群れ瞬く星の下にて君を想う2

「……なーんてな。お前さあ、そういう冗談、実は好きだろ? 不敬罪って知ってる?」
 ケイはごくりと飲んだ生唾が落ちすぎるのを待ってエルシアンの肩を小突いた。ははは、と笑う声がまだ動揺の余韻を引きずっている。
 そもそも、王族が侍従も連れずに学生寮になどいるものか。簡素という美徳の号令の元、実情は寮の予算の関係上ぎりぎり削られている経費のせいで寮の暮らしは王族のそれと比べるのが馬鹿馬鹿しいほど繁雑なことが多い。例えば廊下磨き、ランプの掃除、食事の当番。
 エルシアンはどれにも文句を言わず、手際も悪くなかった。この点ケイのほうが不器用なほどだ。

 脅かすなよ、とケイはエルシアンに向かって笑って見せる。かなりぎこちなかったはずの表情は、声をあげて笑ったことでやっとまともに動くようになった。エルシアンは苦笑して自分の手の杯に口をつけて飲み上げた。
「冗談かぁ……」
「そう。お前、貴族なんだろう? 俺にもそれくらいなら分かるさ」
 ふとした手付きや仕種の優雅さは時折彼の出自の良さを教えてくれた。貴族は総じて気位が高くケイ達平民をはなから馬鹿にしているものも多い。それを成績という目に見えるもので完膚無きまでに叩きのめしていることで、ケイに対する学院にいる貴族達の態度は尚更冷たい。
 ──ケイにも分かっている。所詮どれだけ栄達を重ねても最終的にたどり着くのは彼らの補佐官であろうことも。けれど、努力すること自体が無駄だと思ったことはない。それが自分に掲げる胸の中の星、極点を示す方角星なのだった。

 だからエルシアンの気安さと馴染みやすさは密かに嬉しく、心休まる事実であったのは確かだ。彼が殊更自分の出身を口にしないのも家門に迷惑をかけないためだと思っていたし、更に言うならその感覚の水平さからして貴族の中でも下等の家の長男でない、はじかれ者の訳ありの次男とか三男──
 これがケイの考えついたエルシアンの正体だった。そんなことを言うと、エルシアンは訳あり、と軽い笑い声を立てた。
「いいところへ来てるんだけどな、ケイ。人の言うことをちゃんと信じないといい大人になれないぞ」
「信じるも何も」
 ケイは苦笑を返しながらやっと空になった自分のグラスに酒とその三倍の量のあて水を注いだ。エルシアンがにやにや笑いながら信じられないことするなお前、と呟く。ケイはそれを無視すると、肩をすくめてエルシアンを見た。
「いきなり王子ですって言われてそうですかって言うの、ないと思うけど? 証拠でもあるなら別だけどさ……」

 証拠ね、とエルシアンは繰り返し、懐から指輪を出してケイに渡した。星明かりの下でも、そこに彫られた文様はくっきりと陰影になって見えた。双頭鷲が太陽に爪をかけている。一頭は上を、もう一頭は下を向く意味は天地全てを照覧するものであるということを示す。
 ぼんやりした衝撃はやがてはっきりした震えになってケイの体に広がっていった。
 この文様は見たことがある。見たことがない人間などこの国にいるものか。王立学院の正門で、ラストレア上に掲げられた国旗で、隊列を成して行く近衛騎士達の乳白色のマントの背で。国の施設の一番良い場所に必ず掲げられているこの紋章。
「う……そ、だろ、ほんとに……?」
 国王の肖像画は普段は庶民には禁じられているが、生誕祭のときには公開される。威厳と力に溢れる眼差しをした青年の姿は即位したときのものだから、エルシアンよりもやや年齢が上の頃ということになる。面影を追いたいと思うなら無理ではない、くらいには似ている……気がする。
 自分の表情からエルシアンは今ケイが何を考えているのかを察したのだろう。ラストレアの肖像画はあんまり似てない、と笑った。

「だ、だって、なんで寮とかにいて、どうして学院に……いや、その前にラストレア……?」
「だーからぁ、はじかれ者の訳ありの十三男だってさ。どうしても信じられないなら従者扱いってことでラストレア城を見物に行くか? サラーラ叔父に紹介してやるぞ」
 サラーラとは学院の所在地であるラストレア城塞都市を治める大公の名だ。エルシアンの話が本当だとするなら、このサラーラ大公は現国王の実弟だからエルシアンには叔父にあたる。
 ケイは反射的に首を振った。そんなことを考えるだけでも不敬のような気がしてたまらない。そしてケイは恐ろしい事実につき当たって思わず立ち上がり、眩暈を感じて座り込み、落ち着かずに立った後、慌てて膝をついて平伏した。王族に対する礼儀の詳しいことは知らないが、許しを得ずに直接顔を見るなということだけは知っている。

 ちょっと待て。
 伏した背中を冷汗が過ぎていく。混乱は極まっていて系統として物を考えることなど出来ないが、今までの言葉も態度も到底許されるものではない。王族は人にして人に非ずとさえ言われる超越した存在だ。口を聞くことさえ僥倖なのに……いや。

