夏影1

 暑いな、と隣でリュードがぼやいている。襟元を大きく開けてそこに手で風を入れている様子は、彼が騎士の息子だということを一瞬忘れてしまうほどだ。品行方正でいろというのがこの友人にとって苦痛以外の何物でもないとエルシアンは知っているから、あえて何も言わないのだが。それにリュードも分かっている。リュードがついていなければエルシアンは城の外には出られないのだ。リュードは一応エルシアンの護衛、ということになっている。それが名目上のものだとは割に知れているのだが。
「今日も行くんだろ?」
 聞かれてエルシアンは頷く。やれやれとリュードが大きく肩をすくめた。
「お暑いのにご苦労なことで。俺はあの女にそれほどまでの価値があるなんて思えないけどね」
 エルシアンは苦笑する。ハルナにその価値があるかどうかを決めるのは自分だが実際、もう修復はしないだろうとは自分でも薄く思い始めている。それでも行くのはひとえに彼女の顔をもう一度くらいは見たいから、かもしれなかった。
 王都の王立中央学院に去年からエルシアンは籍をおいていた。講義のある日はリュードが「護衛」ということでエルシアンと共に城を出て、講義が終わるまでリュードは同じような護衛の騎士たちの控室で待っている……ことになっている。一緒に帰れば問題ないので深く考えたことも追求したこともないのだが。
 少年二人は雑談をしながらやや下町にあたるほうへ歩き始める。ここ一年半ほどエルシアンが付き合っている(いた、の方がいいかもしれないが)少女はその一角の気楽な定食屋の一人娘だった。扉を押すと、つけられているベルがからんと乾いた音を立てた。女将が出てきて二人を認め、ああ、と頷いた。
「ごめんねぇ、毎日来てもらって。ほんとにあの子ったらしょうがないったらないんだから……」
 喧嘩でもしたのか、恋人に逢いたがらない娘に、母親も困り果てているようだった。最初のうちは今出掛けているとか風邪をひいて寝込んでいるとか口裏を合わせていたのだが、それがもう一月にもなれば、こちらに同情的にもなるだろう。リュードは慣れた様子で店の一角に座り自分の分の葡萄酒を注文して飲み始める。後は好きにやれ、ということだった。
「あの……ハルナは」
 エルシアンは二階を見上げながら言う。女将はあいまいに頷いた。
「ああもう、部屋に籠ってるね。ねぇ、何があったのか話してくれればあたしからハルナに諭してもいいよ」
「いえ……あの、すみません」
 いい理由を見つけられなくてエルシアンはとっさに謝る。女将は苦笑しながらいいけど、と言った。それがその言葉の通りにあまり気にしていない風だったから、エルシアンはほっと息をつく。ハルナとおかしくなった理由はこの母親にも話せないことだ。
 女将は溜息をつきながら、彼女もまた二階を見上げる。何があったのか知らないが、娘はもう一ヵ月も毛布をかぶったまま泣きじゃくっている。どう見たって押しが弱くて気の強くないこの少年がそんなに酷いことをするとは思えないのだが。黒い髪によく見ると暗い紫色をした瞳、顔立ちは悪くない程度に整っているが、それほど飛び抜けての美形ではない。いつも一緒に来る赤茶色の髪をした友人のほうが、どこかの王子様かと思うくらいに気品に溢れて優雅で優美な顔立ちをしている。こんなことが続いていると可哀相にもなってきた。もういい、と女将は二階を指した。
「いいさ、あたしが許してあげるからあの子の部屋へ行ってきな」
 エルシアンは恋人の母親を見る。それからほっとして笑い、ありがとうと礼を言って奥の階段を上り始めた。ハルナとは一昨年の冬に知り合ってからの仲だ。半年くらい前にやっと関係を持てるようになったが、今エルシアンにハルナが会わない理由はそれとは関係がなかった。
 ドアを叩いても返答はない。だが部屋にいると女将は言ったからエルシアンは少し迷ってから部屋に入った。少女はいた。つつましやかな部屋の小さな寝台の上で、夏の薄い綿布をかぶっている。エルシアンはハルナ、と声をかけて肩を揺すった。
