第5章 月の下で 9

 講義の抜き書きをまとめ終わると既に日が落ちる頃であった。
 適当に片付けていると、弟のラインがひょっこりと顔を出す。日に焼けた頬が眩しく赤い。今までを外で剣の稽古にしていたのだろう。
「どうだった、少しは上達した、ライン?」
 そんなことを聞いてやると弟は肩をすくめる。魔導士に勝つことのできる子供などいるはずがないからリュースは淡く笑って弟に待っているように言った。これから夕食の時間になる。
 リュースは半ば辟易したような吐息が自分の唇から零れたことに気付き、苦笑になった。
 また両親からのしつこい追及の時間なのだ。
 そしてその予感はやはり正しい。皇子に向かって両親は宥めたりすかしたり、とにかくマルエスを使って何をしているのかを聞きたがった。
 リュースはそれに適当に返事をしながら皿の中の料理をフォークでつつき回している。昼食会の時のことが蓋になったように、殆ど入らない。
 それをようやく見咎めたのは母で、どうしたの、と怪訝な面もちで聞いた。
「さっきから全然食べないのね、リュース? 食欲がないと身体も出来ないわよ」
 リュースはまあ、と曖昧なことを言った。
 ラインの前でこんな生臭い話はしたいとは思わなかった。弟はまだ正真正銘の子供で、皇太子の候補からも外されている。いたずらに騒がれても困惑するし、何よりも心配をかけたくない。
 その場の言い訳のようなことを口にして夕食を終えると、父帝はラインに簡単な書取を言いつけてリュースを夜の庭へ誘った。母妃も一緒だ。
 これは何の話だろうとリュースは思い、また人捜しの話だろうかと思うと胸の内で苦笑と溜息が同時に聞こえた。
 庭は薔薇の終わりの甘い香りが漂っている。白い薔薇が月の光に輝くような美しさだ。
 庭園の噴水の縁に腰掛けて、父帝が彼の頬をそっと撫でた。
「お前に少し話しておきたいことがあってね。ゆっくり呼吸をして、落ち着いて聞きなさい、いいね」
 父はゆったりと、そして心底から穏やかに微笑んでいる。リュースは同じように唇をほころばせると、ええ、と頷いた。
 そっと彼の背に母が座り、肩を抱く。自分の頭上で両親が視線で何事かを会話している気配がした。リュース、と呼ばれて素直に返答をする。父は彼を愛おしく見つめた後、ゆっくりと区切るように言った。
「来週に口頭試問に私が列席することになっているのは知っているね?」
 リュースは頷いた。学問所の簡単な試験ではあるが、次世代の帝位の行方を占うという意味で皇帝本人の列席が義務となっている。
 口を挟まずに同じ場所に座っているだけではあるが、形式というのはそんなものだ。
 それがどうしたのだろうかと思っていると、父は彼の聡明な額に触れて優しく、ごくゆっくりと言った。
「その時に、立太子の候補から降りたいと、私に申し出るように、いいね」
 リュースは数度瞬きをした。父の言葉が胸に理解として落ちてくるまでに、少しかかったのだ。
「何故……」
 呻いた時、上手く唇が動かない。やがて呼吸自体が出来ていないことに気付く。
 それを打破するために強く何故と呟くと、それはまるで悲鳴のような声になった。
「何故──何故です、父上! 私は、ずっと、……どうしてですか、理由は何ですか、父上、私は、」
 言い募りながらリュースは自分の胸あたりを掴む。
 そうしていないと身体から魂がふらふらと彷徨い出ていってしまいそうな気がしてたまらなかった。
 たまらない、と思った瞬間に怒りとも悲しみとも、疲労ともつかぬものがどっとこみ上げてくる。
 自分が今まで努力し、たゆまずに続けてきた全てが父の一言で撤回しなくてはいけないとしたら、どれだけの徒労で無駄だったのだろうか。
 そんな馬鹿な、とリュースは呟き、父上と言いかけた。と、不意に背からリュースは強く抱かれた。母が彼をぎゅっと抱きしめて、ごめんねと呻くように言ったのが聞こえた。母上、とリュースはそれを無理矢理もぎ離し、父にまっすぐな視線を当てる。
「納得できません。理由を……理由は何ですか、父上、私は自分の出来ることはしてきました、今までだってずっとしてきました、これからも! これからもやるべきことは努力します、わ、私は、別に、性格だって、それに──」
 意味のないことを連ねて口走りながら、リュースは眩暈を耐える。
