るい愛情で、彼の胸のささくれだった部分を丁寧に埋めてくれる相手であれば誰でも良かった──自分にさえ縋り付こうとした彼があまりに辛くて見ていられなかった。
 エミリアという女に傾倒し始めたのを気付いた時、依存は既に始まっていて簡単に引き抜くことは出来そうになかった。
 クインを下手に傷つけまいとして却って機会を見失ってしまった責任は、自分にもある。
 今となっては何が最善で次善であったのか、定かではなかった。
 エミリアの方はどうやら帝都には戻っていないらしい。では彼女の故郷にでも飛んでいったのだろう。故郷近い街に妹がいるはずだ。彼女にも酷いことを、とチアロは胸の中で呟く。
 ごく普通の愛情の配分を心得ている彼女に妹とクインを無理矢理選べと言えば家族に決まっているのだ。ライアンの思惑は分かるしそれには自分も賛同するが、あまりよい役回りではなかったと自分でも思う。
 それにしてもディーや、ライアンと共に戻ってきたオルヴィのようにエミリア自身への危害を提案するよりはライアンは随分ましと言えた。
 ライアンはクインを彼なりに特別に気にかけている。遠ざけようとするのがいい証拠だ。
 失って辛いものは持たない主義で、辛くなりそうなものには近寄りたがらない性質だから、ライアンが身辺に寄せている人間のうち、信頼されているらしいディーや自分を除いた全てが捨て駒だ。
 うぬぼれるなら、多分自分たちも捨てていい札だが、それはかなり後のことになのだろう。
 順列の詳しいことは察するしかないが、チアロはその最後の札は自分だと思っている。
 ──それをクインが気にかけているとは知らなかった。
 ライアンが彼に特別だと言ったことに嘘だと噛み付いて、叫んだと聞いた。
(あんたの特別はリァンだけで俺のことは付録だろ? チアロだってあんたにはリァンの模造品じゃないか……!)
 単純に、これはチアロにとっては嬉しい言葉であった。
 ライアンの視線が自分の後ろにリァンの面影を探していたことは分かっているし、それは仕方のないことだと諦めてきた。それが嫌だと思ったところで今更違う自分にはなれないし、そんなことは意味がない。
 ライアンが自分に何を投影していても、自分がライアンに対して思う心や気持ちには本来関係がない。
 相手の思惑に関わらずまっすぐに人を愛せる自分がチアロは好きだし、いつまでもそうでありたいと考えている。
 相手からの心が返らないことや思うに任せないことが多い時は哀しいが、生きている限り、よい未来が必ずある。
 それをクインにも信じさせてやりたかった。けれどクインはエミリアとのことが壊れてしまった衝撃に、未だに足元が定まらない。
 これ以上はもう耐えられそうにないとライアンが音を上げたのが珍しかったが、その様子を聞けば背が冷えた。
 昼間を過ごすチアロとの時は彼は大人しすぎるほど従順だ。
 口数は少ないが、時折はチアロの冗談に唇をゆるく開くことがある。目がまるで違う場所の幻を見ているから真実安堵するわけには行かないが、チアロを気遣うならそう酷いことではなかった。
 だがライアンの口から聞く彼の褥の狂気には愕然とする。
 何が一番惨く辛いかというなら、それが全てライアンへの復讐であろうことだ。ライアンによって追いやられていった方法とは違うやり方で、クインなりにライアンを虐げている。
 道理でなかなか傷が良くならないはずだった。
 クインは確かに頭がいい、とチアロは苦笑になりかける。ライアンが何故自分に対して弱腰なのか近寄りがたく遠ざけようとするのか、確信してやっているのだ。
 分かっていなければライアンへの好意の示し方はもっと違うものになるはずであった。
 失ってもいいものしか側に置かない。愛したものを失う辛さを知り抜いているからこそ、最初から愛さないように遠ざける。何もかもを失ってもいいように、無くして辛いものは持たないようにしているのだ。
 チアロはその臆病な性分を、けれど却って愛おしい。馬鹿だなあと思う。
 こんなに分かりやすくて背反なことがあるだろうか。
 好きならば好きだと直線的に愛すればいいのだ。失って辛いのはどんなものだって同じだし、それは自分の気持ちの上に興ることだから、誰にも奪われない。
 それをライアンは怯えている。
 クインが彼にとって庇護対象者でありリァンに対する彼の欲求の一部分をまっとうして補完する存在であることはチアロは疑わないが、クインもそれが自分への興味と関心と好意だと誤解できればことはここまでこじれなかったはずであった。
 クインがライアンに何故ああして絡むのかはチアロにも良く分からない。
 ただ、彼は年齢が離れて上の、自分に優しくしてくれる相手には男女問わず比較的素直に懐く傾向がある。まだ幼い頃に出会ったことでライアンの印象は彼の中では大きいのだろう。
 ……最初に彼を捕まえた時、ライアンは確かに時のタリア王、カレルにクインを貢ごうとしていた。カレルは虐癖の持ち主で、リァンから同じように提供されたライアンが死の寸前まで追いやられたことがあるらしい。
 らしいというのはその頃チアロは父親と気楽な旅を渡り歩いていたからだが、クインをカレルに差し出して生け贄にするつもりであったはずだ。
 ライアンがクインを逃がしてやったのが何故なのかはチアロには分からない。
 けれど、クインがそれで彼を自分に甘くしてくれる相手だと感じたのは間違いがないだろう。事実、クインはそれ以来ライアンの渋い表情にも頓着せずにチェインに出入りしていたのだから。
 クインがライアンに好意を持つのは分かる。彼をつなぎ止めておくために身体を開くしかないと思っているのが間違っているだけなのだ。
 チアロは手を引かれて俯いたままついてくるクインに足、と聞く。クインはやや呆けたような表情であったが頷いた。
「うん……大丈夫」
 そう、とチアロは顔を潰すようにして笑ってみせる。今クインに必要なのは、彼女がふんだんに与えるはずだった優しさと明るさを、少しでも補充してやることなのだとチアロは信じている。
 綺麗なものを沢山見せてやりたいと思うのもそうだし、何か美味いものでも食べさせてやりたいと思う。
 ぬるく傷ついた心にはぬるま湯につけるような愛情が相応しく、上等だった。