 少女がぴくん、と体を起こしてエルシアンを見た。あ、という声が激しく動揺している。少女が何か言おうとする前に、エルシアンはその手を掴んで引き寄せた。抱き寄せるとハルナの髪の匂いがする。去年の彼女の誕生日にと、エルシアンの贈った香水の香りだった。それを知って腕に力を込める。少女は抵抗はしなかった。けれど抱き返したりもしなかった。それを知ってエルシアンはまた少しづつ近づいてくる別れの瞬間を思う。誰かと付き合ったり別れたりと言うのが初めてではないし、その度に同じ轍は踏むまいと思う。例えば下手な言葉で傷つけてしまったり、相手の気持ちに胡座をかいていたら他に恋人を作られてしまったり。……二股かけた挙句疲れ果てて両方と上手く行かなくなった、というのもあった。けれど、馬鹿馬鹿しさという点ではハルナが一番じゃないだろうか。
「こっち見ろよ」
 頬を掴むと視線が逸れる。それでどうにもならない苛立ちにエルシアンは溜息を吐く。
「悪かった、本当に、だから謝ってるじゃないか。いいかげんに口くらいきいてくれよ」
 抱きしめながらそんなことを言う。それはエルシアンの心の底から出てきているのだが、ハルナは激しく首を振る。拒否と、遠慮の両方なのだと分かってエルシアンは力を抜く。彼自身のことならともかく、それは仕方のないことでもあるのだ。
 体が離れる。ハルナは寝台から滑り降りた。着ている薄い木綿の寝巻きはいつか彼女を抱いた時にも(最初のうちだけだが)着ていた水色の長い裾のもので、その時のことをエルシアンはぼんやりと思い出す。あの頃はまだ寒かったから、この上に肩掛けを羽織っていたなどとそんなことを思う。あれから少しも気持ちは動いていないのに、どうしてこんなことになるんだろう。
 ハルナは震えながらエルシアンの前に倒れるように伏す。その激しい体の痙攣のような動きに、脅えているのだと分かってエルシアンは舌打ちしそうになるのを慌てて押さえた。そんなことをしたらまた怖がらせてしまう。今でも十分……口もまともにきいてくれない、会話にならないほど脅えきっているというのに。
「お許しくださいませ」
 それだけを絞り出してハルナはまた口をつぐんでしまった。エルシアンは溜息を落とす。
「許すも何も……だから、黙ってたのは俺が悪かったよ。いつかは話そうと思ってたけど、切り出す機会がなくて何となくずるずるきちゃっただけ、なんだって。お願いだから、こんなことで君と別れたくないんだ」
「勿体ないお言葉にございます」
 杓子定規な返答にエルシアンは苛立つ。ハルナの気持ちは理解できなくはないが、納得はしたくない。
「確かに俺は王子だよ、今の国王の息子だよ。ただ、何度も言うけど俺は一応は王族、ぐらいにしか誰も思ってないし、大体王太子は決まってるんだから俺にはもう目がないし……」
 言いかけて馬鹿馬鹿しさにエルシアンは父親譲りの黒髪をぐしゃぐしゃとかき回した。状況的に言えば自分に将来性などない。母親が誰だか分からない、父もはっきりさせようとしないせいでエルシアンに後援してくれる貴族はいない。影が薄い、という言い方もできるだろう。父と会話したことも、いちいち思い出せるくらいの回数しかないのだ。
 だが、エルシアンが王子だと知ってからのハルナは頑なだった。泣きながらエルシアンをひとしきりなじった後はっとして身をすくめた。それからうたれたように身を折ってエルシアンに平伏した。それはエルシアンにとっては衝撃的なものだった。恋人に平伏されてしばらく茫然と立っていた。どうしていいのか分からなかった。ハルナと心を通わせるのに身分は関係なかった。これからもそうだと思っていた。気持ちがあれば身分というやつを乗り越えることができると、単純に思っていた。
 けれどそれは間違いだった。ハルナの脅え様に後悔し、何度も謝罪し、それでも動かない態度に、微かな怒りさえ感じる。俺が王子で何がいけないんだ、と怒鳴りそうになる。けれど、エルシアンは自分が王子であることを嫌だと思ったことはなかった。たまたま父が国王だっただけで自分自身の努力や才能と関係ないのだと、そんなことを思ったこともない。そう言うのは簡単だけれど、王族という籠を離れて生きていくことがそれほど簡単でないことは分かっている、それも感覚的にだから自分はまさしく温室育ちなのだろう。
「ハルナ、本当に……騙していたと君が思うのも無理はないかもしれないけど、そんなつもりはなかったんだ、本当だよ、だから……」
 言いかけて言葉のないのに気付く。今更言い訳しかできなかった。一度感じてしまった壁を、乗り越えていくことができない。エルシアンには王子という身分を捨てる気など更々ない。それは彼が唯一将来を見出すとしたら、彼を引き上げてくれそうな異母兄の背を追って行けないということだ。あの強い眼差しと超越した実力で側腹にも関わらず王太子を勝ち取った、憧れのあの兄に。