 何故です、と呟いた声が自分で悲鳴のようだとリュースは思った。何故ですかともう一度繰り返すと、父帝が辛そうに目を伏せ、しかしはっきりした声音で言った。
「お前はどうしても身体が弱い。帝位につけばそれだけでまっとうできないのではないかと私もイリーナも心配しているのだ、リュース。……分かるね」
「いやです」
「リュース、聞き分けなさい。お前のことを私たちは思って言っているんだよ」
「いやです! いや、いや、それは、嫌です、嫌だ嫌だ……」
 駄々をこねるような幼い拒否を呻いてリュースは顔を上げる。その途端に涙が頬を流れ落ちていったのが分かった。
 泣いているのだと思った瞬間に、更に溢れてくる。
「昼食会の時のことは、あれは違います、父上、私の皿に毒が──」
 と、その禍言に父帝が息を呑んだ。リュースは毒です、と強く言った。父が狼狽えるように視線を彷徨わせる。毒、と母が呻いた声にリュースは振り返り、そうですと強い口調で言った。
「あれは私の食事に毒が、だからあんな、父上、あれはだから違うんです」
 言い募るリュースに父帝は頷き、確かかねと低い声を出した。それでようやく事の重大さを悟ったような気持ちになって、リュースは震えながら頷く。
「私の護衛魔導士が、そう。致死量ではないとか、そんなことも言っていましたが、しばらく用心するようにと言われました」
 父は頷きアウィスと呟いた。父の背後にふわりと魔導士の影が現れる。調査を、という言葉に魔導士が頷いて消えると、それでやっと我に返ったのか母の悲鳴が聞こえた。
 それに却って冷静な部分が戻ってきたようにリュースは母の手を握りしめ、大丈夫ですと強く言った。
 イリーナはそれには返答せず、彼の細い身体を強く抱きしめて、震えだした。
 父がリュース、と彼の身体に触れる。リュースはそれを振り払い、父を睨み上げた。
「だから父上、私は降りません。そんなのは……そんなのは嫌です。私は絶対に嫌だ。今降りたらそんな卑劣なことに負けたことになります」
 父は半ば哀しげな表情で首を振り、彼の肩を掴んでゆっくりさすった。
「リュース、私たちはお前のことをいつも考えている。お前が元からあまり丈夫でないことも今まで見てきた。お前は頭のいい、賢い子だ。優しくてとてもいい子だよ──けれどお前のような賢くて繊細な子には、私は帝位を継がせるべきでないと考えている……リュース、お前が即位したら沢山の現実を見なくてはいけない。お前にはそれはとても辛いことだと思う。なまじ聡明過ぎると、知らなくていいことも分かってしまう……」
 父の言葉は淡い苦みに彩られていて、リュースは僅かに怯んだ。この言葉には父の見てきた苦いうつつが全て滲んでいるように思われたのだ。
 何かを言おうとしてリュースは沈黙した。父の経験とそれ故のいたわりに太刀打ちできるものを見つけられない。
 だが、素直に受け入れるには足らないものが多い。リュースは父上、と絞られるような声を出した。
「私は、きちんと、今までちゃんとやってきました! 不安だというならもっと試してくださって結構です、だから、降りろと言うのは撤回してください! 父上、私は嫌です! 身体のことだって、では何故最初からそう仰らなかったんです、今更、今更そんなことを言われても、私は納得しません」
 リュースは言いながら首を振った。リュース、と彼を母が抱いてごめんねと言った。
「ごめんね、私が諦められなかったから。でも、お前のために一番いい方法を私たちで話し合ったのよ、信じて頂戴、リュース。お前がこれまでちゃんとやってきた事は良く知っています。でもね、お前を失うことの方がずっとずっと怖いのよ……!」
「私が私をどうするか、未来をどうしたいかは、私が自分で決めます」
 リュースは母を叱りつけるように言った。はっと顔を上げた母妃の菫色の瞳に瞬く間に涙があがってくる。母上とリュースは強い声になった。
「太子候補にではラインをあげるのですか? 母上は昔から、私よりラインの方がずっと可愛いんでしょう? 私が何をしても母上はラインばかり」
 すらすらと自分の唇が吐き出す言葉にリュースは目をきつく瞑った。自分の中にこんなに醜い部分があったのだと思った時、彼の名が呼ばれ、咄嗟に頬が打たれたのが分かった。
 リュースは僅かによろめき、喉で呻いた。ずるずると座り込む。打ったのは父であった。彼をもう一度平手で打って、叱りつける。
