第5章 月の下で 7

 渇いている、とライアンには言われた。
 そうかも知れないとクインは思う。エミリアとのことが幻になってしまったことで自分を責め、ライアンを非難し、けれど彼からの贖罪を受け取ってしまえば最後に向き合うのは自分の中の罪でしかない。
 だからそれは受け取らない。狂気なのかそのふりをしているのか、自分でも境界は曖昧だったが、世界への怒りとライアンへの鈍い憤りが今の自分を辛うじて支えている。
 昼の柔らかで温かな日射し、明るい日常の光の中にいると自分が場違いなところに座らされているようでどうしていいのか分からない。
 そして夜の青い孤独の中にいればただ淋しくて身を切られるほど辛い。
 ライアンはあれから時間を割いて回してくれているようだが、月に三度ほどだった会話が週に二度になったことが劇的な変化だとは思えなかった。
 一人の夜は淋しいし、ライアンがいてもなお淋しい。ライアンに徹底的に自分を痛めつけるようにし向けているのは彼の心に悪意と痛みをばらまくにはそれがいいと思ったからで、どうやら成功しているようであったが、一体こんな事をしてなんになるのだろうという声がどこからか聞こえてくるのだ。
 ──意識を取り戻した夜、ライアンに現実に巻き戻されるようにして彼と寝た。殆ど力づくでライアンは自分を取り戻そうとしたのだ。
 快楽かどうかという以前に自分の中の空虚と胸裂けるような悲しみがぐるぐると回って、あの晩は喉嗄れるまで泣いたはずだ。
 ライアンの身体が自分を押し潰さないように気を使うのが苛立たしくてたまらなかったし、エミリアのことを失い、全てを放擲したことで初めてライアンが自分をその意志で巻き込んだことが許せなかった。
 けれど、それはエミリアの温かな腕に巻かれる以前、自分が望んでいたことではなかっただろうか。
 知ってしまえば他のものは要らない。ライアンが彼に与えようとするエミリアの身体の熱と似たものでは、既に満ちてゆかないのだ。
 エミル。クインはじっと遊女の部屋の床にはられた、美しい組木模様を睨み据える。
 チアロが自分を勝手にこんな所へ押し込んでいったのは、今怯えたような目で彼を遠くなく近くない場所で見つめる彼女がエミリアと似ているからだ。
 順序としては逆で、最初エミリアを見た瞬間には、それ以前に行き会ったこの遊女と似ていると思ったはずであった。
 けれどその位置は決定的に逆転している。
 エミリアは彼の中に明るい光が差し込むための窓をつけてくれた。いつか翼を広げてそこから飛ぶことが出来るわと言ってくれた。彼女といるだけで穏やかになる気がしたし、手を触れていれば嬉しく、頬を寄せていればなお嬉しかった。
 終わることだ、というのは分かっていた。いずれ離れて行かなくてはいけないとはっきり自覚していた。
 だからこそミシュアへ向かう旅路やその過程が美しく貴重なものになるだろうと思ったのに、それはほんの僅か手前で道を逸れ、息苦しい迷路へと紛れ込んでしまったのだ。
 エミリアはどうしているだろう。見に行くことさえ怖い。自分が彼女に接触したら次はないとチアロも言った。
 だから行かない方がいい。行ってはいけない。
 あの優しくて暖かな色をした女に二度と会えないことが現実だった。
 そしてクインは顔を上げて自分をひたすら見つめる遊女に視線をくれた。
 それははっきりとした敵意のような眼差しだったらしい。遊女が怯えたように肩を震わせたのが分かった。
「……お前……何か喋れよ」
 クインは低い声で命じた。
 チアロといると楽なのは、彼が勝手にいつまでも口を動かしてくれる部分が大きいのだろう。自分がどんな状態でも、彼なりにクインの気持ちを引き上げようとする。
 遊女は済みません、と呟いた。
「あの、何のお話を、したらいいでしょう……?」
 怖々とクインの機嫌を伺おうとする瞳が大きい。あの晩に一瞬、捕らえられたような気持ちになったそれは、今はもう何の感情も呼び起こさない。
 彼女の面輪にエミリアの幻だけを見ている。
 なるほどライアンは下らない、とクインはふと鼻で笑った。彼がしているのはこれと同じ事だ。
 彼のことを思い出すと尚更不機嫌になる。
 クインは遊女の問いに返答しないまま、座り込んだ椅子に身をゆっくり埋めるような姿勢を取り、長い溜息になった。
 ──つまりチアロは俺がライアンと同じくらい下らないと思ってるんだな。