 それは出来ない。きっと、ハルナにエルシアンが王子だということを忘れろというほどに。分かった、とエルシアンは低く言った。簡単に諦めがつくのを自分で笑いたい気もしたが、この見切る瞬間が来るのをもうどこかで分かっていたのだと思った。
「もういい……今までありがとう、楽しかった」
 一段と低く平伏する恋人の小さな肩が震えているのが切ないと思った。けれど、二度と戻ってこないのだ。自分ではそれなりに彼女を好きで大切にしてきたつもりだったけれど、壊れてしまうときはこんなものなのだ。砕けたコップと同じ、慌てて拾い集めても欠片が足らなくていびつな形にしかならなかったり、破片で手を切ったり。そんなことと一緒なのだろう。
 背を返したエルシアンに、細い声が殿下、と言うのが聞こえた。エルシアンは振り返る。手をついたままでハルナは彼を見上げていた。もう、とエルシアンは思った。良かった頃のように、エリーとは呼ばないのだろう。それを出来るくらいなら、別れなくてすむのだ、きっと。
「あの……私、殿下にお会いできて良かったと思ってます……」
 結局それは、別れの言葉だった。エルシアンは頷く。噛み合わない、すれ違う。そんなことをくり返してお互いに傷つけあうよりはいいのかもしれないのだとエルシアンは思い込もうとするがそれほど上手くは行かなかった。
 階下では女将は客の相手をしておりリュードは暇だというように葡萄酒をなめている。降りてきたエルシアンの姿を見て女将がどうだった、と声をかけてきた。エルシアンは黙って頭を下げる。今までありがとうって伝えて下さい、と下を見ながら言うと、ややおいて、女将のそう、という溜息まじりの返答があった。 
「分かった、伝えておくからね」
「はい。……もう、来ません。いろいろありがとうございました」
 エルシアンは深く、もう一度腰を折った。
 外へ出ると既に日が落ちていた。後ろから追いかけてきたリュードがエルシアンの髪をかき回して小突き回し、低くささやいた。
「結局駄目だったろう、俺の言った通りだったな、エルシ」
 うん、とエルシアンは頷く。頷いた途端にまだ間に合うんじゃないだろうかという思いにかられて振り向くが、少女の部屋にはカーテンが引かれたままで誰の影もなかった。吐息を落としたエルシアンの肩を、リュードがたたいた。
「気にするな、結局萎縮するだけなら最終的にお前が妃に取ったならもっと酷いことになってたろうさ」
 妃とは王族の妻の呼称である。貴族でなければ妃にはなれないが、要するにどこかへ養女に入れてしまえばいいのであまり意味はない。妃か、とエルシアンは呟く。結婚や家庭というものはまだ遠くに感じるくらいで身近には感覚がない。それでもハルナのことは断じて遊びなどではなかった。
「俺は……でも、俺が王子なのは俺が決めたことじゃないんだ、リュー」
 そうだな、とリュードの声は穏やかだった。もっと何かを言おうとしてエルシアンは唇を開き、そのまま噛み締めた。今までのことが脈絡なく戻ってくる。記憶の中へばらばらに絵になって降ってくる。どうしてこんな馬鹿馬鹿しいことで、しかし当人たちにとって真剣なことで壊れてしまわなければいけないんだろう。
「どうして……別れなくちゃいけないんだろう」
 リュードはもう一度そうだな、と言った。肩を抱いてリュードがいいんだと優しく言った。
「エルシは運命の女にはまだ会ってないんだ。天運なんだよ、こういう事は。どうでもいいのと長くなることもあるし、のめり込んでも短いこともある。いいさ、あそこで泣きわめかなかっただけでもお前さんにしては合格だよ」
 半分歪んだような笑みを浮かべてエルシアンはリュードを見る。リュードは近衛騎士の子だが、年が同じなのと気が合うので成人する前から一緒にいる。エルシアンの唯一の侍従なのだが、それも彼を王宮に残らせるための方便のようなものだった。
「帰ろう、エルシ。帰って今日は意識がなくなるまで飲ませてやる。好きなだけ飲め、こういうときはさっさと飲んで吐いて一緒に全部吐いちまえ」
 リュードの言葉にエルシアンは頷く。こういうときに側にいてくれる友人がいて、自分は恵まれているのだとそう思った。