第5章 月の下で 6

 花火の上がった妓楼はやはり水揚げの披露目だった。
 見物の人垣に混じり込んでいくと、どっしりした赤い絹地にびっしりと刺された精緻な刺繍が目に入った。水揚げの少女が身動きする度に揺れる花板の飾鎖が眩しい。
 少女の面差しは可憐で、ぱっちりとした目が人形のようだ。
「可愛いなあ、ほら、年はいくつだろ」
 チアロは明るい声を上げながら、指をさす。
 クインはちらりと興味なさそうに視線をあげ、さあ、と投げやりな声を出した。チアロはクインの反応の薄さには構わずに可愛いよなあと朗らかに笑った。
「あ、ほら祝儀が出る」
 大きくて格式の高い妓楼の水揚げには沢山の儀式がある。格が落ちれば落ちるほど、特別なことは何もなくなっていくのだ。
 万象万乗万歳の決まり文句のかけ声と共に、駄菓子を包んだひねりが妓楼の中からばらまかれる。人々がわっと喊声を上げてそれを拾いに詰めかける。
 人並みに押されてチアロはクインの手を握ったまま前の方へ押し出され、一つ二つを拾った。これは拾ってやるのが礼儀なのだ。
 最後に水揚げされる少女からひねりが投げられて、これは特別の祝儀が入っているものだったから人々が手を伸ばしてこちらへとざわめく中を、不意にチアロは視線を感じて貼り付けていた楽しげな笑みを収めた。
 強い視線は水揚げの少女からまっすぐにこちらへ向かっていた。
 それが簡単な好意でないことを肌で悟り、チアロは微かに怪訝に眉根を寄せる。と、少女の整って愛らしい表情がきゅっと歪んだ。その目が自分から少しずれた場所を見ている。
 チアロはそれを追って視線をずらし、慌ててクインの手を引いた。
 クインはやや俯き加減に薄ぼんやりとした表情をしていたが、その物憂げで儚い様子はこの場の全ての上に君臨するほどの美しさだった。
 見慣れているはずのチアロでさえ、一瞬言葉が出ない。
 赤い篝火に照らされた肌は茜色に染まるほど白いことを誇り、じっとあらぬ場所を見つめている彼の身から、微かな光感さえ覚えるほどの麗しさだ。
 少女の目線でクインに気付いた群衆が波打つようにざわめき、打たれたように静まりかえった。少女の目にあるのは今やはっきりした怒りであった。
 水揚げという妓楼での最初の晴れがましさを横から奪われる怒りだ。
 少女がどんな奢りの中にいたか、その怒りの激しさを見れば一目で分かった。
 美しさと可憐さを崇められ讃えられ、数多くの男たちの憧れを掻き立てるために媚びるでなく豪奢に微笑む、そんな生活をしていただろうし、これからもそうなるはずだった、──但し、それは朝日に消える霞のように、無力な強さしか持っていない。
 彼女よりももっと圧倒的に美しい、くっきりした美貌の前に。
 少女が美しく化粧された頬を歪めた。
 チアロは人垣の中から抜けようとクインを促した。分厚い人混みに掻き入ろうとしたした時、少女が祝儀を投げた。それはまっすぐにクインの目尻あたりに命中し、重い音を立てて落ちた。
 その瞬間に、何かの糸が急激に張り戻ったようにクインの瞳に光が宿った。底光りする光のようなものが戻り、クインがきつく少女を睨みつける。
 少女は今にも泣き出しそうな表情をしていた。これから先の数年において一番の誇りになる場面をよそ者に汚されたという屈辱が、彼女の白い頬を上気させている。
 クイン、と促そうとした時、友人は低く笑い出しながら自分の足下に落ちた祝儀を拾い上げ、止める間もなく投げ返した。
 それはしてはならないことの一つであった。
 少女が美しい面輪を歪め、気違い、と叫んだ。それがきんと通った瞬間にクインが喉をのけぞらせるように笑い出し、チアロが持ったままだった通常の祝儀をひっつかんでそれも少女めがけて投げつけた。
 チアロが口を塞ごうとするよりも、クインの誇らかな哄笑の方が強く早い。
「黙れよ、淫売!」
 クインはそう怒鳴り、笑い出した。少女がくっと唇を噛んで、もう耐えられないというように妓楼の中へ駆け込んでいく。
 それと入れ替わりに妓楼の衛士たちが駆け出してくるのに目を留め、チアロはクインの手を掴んで駆け出した。