 ちょっと……待て。
 日常の友人同士の気楽さに結構小突いたりどやしたり、軽口として馬鹿だの何だのって罵倒したような。

 ちょ、っと、……待て。
 大体、先月の末につき合っていた女がらみで散々喧嘩した挙句、俺……こいつ殴った、よ、うな……

 眩暈で倒れそうなケイの耳がぎゅうっとつまみ上げられたのはその時だった。いつもの癖で痛ぇ、と声を上げかけて、ケイはそれを半端に飲み込んだ。今更という気もするし、今からでもという気もする。
「いいよ、ケイ。俺はそれ、皆には黙っておいて欲しいんだし。そんなことするなよ。友達にそんなことされて嬉しいかよ……顔上げろって」
 恐る恐る上げた視線の先で、エルシアンが仕方なさそうに笑いながらグラスを掲げたのが見えた。硝子に刻まれた模様に月光がきらり反射した。
「いいから、普通にそこ座れよ。なぁ、俺は今まで通り普通にやりたいんだよ」
「そんなこと言わ……仰られても」
 この困惑をどう処理していいのか分からない。ケイがぐずぐずとそんなことを呟いていると、エルシアンは呆れた、というように大きく肩をすくめて溜息をついた。その余韻の長さにケイは顔を上げて目の前の、初めて見る王族を眺めた。

「お前がそんなだったら他の奴らにも知れるじゃないか。よせよ、それも嫌で寮にいるんだからさ」
 ケイは言葉を何と返してよいかも分からずに俯いた。どういう言葉で、どういう風に返そうか。そんなことを逡巡するうちに、ケイはふと沸き上がってきた溜息に身を任せた。とても悲しくなってきたのだった。
 エルシアンがケイの背中を軽く叩いた。それは今までと同じくケイを緩やかに励ます仕種だった。
「いいよ、今まで通りに普通で。もし将来何かを言われることがあったなら、俺が許したと言えばいい。念書を書けというなら書いてやるけど……なぁケイ、本当にそんなもの、必要なのか……」
 最後のほうは天空に紛れるように小さな声だった。ケイは頷くことも出来ない。エルシアンは微かに笑って膝を抱え直した。
 小さくまとまった姿勢を見ていると、彼が身分相応という規格の中にはきちんと収まりたがっていないのが分かった。
 いいんだ、とエルシアンが繰り返した。ケイは膝に頭を乗せてこちらを見ている彼の口許に浮いている、穏やかな笑みを見た。少しづつ、何かが抜けていくように動悸が収まっていくのが分かった。
 流星が目の端をかすめた。ケイはそれを見上げて、星、と言った。エルシアンが吐息だけで返事をしてケイの視線を追うように屑星たちを眺め上げた。

「……王都ではこんなのはないよ。綺麗だな」
「そう、かもしれな……いです、え、と……」
 語尾を迷っていると、こつんと額を弾かれた。ケイは彼の視線を受け止め切れずに背筋を伸ばして座り込んだ。
「なぁ、ケイ。俺の父が国王だったっていうことは、俺が選んだんじゃない。生まれついてのものっていうのがあるだろう? 足が速いと偉くて手先が器用だと偉いのか? それは偉いことなのか、すごいことなんだろうか?」
 エルシアンの言葉に籠った意味を汲み取れないほどケイも子供ではない。単純に、明快に、別の話に例えてするなら分かるのだ。けれど今ケイを支配している逡巡は理屈ではなくて反射なのだった。
 ケイが黙っていると、エルシアンは少し悲しそうな顔をした。軽く頬を触られてケイは隣の王子を見つめる。エルシアンは苦笑のような哀しみのような微妙な表情のまま、ケイの首に手を回してゆったり抱きついた。

「……俺は、今、自分がこうやって他人に触れるということが、嬉しい……」
 何の事か分からない。それはきっとケイの知らない王都でのエルシアンに関わることなのだろう。潔癖症だと思ったことはなかったから、何かあったのだろうか。
 けれどエルシアンが今、と付け加えたことでそれが既に過去の遺産となっているのも分かった。
 エルシアンはその話をそれきり続けなかった。多分、聞いて欲しくないことなのだろう。
 だが、それを口にしたとき彼が微かに震えた気がした。それは夏の夜冷えの累積だったかもしれないが、ケイは何故だかとても切なくて、体重を半分かけたエルシアンの肩を抱き返した。エルシアンが吐息で笑った。

「いいんだ、ケイ──、お前と会えて、本当に、良かった……」
「エルス……」
 不意に何のつまづきもなく、言葉が出た。それにすぐに気付いたのだろう、エルシアンがケイの肩を叩いて破顔した。笑顔は伝染する。その心が伝わっていく限り、手をつないだ箇所から幸福が伝わるようにきっと繋がって行ける。
 その自信に根拠はないが、それでも事実だろうから。ほんのさっき、自分が懸命に刷り込もうとしていた言葉をもう一度、自分に刻もう。
 ──自分たちが今並んで群れ瞬く星の下にいることに、一片の関連もない。関係ないとまっすぐに言えることが、自分にも彼にも大切なことだという確信だけで良かった。
 誰のためでもなく、自分のために。
 エルシアンの肩を抱きながら見上げる星空は、やはり満天の瞬き。いつかこの星の下にいたことを思い出すだろうかとケイは思った。エルシアンと出会ったことを幸福のうちに総括する瞬間、この星を思い出したいと強く思った。