Mother in Low

 祖母(タカアシカニ、75才)がうちに来たのは祖父が亡くなって5年が経った冬だった。祖母は始め父の兄である長男の伯父さんの所に行ったのだがうまくゆかず、次男の伯父さん、長女の伯母さん、次女の伯母さん、三女の伯母さんとぐるっと回って最後に残った父、6人兄弟の末子の所へやってきたというわけだ。
 あたしが玄関で迎えると祖母は億劫そうに甲羅をがしゃがしゃゆすりながら入ってきて、こっちを見るなり
「あーら、エツコの所のアキちゃんは色白の美人だったんだけどね」
と言ったので、あたしはいっぺんで祖母が嫌いになった。母がおろおろしながらもアキちゃんはお仕事もありますし、とフォローを入れたが祖母はふんっ、と小馬鹿にしたように微かに泡をふいた。
「へっ、モデルだかなんだか知らないけどね、若い娘があんた、夜遅くまで帰ってこなかったりしょっちゅう海外へ出かけたりするとろくなことにならないんだよ。ちゃらちゃらしやがって、ああ、腹が立つね」
 これはもちろん、元ミス秋田でモデル出身の母に対するあてつけでもある。母はしゅんとした顔で黙ってしまった。モデル出身だとかミスコン優勝者という華やかな肩書きとは裏腹に母は人畜無害を絵に描いたような人だった。これから先、家の中を祖母が好き放題にひっかきまわすだろうとこの時、あたしには予測がついた。
 祖母は部屋へ案内されていったが、祖母の爪先がまだ新築して間もないぴかぴかの廊下にこれみよがしに線を彫っていくのを、あたしは(あーあ)と思いながらも見送り、これから始まる灰色の生活を思って暗いため息をついたのである。
 祖母はまさしく傍若無人のかたまりみたいなカニだった。母はおっとりとしており、少し気の利かない所はあったけど家の中はうまくいっていた。が、祖母は母の何もかもが気に入らないらしく、何にでも口を入れ、その度に母は真っ青になりながらぺこぺこしていた。
 食事に出した味噌汁が濃い。高血圧の年寄りを殺すつもりかと罵られた母が薄めにつくった味噌汁を出せば味がなくてまずい、老い先短い年寄りの楽しみを奪うつもりかとくる。 祖母の主食である小魚も、煮干を出せば乾物は嫌だ、生を出せば食あたりするから嫌だ、じゃあと母が調理したタラやシャケを出すと、
「この家じゃぁ尾頭つきの魚は煮干だけなのかねぇ」
と嫌味たっぷりに言う。なるほど、何処の家でもうまくなんかいく訳がなかった。
 父は大抵祖母の味方だった。母さん母さんと祖母と仲良く親子愛にひたっていた。祖母が
「だからあたしのいった通りの人と結婚してれば良かったのに、人の上っ面に騙されるなんて馬鹿な子だね」
とすごいことを言った時でさえ、困ったようにそうかなぁ、と笑うだけだった。母はそれでも祖母の無茶苦茶に辛抱強く付き合っていた。あたしはあの一言以来どうしても祖母を許せなかったが、ある日祖母がテレビを見ながら
「この人エミに似とるねぇ」
と、ガッツ石松を指したため、ますます祖母を嫌いになった。
 それでも半年位たったころ、母は祖母が家にきてから一番明るい顔であたしの部屋にきて言った。
「あのねぇ、お義母さんがねぇ、遺産の一部を私にも寄与分で残してくれるんですって」
 ふうん、とあたしは言った。父の実家は地元では有数の資産家で、山やアパートを幾つも持っていた。その一部をふりわけてくれるつもりがあるのか、とあたしは正直な所意外に思ったが、母は喜んでいた。この苦労がむくわれるならそう悪い話でもなかったので、よかったねとだけいっておいた。