 背後で怒鳴り声がしている。
「おい、待て、馬鹿どもが!」
「チアロだな──このチェインの餓鬼め!」
 タリアに長くいるのならば、チアロの顔を知っているものも時折いる。それは無論ライアンの側人としての彼の顔だが、いずれ妓楼の組合を通じてタリア王の配下あたりを経由し、ライアンに嫌味がゆくだろう。
 路地や抜け道ならばチアロの方が彼らよりも数段詳しい。
 滅茶苦茶に走り回ってやっと呼吸をつくと、またクインが喉を鳴らして笑い出した。たがの弛んでいるような感触はしなかったが、人を怒らせて楽しむような真似はいい趣味だとは到底思えなかった。
「あれはまずいよ、可哀想に……」
 息を整えながらそんなことを言うと、クインはゆるゆると首を振った。
「だって、俺の方がずっと綺麗だよ……チアロはそう思わない? エミルはいつも俺のことを綺麗だと言ったしね」
 クインの言葉にチアロは溜息になる。少女の傷ついた顔もよくわかる。それが仕方のないことだとも。
 クインの美貌は天与としかいいようがなく、人目を惹き付けて離さない。見に行ったことが悪かったのは確かだが、クインにはこの世界にある美しいものに少しでも触れて欲しいのだ。
 いつまでも自分の中の狂気や怒りにつきあっていても、それは全く彼を成長させない。美しいもの、優しいものに触れて嬉しいと思える心だけが、人を自分で癒させる。
「確かにお前の方が美人だったけど……でも」
 エミリアのことはあえて無視し、チアロが言いかけるとクインは黙ってというように首を振った。
「俺のことはもういいんだよ、チアロ。ライアンに頼まれたのか、それとも? あいつ俺を殺したいのか違うのか、どっちなんだろうな」
「クイン、そんな言い方は良くない」
「じゃあどんな言い方ならいいんだ? 俺はただ、ライアンに俺のことをリァンみたいにぐじぐじ思い出して貰えるならなんでもしようと決めただけさ」
 チアロはそれ以上何かを言うのをやめ、クインの肩を揺すって歩き出した。タリアの大通りにはそれなりに格式のある店が多く、年若い者が気楽に入れるような店は殆ど無かった。
 食事のために路地を渡り歩きながらチアロは何が食べたいかと聞く。
 クインは大抵要らないと返答するが、それは無視していつも自分一人で何事かを喋りながら適当な店を探すのだ。馴染みを殆ど作ろうとしないライアンについて歩く内に、自分にもそんな習慣が出来上がってしまっている。
 ここ数日の食事を脳裏で確かめながら、チアロは目で適当に店を探し歩く。手は繋ぎ直すと素直に従うクインがやはり哀れでならなかった。
 結局のところ、彼は淋しいのだ。
 彼をこんな風にしたのは俺だとライアンは苦しく呻いていた。
 その声音をクインに聞かせてやりたいとチアロは思う。そうすれば、もっとライアンとのことを穏やかに受け止めていけるだろうに、それをどうして放棄するのだろうか。
 愛はぶつかり合うものでも破壊し合うものでも、そして支配しあうものでも決してない。お互いがあるがままに在ればいいと思う自分が間違っているのだろうかと考えてしまう。
 とにかくクインには心の均衡の取り方を思い出して貰わなくてはいけなかった。ライアンに返し刀で次第に迫っていく様子には、端で見ている方がひどい危機感を覚える。
 特にクインに何もしてやれなかったという悔恨は恐らく、ライアンよりは自分の方が深く感じている。
 ライアンの場合は自分の臆病な性質がクインを沈めてしまったという後悔であろうが、チアロはその過程をライアンよりも良く目にしていたし、自分ではそれなりに息抜きをさせているつもりだったのだ。
 それにはまず一緒にいる時間を増やすという最も単純な方法へ立ち返るというのがチアロの結論だ。彼に沢山の、人生と世の中の楽しく面白いこと、美しいものや愛らしいもの、そんな彩りがあることを思い出させてやりたい。
 とりあえず何か、と通りをぶらついていると、不意にクインの足が止まった。
 気付かずに行き過ぎようとして、チアロもそれにひかれて立ち止まる。