「リュース、二度とそんなことを言うんじゃない! それは母への侮辱だ、いいな、そんな馬鹿なことがあるはずがない、イリーナがお前をいつ邪険にしたというんだ!」
「──薔薇園で!」
 リュースは凄まじい早さで顔を上げ、父に怒鳴り返した。
「母上は私にもう会いたくないと、顔など見たくないからくるなと、そう、そう言って、そう言って」
 言葉にするとそれがどれだけ自分を傷つけていたかが初めて分かった気がした。
 リュースは喘ぐように言葉を紡ぎながら、拳でぐいぐい涙を払った。
「だから、私は、悪いことを聞いてしまったと、そう思って、でもマリアという女性のことは、同情しますが、母上が、彼女と何があったか知りませんが、私が……」
 そこまで夢中で口走ってリュースはふと声を潜めた。
 父は目を瞠り、微かに震えていた。驚愕と茫然の為に、やがて静かに青ざめていく。リュースと呻いた父の声音は今まで聞いたどれよりも強張り、重たかった。
 リュースは一瞬目をしばたく。父上、とそっと声をかけようとした時、マリアという呻きが背後からした。
 はっと振り返ると母妃が蒼白というべき顔色で口元を押さえ、おこりのように震え出すところだった。
 この名が母にとって重大な罪の意識をかき起こすことは知っていたはずだった。リュースはしまったと顔を歪めて母親を宥めるために手を伸ばした。
 だがそれは届かなかった。母はさっと立ち上がり、マリアともう一度呟くと許して頂戴と喘いだ。
「ごめんね、ごめんね……マリア、私が悪いのよ。いけなかったのよ。お前にもあの人にも沢山の罪を負わせて、追い出してしまった! 許して……」
 それだけを呟いて、母は耐えられないと言うように身を翻し、駆け去っていく。それではっと我に返った父がイリーナと叫んで数歩追いかけ、そしてリュースを振り返った。
「──先に館へ戻りなさい、リュース。……マリアのことを、お前は知っているのか」
 厳しい口調にリュースは父を見つめ、やがて力無く首を振った。
 ただ母上がそんなことを、と言いかける先を、父が言い訳はいいとぴしゃりと撥ねた。
「リュース、確信もない事を引き合いに出すのは止めなさい。いいね」
 その言葉に頷くと、父は厳しい表情のまま母を追って駆けてゆく。
 リュースは混乱を払うように首を振り、とぼとぼと歩き出した。
 夜の夏薔薇庭園は静寂の中で、月光だけが明るい。自分の影を見つめながら歩いていると、ふとその横に新しい影が出来た。マルエスだろうかと皇子は振り返り、
 ──何かの凄まじい予感に咄嗟に背後へ跳躍した。自分の残像を銀色の線が横断するのがくっきりと、劇的に遅く見えた。
 はっとした瞬間、後先を考えずに飛んだからだが薔薇の茂みにぶつかり、植え込みを潰すように皇子はその中へくずおれた。
 人影がはっきりと手を振り上げる。その手に銀にぎらつく光がある。
 何かを考える前に皇子は叫んだ。
「マルエス! マルエス!」
 その視界にふっと尾を引く銀の線が現れる。
 リュースは身をよじる。彼の身体への決定的な傷を負わせるに至らない、しかしかすった痛みを首筋に覚えてリュースは呻いた。
 次の一撃を振り上げた影が、横へはじき飛ばされる。
 魔導士の長衣と背格好でマルエスだと知って、皇子は薔薇の植え込みにだらりともたれた。
 マルエスが人には在らざる早さで人影の腕を取り、簡単に押さえ込む。骨の折れる軽い音がして、リュースはびくりと身をすくめた。
 相手の身動きを封じ、マルエスが自分に駆け寄ってくる。大丈夫ですかと助け起こされて、リュースは異変に気付いた。世界が揺らいでいる。身体が痺れたように動かない。何かを言おうとした唇が重くてぴくりともする気配がなかった。
 殿下と叫ぶマルエスの声は聞こえるのに、それに返答しようとしても何も出来ないのだ。脳幹が痺れ、末端から感覚が無くなっていく。喉が何かを呻こうとして、呼吸がふと止まった。
 息が出来ない。弛緩した身体に力が戻ってこない。あ、と小さく喉を鳴らすと、マルエスが毒、と唸って不意にリュースの瞼を手で閉じた。
 僅かな時間をおいて、傷になったらしい場所に温かな吐息がかかった。くすぐったいような感覚が首筋を撫でて、リュースは身体を痙攣させた。柔らかいものがそこに押し当てられ、きつく吸っては離れるのを繰り返している。
 それを四度まで数えた時蓋が開いたように空気が喉を通り、それで深い呼吸を長く長く吸いながら、リュースは痺れるような無意識の中へ転がり落ちた。