 クインは口元を思い切り歪める。チアロはエミリアの顔を知っている。彼女がエミリアと似ていることも、では分かったのだろう。
 気を使おうとしてくれることを有り難くは思っても、これが嬉しいかどうかは良く分からなかった。
 それに、とクインは困ったように俯いてしまっている遊女を横目で見やる。
 彼女にはエミリアの持っていた嫌味ない明るさが足りなかった。もっとうち解ければ違うのかも知れないが、クインの発散する不穏な空気に気圧されているのか口数も少なくおどおどとこちらを窺うばかりだ。
 クインが溜息になった時、あの、という小さな声が聞こえた。
「何だよ」
 切り捨てるように言うと、ごめんなさいという反射的な言葉がもれた。
 クインは苛立つ。自分がせっかちで気忙しい部分があることを承知しながらも、この女は俺の機嫌を取らなくてはいけないはずだという認識がひどく素っ気なくて乱暴な言葉や態度にしかならないのだった。
「ごめんって、何が」
 底意地の悪いことを聞いている、とクインは顔を歪めた。
 遊女は困ったようにますます身を縮め、ひたすら済みませんと呟いている。それがいい加減に癇に障り始めてクインはお前、と吐き捨てるように言った。
「お前、同じ事しか言えないならもう黙ってろ」
 ──彼女はエミリアではない。失ってしまったものは、もう戻ってこない。
「俺は別にお前のくどくどした謝罪なんか聞きたくねぇよ」
 ──エミリアではない。彼女の持っていた全てと遠く隔たった、別人だ。
 そんなことは分かっていたけれど、何を期待していたのだろうと思うと尚更かあっと胸の底が熱くなるようだ。
 クインは言いたいことだけを言って長椅子の方に移って寝転がり、天井を見上げた。
 天窓から地上の赤い光に揺らめく月が見える。
 クインは手を伸ばした。エミリアの声が、自分の中に蘇ってくる気がしたのだ。
 ここは緑。春の色、新しくて綺麗な草が戻ってくる春。
 胸に描く幻想を、温かな理想を、そっと囁く声が優しかった。彼女のおおらかな気持ちに抱かれていたかった。エミル。
 エミル、好きだったのに。これがどんな種類の愛でも欲しかったのは本当だのに、どうしてあんな風に突然、何の予告もなく精算しなくてはいけなかったのだろう。
 現実は進んでいくのに、心の方はそれに追い付かない。
 自分がせかせかと時間を早めていく性質であるのに、肝心の己がついてこられないなどといういうことが、また苛立ちになった。
 クインは自分の顔を片手で覆い、長い溜息になった。
 何も考えずにいたかった。忘れろとライアンが言うのは正しいのだろう。ただ、自分が意地でもそんなことはしてやるものかと思っているだけだ。
 忘れない。絶対に。
 それがライアンへの復讐の方法であったし、自分の中に美しい幻影が眠っていたことの証明でもある。そしてクインは不意に身を起こした。
 結局この女がエミリアに似ているかどうかなんて、どうでもいいことじゃないか。自分に優しく微笑んでくれた彼女は一人しかいない。
 ならば、誰でもいい。もうどうでもいいし誰でも構わない。
 一瞬でも、ほんの束の間でも肌の熱と吐息で溶けてしまえるなら、もうどうだって構わないじゃないか……
 そんなことを口の中で呟き、クインは所在なく彼の横に座っていた遊女の腕を掴んだ。
 はっとしたように彼女が目をみはる。大きな瞳が怯えたように潤んでいるのを見た瞬間に、罪悪感のようなものが胸をかすった。それに自分で動揺する。
 何がいけないんだとクインは強く顔を歪めた。
 自分は客で、この女は遊女だ。俺を好きなように玩ぶあの客連中と同じ扱いをしていい相手だ。クインの表面だけを丁寧に愛でて好き放題に彼を扱う連中に覚えた憎しみが、形を変えて戻ってくる。
 抱いていいはずだったし、滅茶苦茶にしていいはずだった。
 ライアンが彼の胸を切り刻んだように、誰かを傷つけることで均衡を取っている。
 自分は荒れ狂いたいのだろう。本当に狂ってしまえたらどんなに楽だろうか。
 けれど、母のことがある限り生きて行かなくてはいけないし、あの商売だって辞めるわけには行かない。ライアンとの自虐ともいうべき関係も、エミリアとの思い出も、何もかも、放り出すものか。
 それら全てを放擲しない重みを、どこかに吐き出さなくては潰されてしまう。
 その捌け口が女でどうしていけない!