 クインは遠い目線で赤い格子の向こう側を見つめていた。
 消えてしまった蜃気楼を眺めるような視線だとチアロは思い、嫌な表情だと苦く思いながらクインの目線の先を辿ろうとした。
 その時、不意にクインが呟いた。
「……エミル……エミルがいる……」
 チアロはぎょっとする。彼女をさらって妓楼へ放り込めなどと指示をした覚えなど在るはずがない。
 そんな馬鹿なと慌てて赤い格子の向こうへ彼も視線をやるが、やはりエミリアなどはいるはずがなかった。
 けれど、その代わりに見つけたのは戸惑うような現実だった。
 クイン、とそっと目を塞いでやると、クインはふっと格子から顔を背け、チアロに抱きついてきた。動揺しているのだ。
 それが本人でないことくらいは知っているのだろう。
 けれど、時折人は自分の欲するものを無理矢理にでも見ようとする──例えば、自分とはまるで似つかない顔立ちをしているのにも構わずに、チアロの遠くにリァンを見ようとするライアンだとか。
 それを思ってチアロは苦い顔になる。
 そこにいたのは黒髪の遊女だった。
 似ている。顔立ちはエミリアという女よりも多少幼く弱々しいような気配がするが、一瞬見た時の造作や面差しの雰囲気に共通するものが多い。
 別人だということはすぐに分かる程度の相似でしかないが、例えばエミリアが持っていた温かで優しそうな空気は同じだ。
 チアロは迷い、クインを見た。クインは見たくないというように顔を背けたままで俯いていた。
 思い出したくない。忘れたい。そんな言葉に心底から頷くことも出来ずに彼が苦しみ呻いてのたうちまわっている。
 チアロはじっと格子の中へ目をやった。
 この妓楼は彼の馴染みだ。チアロが心の底から深く恋をする女、シアナがいる。女将の人なりも良く知っているし、金額も大体は計算できる。
 僅かに躊躇う心を振り切るためにチアロはそうだ、と明るい声を出した。
「なあ、ちょっと寄って行こうか、そうしよう、いいだろ、つき合えよ」
 返事を待たずにクインの腕を引き、妓楼の格子戸を開ける。小間使いの少女が常連客のチアロを見て微笑み、いらっしゃいと愛想を言った。
 それで帳面台で煙管をいじっていた女将が顔を上げ、チアロに頷く。
「女将さんこんばんは。えーっと」
「あの子はさっき客が帰ったばっかりだから、少し待っていておくれよね。それと……そっちは?」
 女将の視線が向いて、チアロはクインを軽く突き飛ばす。よろめくようにクインが前へ出て、ようやくはっとしたように周囲を見回した。妓楼だということは分かるのだろう、途端に俯いて柱にふらふらともたれかかり黙り込む。
 気に入らないのだ。
 チアロはその不平を無視し、あの子、と食堂で給仕をしている遊女を目で示した。
「あの子、こいつにつけてやって。金は俺の奢りで、泊まりでね」
 女将はちらりとクインを見やり、すぐに頷いた。小間使いが黒髪の遊女を連れてくる。
 遊女はクインに目をやった瞬間に、あ、と小さな声を上げた。
 反応が初めてではないらしいと気付き、チアロは軽い笑みになりながら、知り合い、と聞いた。
「あ、あの……いえ、少しだけ、お話をしたことがあるだけで……」
 小さな声は消え入りそうにかぼそい。
 到底チアロの好みから遠かったが、こんな優しげな少女の方がクインにはいいかも知れないと思い直し、彼を頼むよといった。
「ちょっと落ち込んでるんだよ、慰めてやって」
 チアロは遊女に笑いかけ、女将によろしくと同じ事を言った。女将が頷いてあんたの奢りで良いんだねと念を押した。それにチアロが頷くと女将はにっこりと商売の破顔を作り、よく通る声で宣言した。
「旦那様をリーナの部屋へご案内! ゆっくりしていって頂戴。分からないことがあったらこの子に聞いてね」
 最後の言葉はもの慣れていないクインへのいたわりなのだろう。
 戸惑って振り返るクインにチアロは手をひらひらと振り、食堂の方へ歩き出した。シアナの身体が空けばじきに階下へ降りてきて彼の頭をはたき、いつもの傲慢な笑顔でまた来たのと笑うはずであった。