 が、それから幾らもしないうちに父方の伯母から電話があって、どうやら祖母はどこの家でもそんな調子のいいことを言っては限界までわがままを引き延ばしてきたのだという事実が発覚した。母は泣きそうだった。あのおとなしい人がつっかえながらも祖母にどういうつもりなんですか、と詰めよっていったが、祖母はけろりと言ってのけた。
「へっ、じゃあなにかい、あんたはあたしの遺産が目当てであたしを飼い殺そうってのかい。嫌だねぇ金に目がくらんでさ。地獄の沙汰も金次第ってわけですか、ご立派な嫁をもらってミチヒロもさぞかし幸せだろうよ」
 母があんまりだと思った。だって、遺産の話を最初に持ち出して来たのは祖母だったのだ。最初からそれを期待してたわけじゃないけど言われれば嬉しいし期待するのは当たりまえだ。
 あたしがそう言うより早く、父が
「母さんのいうとおりだ」
と尻馬にのり、そうして二人で母のことをなにやかやと言っていた。
「うおぉぉ〜っ!!!」
 突然、母が雄叫びをあげた。祖母と父はうっ、と一瞬目を見開いた。あたしも仰天して母をみた。母の大きな声を初めて聞いた。母は毛を逆立てた猫みたいにふーっと唸ると、父と祖母を睨みつけた。
「やい、お前!」
 母は祖母の腹の部分にいきなり蹴りをくれた。
「あ、あんたっ、義理とはいえ母親になんてことを」
 言いかけた祖母の言葉は腹の底からドスのきいた声が遮った。
「それがどうしたんだよ」
 祖母はぐっ、と言ったきり黙りこくった。父は何か言おうとしたが母の様子に恐れをなして口をつぐんだ。母の目は完全に座っていた。きっとどこかがぶちっと切れてしまったのだろう。だけどじっと祖母や父の仕打ちに耐えているよりはずっといいと思った。
「母親だとお? てめえが一度でも母親らしいことしたことがあんのか、ええ?!」
 母は怒鳴り散らした。やっと我に返った父が
「俺の親を大事にできない奴は出ていけ!」
と怒鳴りかえしたが、母の
「この家は慰謝料替わりにもらっといてやるからてめえがそのカニ連れてとっととどこでも行きやがれ!」
という返答に目を白黒させてううーっ、と唸った。それからあたしを見て聞いた。
「お前はお父さんとお母さんのどっちの味方なんだ」
「お母さん!」
 あたしは即座に答えた。考えるまでもなくあたしは母の方が可哀相だと思っていたし、第一、父には洩れなく祖母がついてくるのだ。母は勝ち誇ったように笑うと祖母につかみかかり、ねじあげて足を1本むしりとった。まだぴくぴくと痙攣しているそれを口にいれ、殻ごと噛み砕きはじめる。
 ばりっ、がりっ、という小気味いい音が居間に響きわたり、時折身をすするちゅるん、という音がする。ぎゃあぎゃあと祖母はわめいていたが、今の母に勝てる人間などいなかった。
「てめえ、今度何かあったら晩はカニスキかもしれねぇな」
 母は低くつぶやき、にいっと笑った。前歯の間にカニ肉が糸のようにはさまっているのが見えた。
「おお恐ろし、あんたみたいなのを鬼っていうんだよ」
 祖母は反撃に出たが、母はふんっ、と鼻を鳴らして
「活け作りもいいわね」
と吐き捨てた。
 祖母は(助けて)という目であたしを見たが、それは無視してやった。自分が元は悪いのだということを、祖母は少しも思わないようだった。
(へっ、ざまーみろ)
 今まで散々足蹴にしてきた母の怒りをくらって父も祖母も面食らい、極端に恐がっているのだ。自業自得だ。だんだん表情がゆるんでくるのは必死で止めたが母の攻撃は止みそうもなく、あたしは心の中で
(もっと、言ってやれ)
と母にエールを送ると同時に、明日からの政権交代の予感にうふんと機嫌が良くなってくるのを感じていた。
《終》


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