 クインは無理やり彼女を長椅子に引き上げると、着ていた木綿の赤い花襟の紐をほどいた。
 余りに性急で乱暴な仕草に彼女が驚いたような声を上げた。
 うるさい、とクインは強い言葉を捨てた。彼女はびくりと肩を震わせるとクインがもどかしく剥がそうとする服を手伝うつもりなのか、一つ二つ釦ボタンを外そうとした。
 クインはその白い手を払いのけ、服の前袷を掴んで思い切り引き破った。勢いで釦がぱちぱちと飛ぶ。
 遊女の視線がそれを追ったのが気に食わなくて、お前、と喉元を掴んで呻くように言った。
「俺を見てろ。他の所に目をやるな。いいか、ずっと俺を見てろ」
 遊女の喉を離すと、彼女は怯えたままで頷いた。クインは彼女の服に目を戻す。それは彼の粗野な行動のせいで既に半分ほどが引き裂かれ、下からはっとするほど白い肌が覗いていた。
 体つきは少し幼い。胸の隆起もあまりないし、腰まわりもほっそりとしていて、さほど肉感的な魅力を放つ少女ではなかった。
 クインの視線が身体を眺めているのに気付いたのか、少女が恥じらうように手で胸を覆った。クインはそれを乱暴に振り払う。
 羞恥なのか少女がふわりと頬を赤らめて、どうしようかと迷った末に手をクインの肩に回そうとした。
 その瞬間、クインは喘いでその手を叩き返した。似ている、と呻きかけてそれをどうにか飲み込む。
 最初の印象が似ていた通り、ふとした仕草や頬の影がぎょっとするほど重なったのだ。
 けれど──似ている。
 どうしようもなく下らない、全く意味のないことだと分かっているのに振り払えない。
 エミリアの身代わりなのか、彼女は。頭がおかしくなりそうだとクインは喘ぎながら、ぽろりと名前を呼んだ。
「……エミル……」
 その声に遊女がえ、と聞き返した。
 クインははっとした。今自分の身体の下で怯えたような不安な目つきで、しかし命じた通りに彼を見つめる女は決して彼女ではなかった。
 こんな時にエミリアならどうしただろうか。
 大丈夫よと笑ってゆったり抱き寄せてくれたろうか。それとも、優しいキスを、エミリア? あなたならどうしたろうか。俺を慰めてくれたのか、それとも抱き包んでくれたろうか。
 いずれにしても、それをこの少女が代行することはあり得なかった。
 急速にきたものが急速に冷えていく。クインは少女を突き飛ばし、立ち上がった。眩暈がする。
 ライアンがしていることをせせら笑っていたはずなのに、気付けば自分まで同じ事をしようとしていたのは何故なのだろう。
 淋しいという気持ちが何でもさせるなら、ライアンに縋ればいいのだ。そのほうがよほどましだ。
 少なくとも、ライアンとエミリアを混同するほど馬鹿ではない。
 だが、似た印象の女に依存しようとすること自体が、汚い。ライアンに向かって俺はリァンの幻影ではないのだとほえついたことが霞んでいきそうになる。
 クインはよろよろと少女から離れ、喉で意味のないことを呻きながら扉に背をつけた。
 少女が急いで服の前をかき合わせ、駆け寄ってくる。
「──あの、ごめんなさい、私、何か、あの……」
 クインの機嫌を損ねたのかと見上げてくる視線が大きくて、あの晩に出会った時のように美しく潤んでいる。
 けれどこれはエミリアではない。こんな贋の代用品で間に合わせようとした自分も許せないし、おどおどとクインを窺おうとするこの女にも腹が立った。
「俺はお前なんか欲しくない。あいつが勝手に放り込んだんだ──もういい、俺に構うな……泣くな、馬鹿っ」
 ついというように涙をこぼした遊女に心底うんざりしてクインは怒鳴りつけた。
 渇いている、とライアンは自分を指して言った。
 自分の中では涸れてつきてしまった涙をこんな下らないことでぼろぼろこぼしてみせられると、いっそ当てつけなのかと勘ぐりたくなる。
「泣くなって言ってんだろ、いい加減にしろ、知らない、帰る!」
 クインは少女を突き飛ばし、扉を乱暴に開けて足早にそこを出た。
 待ってと少女が叫んでいるのが聞こえたが、それには構わない。来た階段を駆け下りていくと、女将がぎょっとしたようにどうしたの、と聞いた。
 それに返答をせず、先ほどはチアロが開けた格子戸から出ていく。何かを女将が言いかけた気配がしたが、戻る気にはならなかった。
 駆け戻ったアパートは人の気配がない、しんと冷たい闇の中であった。
 クインはまっすぐに寝室へ入る。遊女の身体からついたのか、ふわんと甘い香りがする。
 こんなもの、と滅茶苦茶に自分の肌をかきむしり、それでも足りなくて意味のない悲鳴を上げながら服を脱ぎ捨てて暖炉に放り込んだ。
 灰が舞い立つ。
 月明かりの中で画帳の最後の角の形が崩れたのをクインは見、そしてぺたんとその場に座り込んだ。
 エミリアの残した全てがたった今、最後のものさえ潰え去ってしまった。
 それを思うと後から後から何かがこみ上げてくる。獣のようなうなり声を上げてクインは暖炉の前へひれ伏すが、涙はやはり出てこなかった。
「エミリア、ごめん」
 呻いた言葉にクインは自分で首を振る。
 画帳はエミリアが自分へ渡したかった希望の形であった。背中が良くなったと誉め、翼が見えるのよと笑い、よい未来を彼に教え、そしてそれを教えたことを忘れないでというつもりでチアロに画帳を預けたのに決まっているのに、それを自分は為す術なく燃えるのを見ているしかしなかったのだ。
「エミル、ごめん、ごめんよ……」
 呟き続ける声に混じってくるのは大量の、自分でも制御できない量の後悔だった。
 それが苦く鋭く自分の背中を打ち続けている。エミリアがここに、と描いた位置が痛い。
 いつかクインを描けたらその絵をくれるとエミリアは約束をしてくれた。この画帳はそのための引き替えの切符だった。それを大切にしてやれなかった、ただライアンが画帳を燃やすのを、ぼんやりと見ていた。
 腕も胸も、痛むのはこれは罰だとクインは思う。
 罰だ、罰が下ったんだ。
 二度とエミリアには会えない。彼女の託してくれた希望が他人の手で蹂躙されるのをぼんやり見ていた。
 だから泣くことさえ出来ない、これが罰なのだ。
 クインはほんの僅かに形が分かる灰へ手を伸ばし、おそるおそるすくい上げた。灰は既に冷めていて、たださらさらと細かく指の隙間からこぼれていこうとする。
 それを阻止するようにクインは灰を握りしめた。
 自分の手の中にある、一握の灰。
 自分の体温にぬくまっていくそれは、エミリアとの全ての思い出の遺灰であった。
 クインは喉で呻いた。涙の気配は、やはりどこからもなかった。